精神は、肯定でも、否定でもなく、次元の違うことを考えれば治る。
戦うのでも、戦いをやめるのでもなく、別の戦い方をすれば良い。
頑張るのでも、頑張らないのでもなく、別の頑張り方をすれば良い。
自分の精神は、二択で選択し、どちらかを選択しなければならないと考えるせいで、おかしくなっている。もっとどちらでもない選択肢を作れば良い。
精神の病気を治すためには、それが一番良い。
人間は、赤ん坊として生まれてきた時に、二つの人生を創っている。
最初の人生は、良い人生だ。二番目の人生は、悪い人生だ。
だが、普通、人間は、最初の良い人生を生きることはない。それは、良い人生を生きてしまうと、何もしない人生になってしまうからだ。
誰もが、二番目の悪い人生を生きている。辛く、苦しい人生を生きている。
だが、この日本という国では、みんな、二番目の辛い人生が終わってしまった。
だから、いよいよ、最初の良い人生を生きる時がやってきた。みんな、最初の人生を生きるようにしよう。赤ん坊に戻った気持ちで、新しい良い人生を生きよう。
それによって、日本人は救われるだろう。日本人はもう、神に召されたのだ。
日本は、神によって唯一天に召された国だ。
僕は、数学だけをやっていない。もっと、数学のことがやりたい。そして、宇宙のことを知りたい。
数学は、学校でしない方が良い。自分の独自に、学校とは関係なくやった方が出来る。
大学は悪い。数学は、大学のない子供が出来る。大学をやっていると、その方が数学が出来なくなる。
学校の知識と経験を無くした方が良い。一度、記憶と経験を全部消せば良い。そうすると、子供のようにこの世界のありようを考えられるようになる。
学校は悪い。学校は、子供から純粋な知性を奪っている。
学校を無くして考えると、単純な対応関係と法則が分かる。学校に入ると、そういうものが分からなくなる。
植物が種から生えてくること、太陽によって生物が生きていること、細胞という小さな物質を誰かが作ったこと、全て、学校なんかない方が分かる。そういうところが馬鹿になると、子供は馬鹿になる。
学校で教えられて考えるのではなく、自分から自発的に、自分のきっかけと自分の経験から考えなさい。自分の頭を使って、人々のしない経験をして考えなさい。
科学が必ずしも悪いわけではない。数式で全てのことは分かるだろう。だが、そうした考え方や発想は、学校で数学をした方が分からなくなる。
まず、状態から考えなさい。たとえば、車が動いている、止まっている、とか、人間が生きているとか、そういうことから考えなさい。
自由を許しなさい。相手を自由にさせてやることで、相手は自分から行動する必要があるのが分かる。そして、人々が今も、同じように生きていることを知りなさい。人々はそれぞれ違った環境の中で、同じ世界で生きている。そこでの関係や限界を知りなさい。そこから、自分が本当に何が出来るのか、「機会」という原理の中から知ることができる。
要は、本当にみんなと違う人生を生きた方が良い。みんなと同じからは逃げ出して良いが、みんなと違う試練には向き合わなければならない。みんなは、普通に馬鹿だからそうなる。みんなと同じ人生なんか、生きない方が良い。自分の夢を追いかけて、試練には何度も向き合って立ち直るのが良い。そういう、賢い人間には良いことがある。みんなが嫌いなら、学校なんかに行かなくて良い。みんなと違った道を追いかけて、その上でみんなを自ら変えていく人生を、人は王と呼ぶ。苦しみを自分から受け入れて、逃げ出したくても耐える人間は、必ず神に愛されるからだ。
本当は、失うことは悪いことではない。失ったものばかり見ていても、何も始まらない。逆に、得られたものや増えたものの方が悪いことがある。そして、今失った状況よりも、元のあった状況の方が悪いことが多い。元あった、学校やパソコンの方が、今自分のやっている執筆などよりも、はるかに馬鹿だ。だから、失ったものなど考えなくて良い。むしろ、失うことを良いことだと思いなさい。減らしていきなさい。減らして、失って、消していけば、人間の人生は賢くなる。こんな根拠を信じても意味は無いが、全てのことは少ない方が賢い。なぜなら、それと同時に、何も知らない、バックボーンが何もない子供の方が、全てを知っている大人より、この世界を賢く分かっているからだ。だから、全てのことは消していった方が良い。
