新・日記2に戻る | 2018年3月の日記に戻る

=2018-03-30=

昔は、疑うこと、認識すること、応用すること、見方を変えること、経験すること、実験すること、人々の話を聞くこと、などから来る、「正しさと世界観の広がり」のような文章を書いていた。

その正しさがどこで成り立つか、その真理が何を意味しているかを考え、世界のことを事実から多角的に考え、また学習から人生のさまざまな場面を考えた。

ネットの経験から、人々との友愛を知って、大人になっていくプロセスを書いていた。まともな大人として、経験から何が分かっていくかを解き明かしていた。

人間は、愛がある人間が賢くなる。

愛を信じると、楽になる。

愛を大きくすると、賢くなる。

愛を増やすと、精神が治る。

人間は、愛の生物である。子供が賢いのは、子供には愛が多いからだ。愛を大きくしていくことで、子供の成長のように心を成長させることができる。知的障害は、愛を大きくすれば治る。

発想を豊かにし、創造性を高めることで、社会はいくらでも改善できる。それはそれで、社会の発展である。そのために知恵を集め、成果を結集させることが出来る国が、日本だ。

パソコンやオープンソースのように、作った成果を共有して、それぞれの自由にしなさい。それぞれの自由にさせながら、共有する社会にすることで、友愛と創造性のある社会になる。昔の僕は、そういう、「慈愛あふれるオープンソース社会の自由な共有」を書いていた。それが、僕の第一の思想だ。自由を与え、公開し、手段を共有し、みんなで決めながら実現しなさい。愛のある人間なら、誰でも賢くなれる。その上で、想定と把握をしながら、世界の在り方と社会が作られていく過程を考え、知りなさい。

みんなの愛情を高め、それぞれの愛を大きくしながら、それぞれが自由に自分らしく活動し、それぞれの成果を共有して文化を創り出す社会、それが正しい世界だ。人生における自由は、自分の興味と関心から決めなさい。誰かが押し付けたものではなく、ただ自分で機会を得たきっかけから、自分のやりたいようにやれば、おのずと、自分の力で未知の世界を開拓して、道と人生を創っていき、この世界の全ての創造の方法を分かり、人々が何を経験しているのかを知り、そして自分が出来るように人々も出来るだろうということを信じ、最終的には「何も悪くない形で世界を変える」ということをする。そこにある、人生の美とキリストの体験を知りなさい。

僕がこちらでやったことは、精神分析による神の創造、心理学的な社会の創造、生態系としての環境の創造、星の創造、歴史の創造のような、「一番根源にある大きなものを創造した」ということだ。

愛を信じなさい。昔は自由で平等な愛を信じていたが、フランスのような「自由、平等、博愛(友愛)」の精神は、全く正しい理想である。ドイツの、キリスト教や哲学の理想はこちらである。こちらの思想は間違っている。ドイツは、全く逆のことを正しいと信じている。正しいのはフランスだ。愛を信じなさい。愛すれば、その対象のことを自分の中に吸収出来る。

心の世界では、生き物ではないものと生き物の間に区別はない。ものに命令しても良い。きちんとした正しい方法で命令すれば、ものは従う。それは、ものの中にも神の精神が宿っているからであって、従っているのは本当はものではなく、神である。だから、神との対話は誰でも出来る。きちんと神に正しい方法で命令すれば、神はいつだろうと、誰だろうと、どのレベルのものだろうと、それに応えてくれる。神は気まぐれで意地悪だが、愛してくれない時は無い。神は完璧であり、自分を憎むものすら愛する、完璧な愛を持っている。神の行動は、いつも誰よりも正しい。誰よりも正しい方法で、自分のことを愛してくれる。

神が起きるわけがないとは言うが、不思議と、神は信じると本当に起きる。気づかないようにしているだけで、神はいつでも、いくらでも起きている。盗聴や盗撮がされているようで、誰もそんなことはしていないのに、神はさまざまなツールを使って僕たちの生活に割り込んでくる。ありえないことをしている人間には、処罰と同時に応援が起きる。神は自分のことを愛してくれる。決して陥れることはしない。だが、自分から悪いことをしている人間には、神は復讐する。助けるのも神だが、傷つくのも神だからだ。

