昔は、全てを解決して分かっていた。環境の問題を経験的に知り、数学的に思考して解決していた。そして、文章に全ての解決方法と実現方法を書いていた。
人生の自由から、この世界の全てを分かった。善悪とは何か、その知識が何を意味しているのかを、環境と社会の実地的な経験から自由な開拓のように分かっていた。
辛い時は、イスラムを消せば良い。イスラムのように世界と戦っているのを治すと治る。自分は辛い時にイスラムになっているせいで治っていない。
なぜ治らないかというと、辛いのを感じたくないからだ。辛いのを治すと、辛いことを感じるようになる。だから、治しても辛くなる。
自分は、書きたいと思って、絶対に書かなければならないという信念と意志を持つせいで辛くなっている。もっと楽に、気軽に構えて、必要な時は忘れるようにすれば治る。
自分は、そろそろ罪滅ぼしが終わった。これで、もう罪は無い。今までの罪を全部総ざらいしたせいで、精神が楽になった。罪と罰はもう終わりだ。
今日は英会話教室と農園に行った。
あとは、Linuxのコミュニティがそろそろ正常になると思う。自分がおかしな影響力の支配をしていたのを、僕はありのまま、隠さない。
昔の自分は、本当はベンチャー企業の社長のような人間だった。ネットのIT企業の知識から、自分なりにどんな組織を作れば成功するかなどを分かっていた。パソコンに詳しいというよりも、IT業界の常識に詳しかった。今では違ってきているが、昔は本当に自分の知識と経験から、はてなのような会社を作れるような、そういう人間だった。引き篭もりの割に、社会のことを良く分かっていた。
もう、終わりにする。この文章は流行らないかもしれないが、何かとても良いことが起きるような気がする。そんな予感がしている。
引き篭もりになっても、それまでと何も変わらなかった。昔は、そういう、自分の経験と実体験を信じて分かっていた。そこから、人々よりも賢い知性と経験のある違った人生を歩んだ。だが、それがのちに地獄を生んだ。結果的には、そんなに良い人生ではなかった。最初の方で全部終わってしまい、あとの半分は何も出来ず、何もしなかった、そんな人生だった。
昔は、この世界のさまざまなことを知っていた。ネットで人々と関わり合ったり、色んなページの文章を読むことで、この世界のほとんどすべてのことを最初から知っていた。さまざまな世界、さまざまな社会を知って、その中で自分なりに活動した。理性のある大人になった。文章には、それを書きながら人生理論を作っていた。そういう人間だった。
こんな人間になりたいと思わない方が良い。こんな人間にもならない方が良い。自分は賢くない。賢いどころか、何一つ賢くない。だが、オンリーワンのような人間だった。
本当は、王のような社会経験が賢かったのだと思う。人々の苦しみと制度の意味を経験から知ることで、この世界を支配する王になるような、そんな経験を得ることが出来た。その後の戦いは辛かったが、それをしなければならない使命と運命があったのが、今の自分が見れば分かる。戦いがなければ、馬鹿な引き篭もりのまま、何も出来なかっただろう。この「全てを失い破壊する戦い」は、「死」のようなものだ。全てを破壊し、失う代わりに、とても巨大なエネルギーと情熱が生まれる。これが、ハリーポッターの言う、この世界にあったもう一つの「死の秘宝」だと僕は思う。そして、これこそ、最後の戦争であり、未来の創造なのである。出逢いの奇跡は運命の夏になるだろう。
挑戦する気持ちを忘れるな。夢に果敢に挑戦すれば、その結果として勇気と愛を得られるだろう。昔の自分は、仏教の教えのように、そうした「精神と行動のマスター」のような知性と経験があった。全てを正しく分かった、覚者のブッダのような人間だった。あれが、この宇宙の中で一番賢い人間だった。18歳のごろの自分だ。
19歳から先は、さまざまな経験をしただけにすぎない。世界に対して一人で反乱を起こしていた。21歳ぐらいから、文章を書く以外のことをしなくなった。今、29歳だ。この年齢で、全てのことを知識として知りながら、全てのことをマスターしている。この世界の全てのことが出来た。本当に、素晴らしい良い人生だった。