すぐに信じるな。おかしなものをすぐに信じてはならない。最後まで信じずに、最後まで疑い続けなさい。そして、同時に、根拠を考える癖を付けなさい。根拠がないものは信じないようにしなさい。何かが正しいなら、その正しいとされる根拠を考えなさい。そこから、何が何から成り立つか、構造的に推論出来る「自分で考えられる力」を得ることができる。だから、根拠がないものは、信じないようにしなさい。自分が今何を信じているのか、常に考えなさい。信じるべきは、他人ではなく、良く考えられた自分であることを知りなさい。
経験から信じるのはやめなさい。そんなに自分のことを賢いと思うのはおかしい。むしろ、経験を疑うようにしなさい。騙されている人間は、自分の経験から「これは正しいはずだ」と思う人間が多い。それも、「自分は特別な経験をしたから、これがこうであることが分かっている」と考える人間が騙される。一度、そうした、「宗教的な地獄から分かる」ことを疑った方が良い。完全に、良くあるおかしなことを信じて騙されている。嘘ではないが、正しくもない。経験的に考えることは、逆に色んなことを分かるとっかかりにはなるだろう。だが、そこから分かった知識は、でたらめで、偶発的で、醜い。人々よりも自分の方が分かっていると勘違いしている。
本当は、そうした宗教は悪いわけではない。特別な経験が出来るし、本当に人々よりも賢い人間になる。宗教を否定しすぎるのもやめなさい。宗教は賢い人生になる。
経験を疑うことで、常識よりも正しいことを常識に付け足して分かることも出来る。人々が安易に正しいと思っていること、自分が過去に安易に嫌いだったことを否定し、否定から肯定を分かっていく。大人とは、そういうものだ。だが、何も信じられないようにならないように注意しなさい。
おそらく、失敗を恐れなければ、社会のことは知れる。この世界が具体的にどうなっているか、自分の経験から分かるようになる。パソコンやインターネットのことを勉強し、調べれば、Linuxのことも分かる。だが、そうした「恐れることを知らない人間」は、悪い人間であることが多い。臆病なのは悪いことではない。恐れる気持ちがたくさんあった方が、人間は良い人間になる。神を信じて文章を書く人間は、恐れる気持ちが多く、またその時その時ありえないことを常にやっているせいで、賢い人間になる。恐れる人間に恐怖は与えない方が良い。恐れる人間は馬鹿ではないからだ。
そもそも、恐れない人間は、自分の問題を解決しようともしないし、怖いことを努力することもしない。自分を過剰に信じるせいで、悪いことを繰り返し、それを良いことだと思い込むようになる。恐れる人間は、逆に、常に努力して問題を解決しようとする。そこから、悪いことを今まで自分が思っていたよりも正しく、悪いと認識するようになる。結果的に、良い人間になる。それだけではなく、常に努力しているせいで、賢い人間になる。学校にも、作家にも、そういう人間が多い。一度楽な環境に逃げ出すことは悪いことではない。だが、十分楽を感じて十分経験したら、みなの争いごとの世界に戻って、活躍するべきだ。そのために、恐怖はあった方が良い。恐怖は問題を知るきっかけになる。その問題を解決するためのモチベーションにもなる。恐怖は上手く使うことで、自分に本能的な問題を告げてくれる。それをどのようにすれば良いか、解決の方法まで、恐怖は全て教えてくれる。だから、神を信じる、という体験は、恐怖を上手く使う、という方法と同じなのだ。
本当は、この世界を変える、ということは、良いことでは全くない。みんな、それぞれ頑張って生きているのに、いきなり世界が変わってしまうと、混乱してしまう。混乱を与える人間は、悪い人間であることが多い。逆に、戦う人間は良い人間になる。世界は平和で、誰も戦っていないように見えて、本当は常に世界は戦争状態で、常に敵と戦っているからだ。世界を変える哲学者よりも、戦争の兵隊の方が賢い人間になる。そうした体験を一度したら、むしろ、何度もそれをしたいのが一番悪い。だが、そうした「執着心」から分かる人間は多い。それなら、自分の責任で戦えば良い。それが一番おかしいとは言うが、えてして、まともでない狂った人間の方が、賢いことを成し遂げるものだ。まともなことを言っても、何も分からない。自分から悪い人間になれたら、誰でも哲学者のマスターになる。可能性を「かもしれない」と考えることは、本当は思い上がりなのだ。その思い上がりが、素晴らしい体験を生み出すだろう。
戦いの世界から離れ、執着心を棄てれば、誰でも賢い人間になる。今までの自分の得たもの、築いたものを、一度全部壊しなさい。捨てなさい。そうしたものは、本当は要らない。今の自分を変えなさい。そのことが、逆に正しい綺麗な精神を作り出す。その綺麗な精神が、この世界の正しい捉え方を教え、実現可能で実現すべきである理想と現実を教えてくれる。