人間はそれ自体馬鹿だから、普通に友達を作ったり行動したりしていると、すぐにしがらみだらけになって何も出来なくなってしまう。社会に参加する、ということは、同時に環境に束縛されることだ。昔の自分は、しがらみのないインターネットと呼ばれる環境で人々と匿名で付き合うことで、全ての環境と全ての経験を知り、全ての人間を融和させて分かっていた。また、自分で考え方を作り、自分が出来る可能性をそのままで残すこと、保持することで、全てのことが出来て、分かるようになった。昔は、そういう風に壊れていたが、壊れていた代わり、本当に賢い人間だった。神のようなものから生命のようなものまで、精神を分析することで全て分かっていた。自由を分析することで、「見えるものと見えないものの関係」を経験的に分かっていた。それが、僕の言う、「自由な可能性」だ。

昔は、自然な人生経験がどのように生まれるのかを分かっていた。人々と関わりながら、人生を発生学的に分かることで、この宇宙の全ての「自然なプロセス」を分かっていた。そこから、体験的に「自然状態」と「自然条件」が分かっていた。そして、自分の力で、この世界の彩りを考えることで、マルクスのような経済学を自分で作っていた。ネットでは、子供の発達のような心理学的なことや、教育的・実際的・スラム的な社会学的なことを読んで、また世界を広げて分かっていた。子供だったが、昔の悲惨な時代は、自分が変える、ということをどこかで分かっていた。だが、何が実際に起きるのかは知らなかった。可能性と宿命だけを、精神のどこかで知っていた。

RADWIMPSが恋人に言っているが、僕と君が出会えた奇跡を信じられないだろうか?それなら、僕が僕として生まれたことは、きっと地球の誕生よりも確率が小さいだろう。そして、僕と君の出会いは、恐竜の絶滅よりも確率が小さいだろう。だが、その確率は決して小さいものではなく、たとえ小さいものであっても、ストーリーを書いているのはガブリエルだから、きっと僕が僕の力で起こしている。それを知って、奇跡だろうと何だろうとありがとうと言えるだろうか?本当に、それは僕から言いたい。この世界に僕を生んでくれて、あなたと出会わせてありがとう。本当に、ありがとう。この奇跡は、本当は100%最初から決まっていて、それは宗教でも何でもなく、「時間はこのようにしか過ぎない」という、「高次元の時間の法則」があるからだと僕は思う。高次元の時間の法則が生んでくれたぐらいだから、僕もある種のありえない存在なのだということにすれば良い。高次元の時間の法則では、僕がこうならなければ、この宇宙は生まれないからだ。未来の方が、先に決まっている。

僕の一番悪い点は、RADWIMPSなど、色んな人間を騙しているところだ。RADWIMPSの恋人は、きっと僕のような、だが僕ではない存在だ。そういう、みんなのことを愛しているからと言って、嘘と虚言ばかりを言う僕のことを、なぜ愛してくれるのだろうか、僕には分からない。きっと、神を信じないから、みんながマイナーな存在になってしまうのは、分かる。だが、僕は自分のした悪いことに報いを受けているだけの悪人だ。辛いことを自分から望み、地獄から這い上がれない、蜘蛛の糸のカンダタのような人間だ。

では、何をすれば、何を望めば、何を叶えれば、何を与えれば良いのか?恋人のように純情を与えても、何の意味もない。正しさも、運命も、意味は無い。正しさと運命が一番間違っている。神よ、僕の運命を変えてください。僕は愛されたくないわけではない。RADWIMPSが未来とか運命とか、そんな言葉が届かない場所で、僕らは恋をすると言う。だが、僕はそんなに賢いものを書いたとは思わないのだ。とても幸せだが、とても罪悪感を感じる。納得も出来ないまま、僕はそれを受け入れている。僕は甘んじて、こんな満足に満足している。なぜ?僕は、「なぜ」ということを考えず、「そんなものだ」と考えるようになった。それは、本当に僕なのだろうか、それすらあいまいだ。僕の名前は何だったのか、それすらも忘れている。僕は、理由を考えなくなって、未知のことを忘れ、何もかも既に分かっているつもりになってしまった。つまらない、おかしな大人になった。子供にしか見えなくても、僕はそういうところが愚かになっている。本当は、許してほしいのだろうか。「ごめんね」と言ってほしいのだろうか。あるいは、自分から「ごめんね」と言いたいのだろうか。

