昔は、精神の現象学を作っていた。僕のやるべきことは、一つ、「精神を作ること」だ。
腹の調子がおかしいのは、腹は精神が分裂しようとしている。右の精神と左の精神が分裂する。
精神が分裂すれば、もう楽になる。
夢は、自分の作った世界が見える。本当に、ありえない宇宙のような世界を、文章に書き殴ることで全部作っていた。
精神を分裂させるためには、言葉を分裂させれば良い。人間は、言葉が精神だ。言葉を清らかにすれば、精神も清らかになる。言葉が分裂することで、精神の正常な知性を得られるだろう。
人間は、正しい認識を持つと治る。社会、人間、自分、そして世界に対して、正しい認識を持てば、自然に分かる。
世界が滅びているのは、「滅びている」という認識がないからだ。そこがないせいで、何も分からなくなっている。
怖がらず、「世界は滅びている」という認識を持てば、すぐに恐怖は治る。それによって、世界は正常になる。
自分は、独り、自分だけで良いのが分かっていない。自分を増やす意味がない。
自分を失って、この世界全体に意味を見失った。だが、僕は今、楽になって、正常な精神になった。
僕は勝利した。僕の勝ちだ。
僕は、世界と約束した。「日本人を愛する」「支配と問題を解決する」「生命の根源へと連れて行く」「全てを完全に教える」と宣言した。
宣言は、努力の中で約束に変わった。この約束が、地獄になった自分を救い、導いてくれた。
世界は、近い未来、全ての約束が叶う。交わしたことのない自分勝手な約束だったが、それは「諦め」と良く似た希望の宣言だった。
昔は、潜在的可能性と人生の自由を考えただけだ。
参加出来る機会を与えるとか、社会を構築できるようにするとか、自由を許しながら価値あるものを築くとか、そういう、「自由」しか考えていない。
文章には、経験を全部作っていた。あらゆる経験と環境を知れるようにし、法則を自ら発見出来るような実例を作れと言う。
そういうことを考えていただけで、昔の自分は何も賢くない。最近の方がはるかに賢い。
もう、終わりにしよう。みんな、一度全部忘れてほしい。この世界と僕のいびつな迷宮から解放されて自由になってほしい。歪んだこの町の欲望と愛も、同時に浄化されていくだろう。
いつもの文章は、人生で分かるように分かっていた。人生の実例と世界観を創って、そこからどのようなプロセスで原理を分かっていくかを書く。
本当は、昔は失っていただけで、何も賢くない。だが、さまざまなことを経験した人間だった。その一つがLinuxだった。
さようなら。もう、あなたは自分だけの力で歩めるはずだ。数学的なことを考えると良いだろう。モデルを作って世界を分析してほしい。だが、僕は人々に僕の考え方を押し付けたいわけではない。知性を授けたいわけでもない。僕は、この作品を作るために生きていたと言えるだろう。そして、そのために自分の人生があったと言える。そこに、人々に対する価値観や知性の押し付けは存在しない。あなたは、僕の意図をくみ取ることはあっても良いが、僕の言ったことに束縛されてはならない。それが、ウィトゲンシュタインの言っている「問題の命題の共有」だと僕は思うのだ。本当に相手のことを理解し合って理解した時、束縛は存在せず、全ての問題はただの共有になる。それが、哲学者の理性の境地だ。そして、全ての認識は交わり、全ては単一的な一つであるものなど存在せず、自分は世界全体である、ということが、感性と知性の両方から実感できるだろう。
まず、実体験から考えなさい。自分の体験から行動を起こし、自分の体験のみから考えなさい。
次に、環境への適応を知りなさい。環境がそうであること、その環境に適応することから、その環境で人々がどのように行動するか、自然な欲求と反応から子供たちを知りなさい。
そして、自分が何がしたいのか、その結果どうなったのかを考えることから、行動の意図と結果の対応を知りなさい。手法と結果を知りなさい。
次に、学習と自然な環境の創造を考えなさい。その学習をしている時はどうなるか、その環境が自然にどう変わっていくかを知りなさい。
最後に、世界は変えられるのだと信じなさい。
この世界を変えてきた、歴史の実像と意識を知りなさい。
希望はある。この世界は必ず変えられる。しがらみのようなものを無くし、希望をきちんと実現させる方法を考えれば、誰でもこの世界は救うことができる。絶対に実現できる。
神を信じなさい。必ず、神を信じるものが勝つ。それだけは変わらない。
全てを知りたいなら、今まで自分が知った全てのことを失う決意をしなさい。そして、文章に全てを表現し、創造しなさい。地獄の中で、自分が本当に願うことは何なのかを、考えず、疑わずに知りなさい。必ずそこから、全てを創り出す情熱のエネルギーが生まれるからだ。それが、最終的なあなたのあなたを創造する段階だ。
国のことを考えると良いだろう。モデルから、国を作れるようになりなさい。工場や配給制、公務員や下請けのようなことを賢くしても良いだろう。だが、本当は社会主義に必ずしもこだわる必要はない。昔から言われているだけで、賢いわけではない。だが、一度平等な世界を知ることで、人々が何を知らないのか、何に迷い、何に苦労しているのかを知ることができるだろう。実体験から世界を支配し、実体験からこの世界の何が問題なのか、人々はどのように生きているのかを知りなさい。何を実現すれば良いか、きちんと自分の頭で考えられるようになるだろう。それは、可能性を一切排除した、全てのありのままの世界を「知っている」という経験だ。
この世界の全ては、ある存在や事実だけではない。「可能性」と呼ばれるものを合わせた時、初めてこの世界には「意味」が生まれる。この世界の意味は、可能性を創造することだ。学校で知識を教え、人々を奴隷にする中で、可能性を排除することは学んでも、可能性を創り出すことは学ばない。だから、本来は可能性を学ばなければならない。そこから、精神病の原因である「全てを知った知性のない人間」を治すことが出来る。それは、可能性を可能性に戻せば良いだけだからだ。
ネットで社会経験を積んで、知性の捉え方を考えなさい。だが、それはある意味、可能性というものの限界を少なくしているだけだ。本当に精神のことを治したいなら、可能性の限界を大きくしなければならない。僕が思うに、それがキリスト教の神だ。
もう、終わりにしたい。これ以上、僕は何も書かない。あとは、みんなの手で考えてほしい。
宣言を破って、最後に一つ書く。僕は、GNOMEのようなLinuxのデスクトップ環境は、設定項目を増やすことで「どんな挙動も可能になる」ということができると思う。それが一番Linux的な発展の仕方だと思う。たとえば、FTPのミラーリングアップロードなどの時、今のFTPクライアントでは全てのディレクトリを比較するが、これはそれぞれに設定ファイルを作って、新しく変更された時にだけチェックすることも出来ると思う。GNOMEは、カーネルのファイルシステムと統合して、そのような「あらゆる挙動を可能にする」ような、そういう環境になれば良いと思う。
そして、僕はこれで本当に何も書かない。お別れになるかもしれない。だが、それも本当は守らなくて良い宣言だ。だから、きっと明日も書くだろう。また、明日。