ゆがんだ欲望を正し、相手のことを愛する気持ちを持つことで、理想を知り、理想の実現方法を知り、なぜこの世界が恐怖と不安に陥っているかを知ることができる。そのために、方法を考えなさい。ある意味、仏教の四諦と良く似ているが、正しく苦しみを滅するだけではなく、創造的に理想を追求していく精神が必要だ。
荒くれた現世の戦いの世界から離れることが、逆に現世での経験を積むことと同じ結果を生み出す。結果的に、世界の全てが変えられるようになる。だから、戦いと争いの世界から、一度離れなければならない。現代の不登校や引き篭もりの子供たちは、仏になれる可能性を持っている。きっと、マスターがたくさん生まれる。そのマスターが、この世界を変える「指導者の集団」となるだろう。完全におかしくなった世界は、人々から差別され、嘲笑されてきた人間たちが救うのだ。
要は、本当に、一度争いや戦いの世界から離れて、理想の実現方法をきちんと考えた方が良い。ネットはしたいならすれば良いが、それが文章を書くようになる引き篭もりが多い。当たり前に、これからはそういう引き篭もりが世界を救う。そのために、引き篭もりがどんどん地獄になって悪い人間になっている。だが、それは本当は悪いことではない。きっと、この世界は希望の世界になる。何か、一つのことを、学校に行かない中で最後までやれば良い。Linuxでもお絵かきでも良い。そういう人間が、絶対に世界を救えるようになる。僕は信じている。この世界は、そういう引き篭もりが救う。
本当は、ネットの経験は悪くない。ネットで友愛と創造性を経験すると、自分の力で自由に生きられるようになる。昔の僕は、その上で、一通り人生を経験したに過ぎない。そういう人生を良く書いていた。だが、それはネットでしか出来ないわけではない。普通に、高校で青春を経験すれば、誰でもそういう風になる。よって、ネットは必要ない。むしろ、最近はネットの方が問題がある。SNSによるいじめなどが増えているし、Linuxもつまらないほど馬鹿なものになっている。ネットは必要ない。そもそも、Linuxがすぐに消え去るのは当たり前だ。その時点で、僕と同じ経験は出来ない。それなら、同じ人間が2人現れるよりも、自分だけの人生にして、二度と現れない方が良い。その方が、自分が強くなって、世界の中で一番賢い人間になる。それ以上は自分だけが賢くなる。僕は、そういう、ネットで賢くなって、そのネットを自分から破壊した人間だ。
昔は、考えるだけではなく、行動から実践的に思考していた。自分がそれをしたら、どうなるのかを、相手や社会の視点に立って考えなさい。自分がそうであること、人々がそうであることが、何を意味しているのかを考えなさい。今の自分が出来ること、過去の自分が出来たことの可能性を考えなさい。そこから、機会を主体的に考えられるようになる。また、アイデンティティとリアリティの両立が分かるようになる。確かな幸福を信じて、それをきっと実現できると思いなさい。
自分は、副交感神経がなくなっている。自律神経が、全部交感神経になっている。それは、副交感神経になると、死ぬからだ。だから、副交感神経の部分を増やして、死ぬようにすれば治る。それで生きていれば良い。
世界のことを、歴史的に、奇跡のように考えなさい。その歴史上のことが、本当に確かにあったのだということを、実感から知りなさい。経験は、世界の裏側を全て把握し。知性と知識を全てどのように得られるか把握することから行いなさい。それが自分が出来るということが、この世界の可能性を意味していることを知りなさい。環境のその時の状態が何を意味しているかを知り、その環境がどのように変化し、別の環境になっていくかを知りなさい。幸福を実現するためには、何をどのように解決する必要があるかを知り、環境と人間の問題を解決することから、社会を実現できるようになりなさい。そのために、それぞれのその場合の思考を行いなさい。思考がいつ、どのように生まれるかを知り、精神の現象がいつどこでどうなるのかを知りなさい。