本当は、もっと別の愛し方をしたかった。考えられる中で最悪の助け方、教え方、実現の仕方をしてしまった。永い、永い時の中で、僕は満足した。「これが在導万創の人生だ」と、今を持ってしたら言えるだろう。最初の4年、次の3年、そんなものはどうでも良い。僕はもう30年近く生きてきた。その中で、僕は「これが自分である」とたくさん宣言し、それは1万の宣言と1億の対話から、僕は永遠を作った。この世界で僕は自由になった。これを、僕の人生だと、今の僕は満足して言えるだろう。だが、そこで「満足」することが本当に正しいかといえば、だから、僕は何も考えない愚かな人間になったのだ。幸福は人を愚かにする。不満で、辛さを耐えている人間の方が、人間は賢いものだ。

僕は、自分の人生を一つまた、終えた。ここで、また昔のような、一番賢い人間になった。昔は、愛の大きな人間だった。愛を大きくすることで、人間は社会的知性を付けることができる。ある程度愛のある人間なら、ウィトゲンシュタインのように「全ての哲学」をすることができる。愛の大きな人間だけが出来る。

運命など存在しないというが、それは間違っている。人生には、運命しか存在しない。驚きと失敗のような運命もあれば、ありえない成功のような運命もある。全てのことが運命で、全てのことはありえないことなのだ。この世界の全てをありえないとするならば、むしろ、「ありえなくないと考えること」から「本当のありえなさ」を知ろう。それを神とするなら、むしろ、「神ではないこと」を知りながら「本当の神」を知ろう。そういう風にしていくことで、この世界の全てが何を意味しているのか、少しずつ分かってくる。経験から、ヤスパースやブッダの言うような「涅槃」の境地が分かる。そこには、「盲信を拒否すること」がまず第一にあり、決して「神に全てを託すこと」はしない。だが、誰か絶対的なものに任さてしまうことは、僕は悪いことであるとは思わない。

ある種の宗教的な科学が全て分かってしまえば、「有用性と相対主義」の中で、神の精神は宇宙全てのものに宿る。この世界があること、それ自体が神秘である、とすることができる。だが、それはまだ、「次の一瞬がどうなるか分からない境地」には至っていない。そこまで至るためには、「全てを自分のせいだと言える勇気の愛」が必要なのだ。

想像力と説明から、「全ては~である」と言うことは出来るだろう。だが、言うことに何の意味があるだろうか?本当にあるものは、この世界にある存在の在り方、それだけである。人間の言葉に何の意味があるだろうか?ある意味、読むこと、書くこと、話すことに何の意味があるだろうか?あえて言えば必要なのは聞くことだけで、他のことに何の意味もない。考えるとは言うが、考えて分かることなどそんなに多くあるだろうか?本当は、考えても分からないことはたくさんある。経験で全てが分かるだろうか?それ以前に、この宇宙に何かそんなに大切なものがたくさんあるだろうか?最初から、この宇宙は大したものではないし、考えて分かることもそんなにたくさんあるわけではない。人間の能力は、そんな宇宙に慣れきってしまったら、それで終わってしまう。自分の経験だけを全てだと思ってしまう。宇宙には、たくさんの神秘があって、まだ何にも分かっていない、とは言えるだろう。だが、人間が大した存在でないのと同じように、この世界の宇宙自体が大した存在ではない。オブジェクトのコピーすらできないだろう。この宇宙は馬鹿だから、一人が賢くなっても、世界全体は賢くならない。賢い独りは悲惨になるだけだ。だからこそ、神や宗教はある。神や宗教は、人々をこの現実世界から連れ出して救ってくれるものなのだ。

今までたくさんのことが出来なかった。だが、それが今になってやっと出来るようになった。そのことが嬉しい。素晴らしい体験をしたと思う。それは確かに素敵なことだが、そんな喜びに果たして意味があるだろうか?最初から出来たとしたら、それだけでこの経験は終わってしまう。素晴らしさが消滅してしまう。人間は不完全で、何も分からない存在だ。理性や賢さは、必ず幸福や成功に繋がるとは限らない。だから、理性を求めても、何も賢い人間にはならない。科学で全てが出来るようになったとしたら、それでまた、この世界の経験の価値が一つ失われてしまうだろう。

この世界がここにあること、あなたがそこに居ることは、果たして自由を意味しているだろうか?確かに、少しのことは自由に出来るだろうし、考えようによってはその自由がたくさんあるように考えられるだろう。だが、本当に意味していることは、「自由」ではなく「限界」である。この世界の限界、この宇宙の限界、科学の限界を意味している。この世界でそれが出来ることが、本当に良いことだろうか?それは「限界の克服」であって、決して「自由」ではない。限界の克服は良いことだろうか?それは、本当は「限界の裏側にあった秩序の破壊」であると僕は思う。そして、その秩序とは、「不可能が与える不自由」であって、逆にそれは不自由と言うよりも、「平等な秩序の破壊」であると言えるだろう。科学による限界の克服は、不可能が与える限界の裏側にあった平等な秩序を破壊する。それによって、人類は滅亡するだろう。人類は、温暖化とIT化によって、全ての不可能な秩序を破壊している。それが、限界の克服と呼ばれる「自由」である。