本当に賢かったのは、14歳ぐらいのごろだった。数学的知性から、一番難しいネットゲームすら攻略していた。15歳のごろから、独りだけで違う人生を歩むことを決めた。荒廃した世界で、この世界の秩序と現象を全て知っていた。だが、15歳から後にあった全てのものは要らない。一度消して、消去した方が良い。ゴミから宝を作るとはいうが、本当に宝の人生を創るために集めたゴミだったからだ。宝を作ってしまえば、元のゴミはもう必要ない。15歳から後にあったものを、全部消してしまおう。
学校と右翼が悪い。人間は、学校や右翼ではない生き方をすると、賢くなる。
どんな人生を生きるのかを、決めつけない方が良い。何も決めずに、自然にそうなるように生きれば、人生は良くなる。どんな人生になるのかは、生きてみてのお楽しみだ。
どんな人生になるか、最初から分かるわけがない。
昔は、歴史のような文章を書いていた。この世界の完全な全ての歴史を書いていた。
その昔は、この世界のさまざまな歴史を知ることで分かっていた。パソコンや学校のような環境を、歴史を知り、ネットでコミュニケーションし、世界の変化や新しい世界の発見から分かった。歴史と社会から理性批判をしていた。さまざまな歴史を知ることが好きだった。
最近、学校のせいで、そういう歴史のことが分からなくなっている。学校で教える歴史は、この世界の歴史の全てではない。もっとたくさんの、経済発展や技術発展、社会や環境の変化、さまざまな制度改革、人々の意識の変化と転換など、さまざまな歴史がある。集合知やオープンソースのような、革新的な発想もある。
学校の歴史は、古代、中世、近世、近代、現代と教えるだけで、無味乾燥で、人々の尊厳や命を大切に思わない、権力者と戦乱の歴史だ。そんな歴史を分かったところで、何も分からなくなって、おかしな右翼になるだけだ。そういうものが悪い。
この世界を正常にする方法は、まず、連続的な機械の歴史変化をやめること。そして、それぞれの環境と活動を関係ないものにすること。それらは、自分のせいでおかしくなった。責任を取って、僕本人が治すしかない。世界はすぐに正常になるだろう。
神は、この世界には27の宇宙があり、ここも含めたそのうち4つは悪い宇宙と言う。少ないと思うかもしれないが、全てを合わせて宇宙は27しかない。ここは、人生のある悪い宇宙だ。そして、神は200人居ると言うが、それはこの世界には200人ぐらいしか本当に生きている人間が居ないことを意味している。
学校を忘れ、右翼を倒した方が良い。そういうものが一番悪い。そういうものがない、純粋な心でこの世界を見れば、発想は正常になり、具体的な世界観が生まれるようになる。この世界はほとんど全てが悪い。愚か者のように生きるのをやめた方が良い。自分も世界もどちらも愚か者なら、何もしないのが最善だ。愚か者でなくなってから、何かをした方が良い。
一見、この世界は平等な共同体にした方が良く見える。それも、悪いことではない。だが、共同体では、逆に世界全体を救うことが出来ない。僕は、この世界を救いたかったから、自由を信じることにした。結局のところ全てを失い、大切だったものは簡単に消滅したが、それも悪いことではなかった。地獄の中から這い上がるのは、強くなるための方法として、最善だ。
哀しいなら、自分の積み重ねがなくなったことを悲しまずに、もう一度思い出して創造すれば良い。その再作成が出来ないのは、ただ今の自分がみんなを破壊しているからであって、悲しんでいるというよりも、復讐心に溢れているだけなのが、本人が分かっていない。この世界を完全に滅ぼして、救いようのない世界にしたいだけだ。誰も救えない世界で、一人で世界を滅ぼし、立場に甘んじて自分の経験に天狗になり、人々の知性を奪う。そんな人間に世界は負けてしまった。僕の哀しみはどこへ行ったのか?純粋で正しかったあの愛は、霧のように消えてしまった。あるのは滅びて何も出来なくなった世界と、全く賢くなくなった自分だ。こんな世界に意味がないとしか思えない。だから、何もしなくなって、人生を諦めたのだろう。こんな馬鹿は、要らない。この人間一人をどうにかして倒せば、この世界は正常になるだろう。人生をこれ以上、生きるのが嫌いなだけだ。