中学生の知性があれば、どんな状況や環境で、どんな現象や過程で、どんなことが起きるのか、それはなぜなのか、考えて知ることができる。それによって、全てのことが論理的に分かる。現象の成り立ちや奇跡の成り立ちがどのように起きるのかを知ることができる。そして、その後にそのまま考えることで、全ての世界の原理は解明することが出来る。哲学を自分で創り出せる。手段と機会から、全てを主体的に考え、自分の行動と経験から、人々の可能性と実現性を知ることができる。世界を把握することで、労働全ての経験を知ることができる。精神分析によって、宇宙と精神を解明し、マスターの経験論を知ることができる。そこでは、この世界がなぜ、どうなるか、全て分かっている。全てが本当に分かる。具体的なプロセスから場合場合の状況まで、全てを経験一つで理解出来る。自分は唯一の存在であり、人々は愛されるべきなのだ、という実感が分かるだろう。可能性から、人生とはどのようなプロセスなのか、全貌を知ることができるだろう。
潜在的な実現可能性と関係から生まれる発想を知ることで、この世界で何をすべきか、何を実現すべきか、どのようにすれば何が実現できるか、モデルや経験から知ることができる。考え方を自分で作り、社会の認識のデータベースを吸収することで、この世界で何でもできるようになる。そこから、王のように、この世界を導けるようになる。その王は、少しずつ高くなっていき、最初は虫だったものが、最後には宇宙全体、あるいは神になる。そうしたプロセスから、この宇宙は創造される。毎日一つの生命を作り、それは宇宙生命の全パターンとなる。
発想法を創りなさい。経験から実現しなさい。昔の文章は、そうした、この世界における発想法と潜在的可能性を書いていた。全てのことを実現するために、一つ一つの環境を積み重ねて、全てのことが出来るようになる。そうした、「自由な実現性」のプロセスを書いていた。そこでは、手段から機会が生まれ、学習から人生が生まれた。考え方はパターンとなり、自然は支配と同じことだった。社会は環境から生まれ、生命は人生から生まれた。そうした、「相対的な環境と共同体の創生」のようなことをいつも書いていた。
昔は、その環境がそうなっているということが、既にある種の手段であり、機会であると考えていた。そして、環境それぞれにどのような状況と支配性があるかを考えていた。環境が何から生まれ、どんな決まりの下ではどんな環境になるかを考えた。そして、その決まりはどこから生まれ、何を根源として発生するかを、自然と経験から考えていた。
その環境や状況が意図してそうなっている場合もあれば、意図せずにそうなっている場合もある。実体と目的は常に離れていて、一緒になることは無いが、出来るだけ意図に合わせた方が良い場合もあれば、そうでない場合もある。逆に、意図しなかったことから、ほとんどの歴史は生まれている。遡って考えることで、今の時代において昔の時代と心や視点を同一にして考えられることもある。昔の自分は、そのように社会や歴史を考えていた。そこから、ハイデガーのような現象学を作っていた。
経験の全てには根拠があると考えていた。逆に、根拠が経験を生み出すと考えていた。むしろ、根拠がない場合も無いわけではない。その場合には、無い、とされる根拠がある。説明は難しいが、経験には発生の前にあった何かの「事前経験」がある。そのように考えることで、形而上学的に、「公理」のように経験から経験を考えていた。経験が経験を生み出す、と考えて、「必要経験」の全てを知っていた。そこから、この社会の全ての全貌を、理性のみから分かっていた。この世界の全て、人間の全てが分かった。
具体的な社会もある意味で経験であり、社会の創生条件も経験であり、理性も経験であり、数学も経験である。そして、経験は公理的なスーパー経験を持っている。昔の自分は、そういう、「公理スーパー経験」で分かっていた。そのように超越的に分かることで、この宇宙の歴史の全ての実像が分かった。カントのような様相も、デカルトのような考え方の発生も分かった。それ自体、哲学者というよりも、全ての哲学者を超えていた。
他人の経験と意見を吸収し、客観視と自由から分かっていた。ある種の精神分析の自由から、科学的な学問を基礎の考え方を作ることで作っていた。この世界の全てがどうなるのか、理性批判と三段論法で分かっていた。楽しい時代だったし、人々も良い人間が多かった。それらとの自由な関わり合いの中で、僕は成長した。だが、もっと偉大なことが後で出来る、ということに気が付かなかった。その後に、僕は王になった。そして、人々全員を導いて、この世界を平和な世界のまま、理性を高めて、自分のできることを全てやっていた。何もしない王の逆をやった。宣言を上手く使うことで、「それほどまでに完全にすべてをするのか」と言えるほど全てをやっていた。この世界を「絶対に全部変える王」になった。全ての現象を起こした。全力で支配した。