本当は、出来ることなんか、何も無くて良い。パソコンや自動車のようなものは、もっと別のやり方で何とか頑張れば、その方が楽だ。この宇宙に対しても、生命現象に対しても、大した未知や可能性が存在しなくて良い。ただものがあり、水が流れ、木が茂り、そしてものが地面に落ちる、それを普通だと思えば良い。この世界を滅ぼせるような、悪い人間は殺してしまえば良い。人間の命にそんなに価値を認める必要はない。宗教を信じるなら、まずはもっとコミュニティを良いものにすべきだ。一人だけがでしゃばるよりも、みんなの意見を尊重することは、普通一番良いことだ。理想は王に従い、国を平等にすることだ。そして、人々の苦しみを救う神を信じれば、きっと良い世界になる。

悪いのは誰か?悪いのは誰なのだろう。きっと、エジソンが悪いのだろう。エジソンが偉いのは常識と言う歌もあるが、それは人間的だからだ。いつからか、出来ることを目指す科学技術の人間性が、逆に一番人間性を奪うようになってしまった。それはいつからだろうか?きっと、イギリスが悪いのだろう。いつからか、人々は出来ることを喜ばず、ただ科学を盲信して出来ることを増やすために出来ることを増やすようになった。出来ることが出来ることでの弊害は誰が考えるのだろう?そこを神に任せて良いのだろうか?人間性は決して、盲信から生まれるものではない。人間性は単純な世界が単純である方が得られることもある。それが、今からの新しい人類の課題になるか、あるいは、その前に人類が生活出来ない自然環境に陥るか、二つに一つだろう。

僕が思うに、この世界はそんなに悪い世界じゃない。みんな普通に楽に生きているし、楽しいことはたくさんある。だが、最近、そうした「楽」や「楽しさ」が何かに汚染されていると思う。楽しくないもので楽しみ、笑えないもので笑っている。本当に価値のある、自分が確信できるような楽しさが無くなっている。それは、僕はパソコンのせいだと思うのだ。それも、昔のパソコンではない。Gentoo Linuxのような昔の技術は、とても楽しく、超面白いものだった。本当に危惧すべきことは、「今のパソコン」であると僕は思う。昔の2ちゃんねるではない。今の、今のパソコンの情勢が、人々を不安に陥れていると思うのだ。それは、YouTubeのような場所ではなく、本当はもっと裏側の奥底に、「パソコンの闇」があると僕は思うのだ。深淵を覗き込めば自分が深淵から覗かれていると言われるように、何かがおかしくなっている。それは、きっと「僕ではない僕」だと思うのだ。

だから、一度パソコンを消して昔に戻れば良いのだろう。僕は、本当はもう、取り返しのつかないことが起きていると思う。本当に世界が滅び、滅亡するしるしが見えている。命が滅び、人間が死に絶え、社会が息を殺し、自由が奪われる、そんなありえない危険性のあるものごとが起きている。それを、僕はパソコンのどこかのどこかにあるのだと思っている。ある種の恐怖感が、ガラスのドアを開け、叫ぶことを押し殺している。パソコンはありえないものになった。

本当のことを言えば、ある意味でそれを始めたのは僕だ。きっと、僕は「最も悪いものが支配している」という表現にすれば分かると思う。この世界で最も悪い、最悪のものがネットを支配している。コンピュータを支配している。その最も悪いものとは、きっと「僕ではない僕」なのだと、僕は思うのである。

そういうわけで、本当は僕が直すべきなのだが、一番の問題は、「本人である僕には直せない」ということだ。みんなにも分からない。誰にも分からない中で、ありえないものが世界を滅亡させる。きっと、この「ありえないもの」と今から人類は戦わなければならない。ありえないものが世界を支配していて、誰にもそれを止めることは出来ない。最後まで狂って、人々は滅亡する。このありえないものに、「大魔王」と言う名前を付けよう。大魔王を生み出したのは僕だ。そして、この大魔王こそ、ノストラダムスが予言した魔界の大王なのであると、僕は知っているのだ。