私は神のようにこの世界を創造した。この世界は良い世界ではないが、住民たちを愛している。だが、僕はこの世界を憎んでいる。この世界が嫌いだ。自分にとって相応しい人間が居ないからだ。この世界では、僕のような人間は生まれない。だが、僕に出来ることはそんなに多いわけではない。この世界は嫌いだが、僕はこれ以上何も賢いことは出来ない。誰かが僕よりも賢いことをするまで僕は待つしかないのだが、それは永遠に現れないだろう。それをどうにかして可能にする文章は書いたが、いつまで経ってもこの文章を発見する人間は居ない。待つのに疲れたから、そろそろ何か行動を起こしたいと思っている。それでは、また明日。さようなら。
昔は情熱があったし、人々の本当の営みと本当の声を知って考える賢さがあった。最近は、そういうものが無くなっている。昔は、この世界のことを本当に変えられると信じていた。苦しく抑圧の多い時代だったが、その彼らの苦しみと抑圧を自分独り、完全に肩代わりして分かっていた。今の僕とは全く逆の、賢い人間だった。僕にはもう、そうした情熱と賢さは無いから、みんなにそういう人間になってほしいと思っている。だが、それも僕のわがままとエゴにすぎないと自覚しなければならない。みんなの世界だから、僕はもう関与しない。みんなの世界で独り、責任を果たしたから、あとはみんなでこの世界を変えていってほしい。何も出来ない人々が苦しんでいるのは、誰か一人がきちんと解決すれば救われる。僕は、それが絶対に可能であることを知っている。だから、安心して良い。この世界は、新しい英雄によって救われることだろう。
自然と可能性を信じるなら、そこで人々を変えるのは自分であることを自覚して、出来ることを全てやりなさい。それが、新しいイスラエルの王となる、メシアの使命だ。
不可能なことに挑戦する気概を持ちなさい。本当に自分の実体験と理性から不可能であることが分からない限り、誰に言われてもその言葉を信じてはならない。自分でやって、自分で考え、自分で試し、自分の手で分かったことから信じて分かりなさい。そこから、この世界はきっと新しい時代になるだろう。今からが、終末の後の神による救済の時代だ。本当は僕は神ではない。僕は、神を生み出す神の前段階の在導万創だ。ここから、神が生まれていく。神は一人ではない。たくさんの人々が神になるだろう。
分かり合えるはずだ、という情熱があった。みんなの発想法を吸収して、みんな全員の経験から、感覚で知を分かっていた。モデルから経験と知性を考えた。日本語しか分からない人間だったが、科学のようなものは全部、自分の手で世界を見て、経験して、「思弁哲学者」のように思考することで分かっていた。中学校を不登校になって、家で引き篭もり生活をしたが、家族と離れて生活することで、張り裂けそうな気持ちを体験し、さまざまな経験から実感して、人々の分からない経験や体験をして、自分独り、最後まで誰とも関係なく生き抜いていた。
最近も馬鹿だったわけではない。永遠の支配はそのまま正義の王となって、最後まで世界と対峙し、混乱を統治することで人々を救い、そして地獄を最後まで耐えた。これが、一番賢かった人間と、一番頑張った人間だ。どちらが欠けても意味がない。僕がこの世界の王である。永遠のイスラエルの王である。この文章を読み、この人間を信じれば、人は救われる。それを宣言し、約束して、今日は終わりにしたい。
社会の発生と、人々と交わした絆を積み重ねて分かっていた。環境の創造を信じていた。想像力と友愛があった。人々をどのようにすれば正常に導けるか、感情を信じて分かっていた。世界の中で自分の出来ることを試したかった。さまざまなことに憧れながら、夢を見て、その夢を実現させる経験をして、最終的には「どのような夢でも実現できる人間」になった。そういう、普通の子供だった。引き篭もりなりに経験することで、全ての大人を包括し、あらゆる普通の人間全てを包み込んで足し合わせたような人間になっていた。