社会がどのように出来るのか、人間がどのようになっているのか、全部自分の経験と、自分から考えた思考で全て知っていた。それが、永遠と言う名の永い時間を作り出した。本当は永遠ではなく、死ねば終わってしまう。だが、自分は一秒を一年にし、時計によって時間を長くすることで、何億年と生きる経験をした。そのことが、とても良かった。そして、時計は天使となって、最終的には可能性を全て創った。日本語が分からなくなった代わり、自分独自のドイツ語の日本語を作り出した。神と対話し、神は僕を導いた。僕は、そのように、ドイツ人のイスラム教徒になって、永遠を生きる女になった。これが、僕の作った、僕の理想の女性だ。
発想をパターンにしながら、社会的可能性を考えた。多様な社会、宇宙人のような社会、共有された社会、独立した社会、参加と報いを還元的なシステムにする社会、平等だが正しい社会、など、さまざまな社会的可能性を、パターンから考えた。だが、好きだったのは、自由だった。その自由、それぞれの自由、全てを成り立たせることのできる、包括された、そして完璧な社会を作っていた。キーワードは「可能性」だった。あるいは、柔軟性と言っても良いかもしれない。それは社会的哲学だけではなく、人生哲学の範囲にも及ぶものだった。自由から人生の全てを、ジグソーパズルのピースを埋めるように分かっていた。それが僕の言う自由だった。ワンピースの言う、ひとつなぎの秘宝に近いものだった。
経験から、「本当に美しい体験」を知っていた。本当に美しいものを知っていた。あれはそういう人間だった。そして、それは一番醜いものだった。
実地的に社会を知った。みんなの実存性から、この社会がどのように営まれているのかを考えた。経験から、概念を分かっていた。普遍的な社会とは何なのか考えていた。
抑圧と苦しみから、自分でどのようにすれば人生を這い上がれるのか、経験から知っていた。分からなくても分かる経験をした。
手段と意図を知り、そこから、何からどのように社会経験が生まれていくかを知っていた。言語から経験を考えていた。
哀しいことに、もう、これ以上書くことが無い。むしろ、もう、書きたくもない。得られたものをすぐに失い、自分を守ろうとした自分の手が自分の視界を遮っている。これ以上、何も出来ない。僕はもう、何も出来なくなった。
昔は、その時何が出来るのか、という発想が多かった。この世界の環境を見ながら、環境に対して、その時何が出来るのかを考えた。そこから、人々を導き、教えられるようになった。人生がどうなるか、なぜそうなるか、全て外側から分かっている、本当に恐ろしいゲッベルスのような人間だった。
善良な理性はあった。善良な世界を、自分の力だけで作り、また導ける人間だった。むしろ、考えて実現できるだけではなく、実際に実現するための行動をした。それが、僕の言う「菩薩の戦い」だ。最終戦争の地獄の中で、僕は何か、綺麗なものを見出した。それは自分の場合によらず、いつでも綺麗で、美しいものだった。それを得るために、僕は自ら死んだ。それ以後の自分は、僕の人生の最後まで続く、永遠の天使の精神へと変わった。天使は明るくて、チャーミングで、しかし恐ろしいほどの力を持った、子供のような存在だ。それで、この物語は終わりだ。みんなも、世界の全てを把握することのできる理性と経験を得ると良いだろう。だが、理想の世界を作るためには、悪を許し、吸収することも必要だ。だからと言って、自分が自分から悪になることを、受け入れないでほしい。悪を許さず、苦しみを与えることを拒絶してほしいのだ。それで終わりにしよう。一通りのことは書いた。これで、終わりだ。
この文章は、純粋で、混じり気のない、絶対に何にも汚染されない精神だが、本当は何かを見て受け入れるとすぐに消えてしまう、弱くて捉えどころのない精神だ。何かの歪みによって、すぐに壊れてしまう。だから、大切に守らないといけなかった。僕だけがこの精神を作ることができた。そのことを、幸せだと思う。そして、それが全ての不幸を生み出したことに、後悔している。ありがとう。神に感謝を告げる。
本当は、昔は社会と一緒に、汚れたものの中で一つの正常さを見いだした、ドブネズミのような人間だった。全てが汚れていて、汚かった。本当にそういうものが嫌いな人間が多い。昔の馬鹿は、そこから一番美しい、「純粋な精神」をやはり作っていた。その二つの精神は、黒と白、陽と陰で、絶対に負けることが無い。この2人が居れば、宇宙にすら勝てる。僕がガブリエルだ。