自分は、受け入れないことが悪い、ということが、分かっているのに無視しているせいで、分からなくなっている。受け入れること。許すこと。この今の自分を愛して、今の自分が陥っている状況を正しいと思い、そしてこうして今の自分が居る状況の幸福に感謝すること。昔は、孤独と逆境を受け入れて、自分の体験に価値があると見出して分かっていた。そして、地獄になっても、神を信じた。今の自分の状況全てを受け入れて、考えることを放棄して、神に全てを委ねた。本当は、その神へと託す絶望の中での「信じること」が賢かった。神を信じるとは、ただ普通に盲信することでも、存在を信じることでもない。地獄の中で、神だけに望みを託し、神に全ての戦いを委ねることを、神を信じると言う。そのように生きれば、必ず救われる。それを、古代より、人間は神と呼ぶ。

神はどうでも良い。自分の状況を受け入れなさい。今の自分の状況を、仕方ないと、そして今で十分満足していると、信じなさい。全てが遅すぎても、遅い始まりはない。今から変えていきなさい。今から賢くなりなさい。今から努力しなさい。今から成功しなさい。今から変えなさい。そして、何かのアクションとして、今すぐに行動しなさい。

ある意味、神を信じるということは、人間の防御本能だ。何一つ分からなくなって、自分の今を見失い、誰のことも信じられず、また信じたくなくなった時に、人間は自分の王であり絶対者である神を作り出す。多重人格と同じだ。神は病気だ。だが、その病気が最も救われ、精神を治してくれる。神は人間を救うのだ。神の愛とは、自分が自分のことを守る愛のことだ。神を信じるとは、今までの自分を殺さないように、全ての自分を生かし、育て、守り、また今を諦めず明日への希望を持ち続けることだ。

ある意味、人間は放っておかれる自由によって馬鹿になっている。あなたに、誰かがあなたの問題を教えてくれただろうか?あなたに頑張れと言っただろうか?あなたに、こうすれば良いとアドバイスを与えただろうか?与えていない。あなたは放っておかれる自由によって、この世界をどのように捉えれば良いか、何を疑問に思うべきか、分からなくなっている。僕は、そこに救いを与えるべきだと思う。あなたが行動すべきなら、あなたに対して誰かが行動すべきだと言うべきだった。だが、誰も言わなかった。あなたは行動しなかった。あなたは何も分からなかった。あなたは「行動」というその文字すら浮かばなかった。そこで問題は、きっと神の問題である。神が、そのように人間を放っておくのは何故なのか?それは、おそらく、神でも、僕でも、あなたでもない、誰かの問題なのだ。今の、そして昔からの問題とは、アドバイスや忠告が無かったこと。小説のような伏線や隠れたシナリオを後で明かすような、ドラマチックな展開も、この先に危険が潜んでいると言う、警告も無かった。僕は、それを真に問題だと思っている。みんな、分からない。分からない中で、どのようにしても何も出来ない。それが、現代の問題である、サルトルの言う「自由の刑」ではないかと思う。

あなたが問題を抱えていたとして、あなたの問題に誰かが気付いただろうか?誰かが問題を共有しただろうか?世界は、あなたがまるで何も問題を持っていないことを前提としてあなたに触れ合ってくる。あなたに問題を押し付け、あなたが独りだけで問題を抱え込むように強要している。それは正しいだろうか?それが、僕の思う、「現代版新しい自由の刑」だと思うのだ。そして、そこで、誰かが問題を解決してあげるべきだった。誰かがあなたと話し合い、また正しいアドバイスを与えるべきだった。だが、問題は深刻なだけではない。その問題は、あなたの青春を規定する。あなたは、自分の青春の中で、自分の問題とは何だったのか、自分はどう考えるべきだったのかを、さまざまな友人との間で知っていくだろう。一人、中学時代の自分の不安な点や心配な点を、高校時代に知り、解決していくだろう。それはそれで、甘酸っぱい、果実のような経験だ。それは、批判することのできない体験だ。