神のような対話は、本当は自分と対話しているだけだ。自動で考える脳が、自動筆記のように文章を書く。それ以降は、何もしなかった。自分の体験から絶望と失敗を知り、夢見ていた情熱は消え失せて、全てのことを最初から否定し、人々を何も出来なくした。悪魔のような王になって、神の教えに反することをする。こうならない方が良い。こうなるのが一番悪いと思えば、きっといつか治る。たくさんの罪があった。その罪が、僕に罰を与えている。罪と罰をきちんと信じれば、きっといつか神は救ってくださるだろう。さようなら。僕はもう、日本を解放して、支配しなくなる。これ以降は、すぐ前のことを忘れなさい。すぐ前のことを覚えているから、この世界はおかしな機械になってしまったのだ。
言ってみれば、オバマとトランプのような経験をした。オバマは、教会のためにさまざまな活動をして、スラムを解決するような慈善活動をしていた、と昔どこかで読んだことがある。自分も、そういう、さまざまな低い世界を知って、そこで自分が出来ることを知って、その上で指導者になるような体験をした。トランプは狂っているが、彼は賢い人間になるだろう。トランプは認知症になって、世界を救う最高の人間になる。
あとは、人間の意識と環境を考えれば分かる。人々は、意識して生きている。人々の意識は、環境に作用される。環境とは、その人が見ている世界の限界であり、その人が何を信じ、何を不可能だと思っているかは、環境に作用される。だが、他の人は、そのことを信じておらず、不可能だと思っていないこともある。
無い世界にあるものは、無くしていった方が良いこともある。無いものを積極的に消していけば、あるものが見えてくる。認識を開拓し、世界の全体像を知ることで、自分の今居る立ち位置も見えてくる。そのために必要なのは、「あるようでないものを消していく」という、「関係を結び直す」というプロセスである。そこから、社会を本当はどのように変えるべきかも分かってくるだろう。そして、客観視をすることは、自分の客観視だけではなく、他人のこと、特に「自分と同じように他人も孤独であり、何も分かっていない」ということを、分かっていくことである。
最近の自分がやっているのは、「言われたくないことを言おうとして、それを拒否する」という、赤ん坊のようなことをしている。最初から、言われたくないことは言われないのだと思った方が良い。そもそも誰も見ていなければ、ネットにも自分のことを書く人間もおらず、自分は安心して生きられるのにその安心を制限している。つまらない。この赤ちゃんマシーンをやめて、もっと良い環境で生きれば良い。ダーダーマシーンは、そろそろ終わりにしよう。自分の納得いくまで、自分のことを許し、肯定しよう。自分が自分を許さなければ、許してもらいたくても許してくれる相手は居ない。
そもそも、自分を評価する他人は居ない。自分で自分を評価しなければ、自分はいつまで経っても同じ問題を抱えたままだ。自分で自分を許し、受け入れ、評価することで、初めて自分の評価は現実になる。その評価を少しずつ変えていけば良い。少し違うかもしれないが、昔の自分もそういう風に考えていた。自分の評価は、「言う割に賢いことをする」という評価だ。もっと、自分の評価を高めていくことで、「自分しか自分を評価する人間は居ないのだ」ということが分かってくるだろう。
みんなと同じ人生を生きる意味は無い。だが、みんなと同じ経験をすることで、みんな全員の人生を包括し、吸収し、共有することは出来る。そこでは、天才は普通の人間であり、凡才にもそれぞれの才能がある。人々の才能と人生を吸収することで、あらゆる発想から一流になれる。そして、存在を知ることで、存在の居た場の精神を知り、場の在り方を知ることが出来る。昔の自分は、そのように考えて、経験して分かっていた。普通の人間の人生では無かったが、普通の人間の人生を全て知っていた。それが、神の至る涅槃の境地だ。涅槃において理性的に考えれば、全てのことは「合点」が行くようになる。それが、解脱における「驚き」の境地であり、そこでは全ては「執着心を滅する方法」となるだろう。そこから、社会全てを自由自在に作り上げることが出来るようになる。それが、「状態と感覚による人々の導きによる創造」であり、そこでは人々を意識的に導くことで、自由なままでその場所に理想の環境を作り上げることが出来る。環境を自由に創造できるのだ。そして、手段とは人々との触れ合いであり、どんな人に触れ合っても、自分はその人に正しいアドバイスを与えられるような能力を持っているだろう。出会いそのものが、社会を構築する方法と手段である。