もっと、世界のことを知った方が良い。僕は、この世界について、何も知らない。世界と関わる勇気、今の社会の現実を見る勇気を持たなければならない。
昔の世界は悲惨だった。みんな、何も出来ず、ただ滅びながら滅びゆくものの後ろを歩いていた。今の世界では、もう、何も分からなくなった。この世界は本当におかしい。
だが、昔は良かった。多様で楽しい環境がたくさんあり、賢さと友愛があった。今の世界では、そうしたものが無い。
滅びゆくこの世界を、どのようにしたら良いのか。だが、本当は、そんなに悪い世界ではない。この世界は良い世界だが、みんなは何も分かっていない。狂っているが、良い世界になった。僕は、結構、そういう狂った良い人間をどのようにすれば治せるか、経験的に知っている。分かることは重要ではない。少しずつ、受け入れていくことが重要だ。そのように周りが愛してやれば良い。少しずつ、否定を受け入れていけば、必ず分かる。今の狂った社会は、それで治るだろう。
昔は抑圧が多かったが、最近は抑圧は少なくなった。むしろ、解放しすぎで、愛が無くなった。昔の方が、愛は多かった。世界が馬鹿なのは、愛をどんどん失っているからだ。賢くなるためには、愛を大きくする必要があるだろう。
あとは、全てを解決している「解決者」が多かった。この世界の全てを解決していた。だが、今の社会は、むしろ、「解決しすぎ」だ。解決しすぎて、社会の実態が何も無くなっている。もう、何もない社会になっている。だから、むしろ、抑圧を加えてやった方が良い。全部解決すると、社会は痴呆になる。それを直すためには、抑圧を加えるしかない。
もう、社会は正常になる。自分の間違いは、「解決してしまった」のが悪い。そのせいで、社会は異常になった。逆に、何を解決しても、「これだけは解決できない」ような、そういう「絶対に解決不可能な悪」を作り出した。それが僕だ。なぜなら、全てを解決して、その上で滅ぼしているから、何も分からなくなる。この人間はそこが狂っている。頭がおかしいのだろう。最初から、こういう人間はこういう風になる。解決するのが一番悪かった、ということだけが分かっていたのが、昔の僕の言う「自由」だ。自由に戻ってほしかっただけだ。
世界がまた始まったから、もうこの文章は終わりだ。世界はもう、良い世界になる。解決できないのに解決しなければならないせいで、世界が良い世界にならなくなっている。もう一度、最初から世界をやり直すしかない。それによって、解決してしまった解決不可能は、全て治るだろう。解決させたかったのは僕だ。
あとは、社会の具体的な変化のようなものを、ネットで分かっていた。全員がなぜそれをするかを分かっていた。
自分が全てを失うようになったのは、中学校で全てを失ったのが悪い。友達を失ったのが辛かった。勉強しても意味を見出せず、学校に行かなくなった。とりあえずのモデルは、価値があるように見えて、本当は価値のないものだった。それを自分で破壊したのは、狂っていたように見えて、本当は中学校の頃の時代に戻りたかっただけだ。
最近は、何を失っても怖くない人間になった。全てを失っても何も今と変わらない。何も行動せず、何も作らない。ピアノやデザインや英会話をやっているのは良いが、練習や特訓のようなことはしない。むしろ、文章を書きたいのは、その書いている間だけ、昔の自分に戻れるからだ。
過去の自分に執着するのは、過去に僕のことが好きだった僕の友達が、僕のことを覚えてくれているからだ。今でも好いてくれている元友達が多い。だから、本当は過去の何かに価値があると言って探しているのは、中学時代の友達のことを探している。夢の中で友達や剣道が見えるのも、夢を見ている間だけ、その時代に戻れるからだ。パソコンが夢に出てきても、それはWindows 7や10ではなく、いつも2000やXPだ。僕は過去に執着する人間になったが、失うことは怖くない。何もしたくない。
僕は、本当は、既にもう死んでいる。このまま、きっとすぐに死ぬ、と思っているが、それはいつまでも訪れない。今から、何かをしたくない。今から何かをしてしまうと、今までの時間に意味がないことになってしまう。だから、思い出を綺麗に、そのままで取っておきたい。失うことは怖くない。だが、思い出を汚したくない。最近の僕は、そういう人間になっている。大人が馬鹿なのは、全てを失った上で病気になるからだ。大人なんか何の意味もない。だが、僕は大人になりたかった。今の自分が、一番理想的だ。