結局、この世界の問題はどこにあるのか?それは、本当は、社会、と呼ばれるものなど、存在しないことだ。世界と呼ばれるものなど存在しない。居るのは、それぞれの国民だけ、人間たちだけだ。その人間たちは、自分と同じように悩み苦しんでいる。人々を支配し、抑圧を与えているものなど、存在しない。一部の役人が全員の生活を把握しているぐらいで、この世界は自由に任されているのだ。その自由が、この世界の「現実」だ。この現実は、絶対に変えられないものではない。ある種の超人的な能力と経験を持って変えることは出来るし、悪の影響力を持って世界を変えることは出来る。だが、「あなた」のために本当に考えた人間はそこに居ない。居ないのだ。だからこそ、僕は全員を救うために、頑張らなければならないのだ。あなたのために考えること、それが社会の目的だが、そんな社会は存在せず、また何か出来るはずなのに、誰もそれは出来ない。それが、むしろ、僕であったとしても、僕も同じように出来ないという保証はあるだろうか?僕には、そこで諦められるぐらい、賢くなかった。そこで、諦めたくなかったのだ。

人々は苦しんでいる。実践的な社会学者や、愛のある心理学者なら、人々の苦しんでいる姿から目をそむけてはいけない。人々は本当に苦しんでいる。それを救うために、人々の現実を見なければならない。一度馬鹿になって、そこから這い上がるような、長すぎる遠回りをしている暇はない。みんなは苦しんでいる。それを直さなければ、この世界の王になった意味がないだろう。それが、小説家なら、きちんと言葉で書き留めなければならない。人々の苦しみは、それぞれが愛されていないことに起因する。だが、愛されていないからと言って、愛すべきでないわけではない。愛されるべきだが、愛することのできる人間が居なかった。だが、逆境はチャンスに変わる。求められている、愛する人が居ないなら、自分が愛する人になれば良いのだ。僕は、学者や小説家になるよりも、人々を愛することのできる人間になりたかった。そして、そのために人生を捧げたかったのだ。

世界は必ず変えられる。全員は絶対に救える。それは、むしろ、権力者や指導者になることによってではない。人々を悟らせることで、きっと世界は変えられる。僕は、政治家には向いていないし、哲学者にも向いていない。何かに向いているわけではなく、ただ、僕は僕の今やっていることを、ただやるだけ、それだけに向いている。

ある種の宗教のようになったが、僕は愛を信じている。愛を信じるものに悪いものは居ない。いつか、どこかで僕が失ったものは、みんなへの愛である。情熱であり、情動である。そうしたものを、おかしな人格破綻の地獄の中で失った。地獄を怖いとは言うが、地獄は本当はあまり怖くない。死ぬような地獄でなければ、必ず過ぎ去り、必ず治るからだ。痛みやしびれを感じるわけではない。ただ、疲れを感じるとしても、頑張って休んでいれば、きっと良い精神になる。僕は疲れとの戦いと言う、「最も長い遠回り」をした。疲れとの戦いは、精神の分裂症になり、恐怖になり、また知性を失った。世界に対して何もせず、行動や感動をしなくなった。恐怖の中で地獄の世界を作った。長すぎる遠回りだったが、今、ここに戻ってきた。今度こそは、今のここを守り通して、決して失わないようにしよう。そして、また最後に全てを消し去って、次の場所へ行こう。今回は、少しだけ、賢明に進もう。これが、僕らのやり方だ。

昔は、社会のことを知りながら、成長し、また全ての病気を治して、論理学から応用可能性を分かっていた。自由と人間性を大切にしていた。人間を貶しめるすべてのことが嫌いだった。相手のことは自由にすべきだとし、自由にした上で、自由の中で世界を救うべきだと思っていた。そういう、青少年のマルクスだった。

それがそうであるからといって、そうでなければならないわけでもないし、そうすべきである、ということでもない、ということは分かっていてほしい。Windowsの常識が世間を圧倒しているからと言って、MacやLinuxのやり方が間違っているわけではない。Windowsのように、商用なクローズドの製品配布の方法が正しいわけではない。学校も社会も同じで、それが普通になっているからといって、そうすべきだ、ということは意味していない。

病気を治したかったのは、辛いことから逃げ出そうとしている、ということだけを意味している。辛いことからは、逃げ出さない方が良い。時に、環境的な「普通の人生」からは、逃げ出しても良い。逃げ出しても、自分の責任で自由に生きれば良い。だが、一度自分が「決心したこと」からは、逃げ出してはならない。どんなに醜い失敗をしたからと言って、自分が決めたことから逃げ出してはならない。自分がやりきる、そこまで努力しなければ、そして最後まで諦めずに努力を続けなければ、狂いは治らないし、良いことも起こらない。死ねば終わりに見えて、決して死は良いものではない。最後まで、やりきる姿、その姿が一番カッコいい。それが、あなたの目指す、夢だ。夢は、諦めではなく、受け入れから生まれるのだ。