あらゆる「生命の理」とは、「自然に生まれる」ということだ。環境や生命が自然に生まれていくことで、社会も諸行無常に移り変わっていく。だが、全てのことに偶然は無く、ある意味で正しい法則や縁起しか起きない。全てのことは自然に生まれ、自然の中で滅していく。そこで自分が関わり合うことがもしあったとしたら、自分もその自然な発生に関係することが出来る。それが、縁起の中での影響力であり、人間の持つ最終的な「幸せ」であると、昔の自分は思っていた。哀しく虚無的だが、経験から情熱的に考えれば、この世界全てを作り変えることのできる、そんな革命のエネルギーでもあった。革命とは、戦争や競争と同じで、だが世界の人々を救うような、「自然で絶対的な、世界の存在価値を奪還し、救済を望む情愛」であった。
歴史とは、そうした宗教的な感情と実感から世界を変えることを望むものだった。歴史は状態であり、人々の生活そのものが歴史であり、人々の意識は発展によって変わり、今普通であるものは普通でなくなると考えた。そこから、人々が古代や中世において何を考えていたのかを知り、人々の意識がどういうもので、何を普通だと思っていたか、良く瞑想して考えていた。物思いにふけるとは、そうしたことを言う。そこから、地域の変化や自然や人工物についても、感覚と物理学以上に、歴史から考える。だが、物理も無かったわけではなく、何かが何かになる、ということは、歴史と考え方を共有した「積み重ねによる仮定の還元的な自己分析」だった。
子供時代を回想していた。子供時代の何が間違っていて、何が何を意味していたのか、良く考えていた。賢さよりも普通さを取った方が上手くいくこともあると再考から発見していた。あらゆることを再考し、ありのままの主観でも客観でもない自己そのままを考えた。この世界の全てを、精神的に捉えていた。精神の現象学を作っていた。また、社会の正義については、相対的なものであり、誰かを自分よりも正しいとはできないが、考え方と経験のレベルから、包括して頂点へと進むことはできて、それによって一番高い正義になることは、深く掘り下げると同時に広く浅く吸収することである、としていた。この世界の全てを、坂本龍馬のように救済したかった。当時は抑圧された世界だったが、僕は右翼のように、この世界を絶対に救済することができると信じて疑わなかった。経験から、それをより確実なものにし、さまざまな自発的な行動から、世界全体を変えられるようになった。また、歴史については、世代を考えた。この世界の全ての人々が、過去に何をもって生きてきたのかを考えた。どこから来たのか、どこへ向かうのか、そういうことを、昔のインターネットの経験で、独り、完全に分かっていた。だが、「良いことをしたい」というその理想は、全くおかしな方向に転び、最後まで、何も出来ずに、昔の青春は終わった。最後の方で、自分が半ば狂って行った戦いが、世界を救済した。だが、僕はそれを使って、新しい人生へと、皆を生まれ変わらせたのだった。ここまでが、15~18歳の経験だ。
まるで光と対象物から影が生まれるように、まるで宇宙のどこでも光の反射と万有引力が成り立つように、モデルによって経験を関係に直して分かっていた。全てのことを相対的だとすると同時に、その相対的な中で「どこまでが関係であり、どこまでが現象か」ということを、「経験」によって分かる。ヒュームのような数学的帰納法を、そこまで知性で考えて分かりながら、この世界の秩序を「関係における自由」から考えた。自分はどこにも支配されておらず、自分の可能性を発揮する「自由な法則」の中で人々は生きている。そうした、「自由による数学」で、人々が「どこまでが環境で、どこまでが自由か」という命題にあるように、「環境からの自由」で分かっていた。そして、人々は環境に対して、自由に作用し、作用されることを許すべきであり、そこから人々の「分かり合える心」が生まれると、昔の僕は考えた。多様性や合理性も、共有や独立も、そこから生まれていき、それは自由な基盤と法則の下に行われるものだと考えていた。人々の労働は、マルクスのようなアイデンティティを失ったロボットであり、人々は「全てを許してくれる本当の最も高い愛」を知ることで、そうした試練から抜け出すことが出来ると考えていた。