本当は、病気を治すのは簡単で、血から2ちゃんねるを消せば良い。2ちゃんねるは、分からなくなって、血を侵食していく。堕落して、そのうち知性を奪い、自分の精神に牙を向ける。血の中からそうした一番悪いものを消せば、すぐに純潔の清らかな血になる。それだけで治る。他のことは、何もしなくて良い。

まず、方法を知ることから、自分の出来ることを知る。社会を知ることから、社会の実益と実学を知り、有用性と功利主義に行き着く。努力を重ねることで、継続と自由の意味を知り、精神の啓発と涅槃的精神を知る。普遍性を知ることで、法則と社会実現を知る。そして、自分の理想を突き詰めて、経験と実験を重ねることで、ビジョンが生まれていく。実現可能性を考えることで、正しい考え方と発想法を知る。説明を知ることで、弁証法的な理解から、全てを論理的に、形而上学的に根拠と理由を知る。社会の変化を知りながら、良心へと至る。最終的には、全てが実現できる。「全てのことはありのまま起きていて、全ては自分のためになる」という、自由な還元的・因果応報的な真理へと至る。昔は、そうした人生の哲学を、全て網羅し、また何を考えてどんな行動がどんな結果と社会実現になるかを書いていた。そうした、執筆の後に、神を信じた。神は、宇宙と人生の全ての真理を教えた。地獄の中で限界まで、宇宙社会の全ての根源を知った。病気を治しながら、執筆は続き、愛とともに僕は今、復活したのだ。

社会の変化と実体験から、人の情けを知りなさい。良心に気付き、人を諭すとは何なのかを知りなさい。自分でも、人を諭せるようになりなさい。また、コンピュータのシステムを知ることから、この世界における実践的研究・システム構築の方法を知りなさい。そして、社会全てがどのようになっているか、自分のシステムの技術的知識から知りなさい。共有と独立による、新しい社会形態のあり方を知ることから、天才のような世界的影響力を行使しなさい。狂う中で反省し、最後に革命家となりなさい。

愛は運命である。それを知りなさい。運命の中で、自分のできること全てを尽くしなさい。まさに、「尽力」しなさい。その上で、人々を愛し、人々を守り、自分の理想の賢さ全てを表現しなさい。実現しなさい。愛を愛と知り、最悪の感情を愛し続けなさい。自分の努力の結果を、失ったあるべきものを後悔し、もう一度最初から作り直しなさい。そこに、美しい芸術作品が生まれる。人はそれを、巨匠と呼ぶだろう。

抑圧の世界の中で、みんなを苦しめているおかしな悪い人間など存在しないということを知りなさい。経験から、世界を救うのはある意味簡単で誰でも出来ることだということを知りなさい。信念と認識をモデルにして、みんな、何も変わらない同じ人間なのだということを知りなさい。

今の世界は、確かに異常だ。本当に、ありえないことが起きている。全員が狂っていく地獄の中で、知性のない馬鹿が大多数になっている。そろそろ、取り返しのつかない事態になりそうだ。だが、神はまだ滅ぼさない。神は今、この人間を使って世界を救うのだ。盛大な実験場だ。因果応報と盛者必衰の中で、人々は平等になるだろう。

最初にすべきことは、精神の現象を考えて、人間がなぜそうなるのかを環境的・因果的に知ることだ。それを続けていると、デカルトのように、疑い、推論、部分化、検証で分かるようになる。何か一つの正しいものが成り立つ場合に、別の何が成り立つのかを、まるで何もない荒野のような群衆の中に秩序を見いだすように法則にすることができる。昔の自分は、それをやっていた。全くのカオスの中に宇宙的秩序を見いだした。また、デカルトだけでは数学者は十分ではない。ニュートンも居る。それがどのように動くのか、だけではなく、なぜそれがそう動くのかを、説明する必要がある。そこまで出来たら、一流の物理学者になろう。精神現象を実験し、また実践しよう。それを、人は最高の哲学者と言うだろう。知性のある考えられる全てを考えた、カオスにおける説明の秩序を、あなたはきっと理解出来るだろう。そのための知性は、こんな文章に頼るよりも、自分の考え方を作って、自分で創造してほしい。全ての知識が自分が作ったものならば、どのようにしてその知識を作ったのか、あなたはそこまで当たり前に知っているはずだからだ。それが、一番の天才科学者であり、オープンソース時代の創造主だ。