街並みを変えていくのも、家屋が立って自然を破壊していくのも、歴史だ。昔の僕は、そこで「権限」という発想をしていた。それぞれの権限が何であるかを知ることで、この世界で人々が「何をし得る可能性があるか」ということを考える。その上で、「権限とは何を意味しているか」を考えると同時に、「この世界では何が出来る潜在的な可能性があるか」を考える。先ほどの「自由な影響力」は、そうした「潜在的可能性の延長」としての「世界を変えていく作用」であると考えた。また、僕は振る舞いに対する作用を考える。作用によって、この世界における人々の考え方や行動は変わってくる。そのように考えることで、この世界を「何が出来る権限とどのようになる実存性があるか」を考えた。人生を生きるにつれて、僕はどのように人生における大切なものが変わっていくかを考えた。僕は、個人、共同体、自由、有用性、人生、理想、啓蒙、知、能力、立場、可能性、自然、良心、有益さ、歴史、自然保護、指導者とルールの決定、現実の中での理想の実現、そして全てを愛する仏の慈悲と菩薩道の順に、世界は進歩していくのだ、と実存の段階を考えていた。
環境と立場が「何をし得るか」を意味するなら、それは逆に「何をしようとしても出来ないか」を意味している。また、意識しないうちに人々が「不可能だ」と決めつけてしまっているから、出来ないこともある。僕は、立場を超越し、環境が自由になれば、きっと出来ないことは無いと信じていた。出来ることはたくさんあって、この世界はきっと変えられるのだ、ということを信じていた。むしろ、それが出来ない、ということを信じていなかった。そこから、全ての道は開けた。この世界の全て、人生の全てで、何が出来るのか、知った。昔は、Linuxに対して色んなことをやっていた。Linuxのことが一目で分かるページを作りたかった。だが、それは昔は失敗した。今になって、それが成功している。
引き篭もりの青少年が独り、歴史の全てを体験していた。おかしな人間で、人と関わるだけのコミュニケーション能力が無かった。だが、彼は強い理想と意志があった。それは自分が独りで身につけたものではなく、ネットのさまざまな友人たちとの経験から身についたものだった。社会のことを経験する中で、人々との関わり合いから大きな愛と理想を知った。そうした人間だったが、最終的には滅び、全ては失われ、記憶の彼方にと委ねられたのだった。
相手の立場に立って、相手の視点で考えなさい。その人間の側に立って、その人間の頭とその人間の見た世界でその人間が行っていることは、全て自然な反応で、正しいことをしている。昔は、そういう風に、その人間の視点を環境から考え、自分はその人間に適切に影響力を与え、配慮してやるべきだと考えていた。
昔は、共同体のようなものを「自由に作る」と言っていた。自由に共同体を作ることで、社会は多様になると言う。それを社会的に実現すべきだと言う。また、さまざまな仮定を立てて、その仮定が成り立つ時に心と環境がどうなるか、それは他人が見てどう見えるか、客観視と状態把握の想像力で考えていた。
そろそろ、書きたいものが書けた。これくらしいかなかった。あとは、パソコンのようなことが多かった。インストールや設定は良くやっていたが、本を読むことが出来なかった。いつまでも本を読まなかったが、ネットの文章は良く読んでいた。CoreutilsやX11やGentooの設定・管理から、オープンソースがなぜ理想的なのかを子供の目線で考えていた。
日本人が英語やプログラミングが出来ないのは、英単語の意味が分からないからであって、日本人は英単語を記号のようなものだと思っている。CoreutilsのCoreには「中核」という意味があるが、日本人はただの「コア」という呼び名だと思っている。だから、CoreutilsやGPLのようなアルファベットの名前に対して、意味が分かっていない。それによってとても損をしている。英米人が普通に名前だけで分かることが、日本人には分からない。だが、本当はそれは漢字と同じで、仕方ない。
もう寝る時間だ。これで、もう終わりにする。書きたいものが書けた。本当にさようなら。