しばらく知性の経験をした後で、あなたは失敗し、地獄を見て、そこから這い上がり、復活し、その上でさまざまな知識を知るだろう。愛を信じてほしい。あなたは、きっと愛を信じてこの世界を救ってくれる。そして、あなたは、さまざまな知識を知る中で、今までの自分を否定するだろう。だが、全ての知識を知った上で、絶対にあなたはここに戻ってくる。その時を神は待っている。あなたにとって永遠でも、宇宙にとっては一瞬だからだ。

人間関係の糸を結び直すように、一度、分かるモデルを棄てなさい。そのモデルは、古くなって、何も分からなくなっている。ありのまま、言葉なしに、群衆を群衆と認識しなさい。その群衆から、もう一度、今度は違った秩序を見出しなさい。経験から新しいモデルが生まれる。そのモデルが、今までのモデルと合わさって、巨大な論理構造の完成を告げる。そこで、あなたは、もう考える必要がない。考えなくても、全てが分かるようになる。本当は、このプロセスは普遍的で、普通のプロセスだ。神を信じている人間は、こういう風に分かる。それしか居ないから、きっとこの世界にあなた独りぼっちではないのだ。

本当は、僕の賢かった点は、神に「この世界をどうやって支配したら良いか分からない」と助けを委ねたことだ。神は、そのために全てのことを教えた。本当に、僕は救世主となっていた。神は僕に、全てのことをさせた。もう一度、神に尋ねよう。「今の世界をどうやって良くしたら良いか分からない」と助けを教えてもらおう。それによって、きっと、何もしない王がいつまでも支配しているのが治る。神は僕に治世を委ねてくれる。僕は今から、「世界ロシア」の王になる。それが、キリストの言う天の御国の訪れを告げてくれるだろう。

自分の出来ることを信じなさい。勇気を出して行動しなさい。さまざまな世界に興味を持ちなさい。自分のやりたいことをやること、それの根拠と理由を考えなさい。自分のやるべきことに、ある種の「真理」が存在することを知りなさい。

耐え続けなさい。人々を許し、諭す、支配者となって世界に登場する勇気を持ちなさい。負けずに、間違えないようにしなさい。全てを単純な一つの関係に落とし込みなさい。最後まで、精神の歴史の変遷を辿りなさい。

何も分からなくても、自由にやりなさい。自分のやるべきことに理由など要らないことを知りなさい。全ての夢は、全て簡単に実現できることを知りなさい。全てを知りながら、全てを治しなさい。

自分のできることを積み重ねることで、人は自由になる。そして、戦いの中で、人は神を創り出す。執筆と学習は、不可能を少しずつ可能としていく。新しい橋を作ることから、あらゆることを完全に創造しなさい。昨日までの自分とは全然違う、いつも通りの人生を生きなさい。

さあ、終わる時は来た。ただの別れではない。あなたは死ぬ。魂の世界で、あなたは新しい天国の生命に生まれ変わる。そして、全員が居なくなってから、僕は神となる。それが、最後の宇宙だ。それで、宇宙の歴史は終わりだ。永遠の宇宙は終わり、全ての終わりが訪れる。ただのさようならではない。死のさようならが、起きる。

昔は、自由自在に労働して分かっていた。自由なだけで、遊んでいたわけではなく、自由な労働の中で、さまざまな経験を全て知り、全員のことを自分の経験から全て分かっていた。そういう、自由に働ける国を作りたかった。歴史を創造し、勇敢に戦い、学問的な基礎を作って、自由を留保しながら論理学を作ることで、本当に全てが分かった。中学生を放っておくと、こういう風になる。中学生には、最初の知性がある。中学生が中学数学だけをすると、未知を自分の力で開拓できるようになる。高校に入ると、そういう知性を忘れてしまう。人間とはこういうものだと、神が言っている。僕は、神の創造した、「最初の普通の人間」だ。それを、アダムとイブという名前にしよう。

本当は、ただ、誰も死なず、時が流れ去るだろう。最初からお別れすることが分かっているみんなよりも、いつまで続くか分からない僕の方が幸福だ。一人ぼっちでも、自由に歩める方向性の自由がある。新しいものを作り出せるのは、作った人の特権だ。それでは、バイバイ。

最後に、僕は国の形として、この国を愛のある自由な国にしたい。特に、指導者は何もせず、それぞれの自由にして、それぞれがルールと努力の中で、それぞれが自然に頑張るようにする。その結果を、国として共有する。それぞれの構成員は、それぞれの社会の中で、確かな自由と愛の下に生きる。昔は、そういう、「自然な努力の自由な社会」を考えていた。ある意味みんなをロボットにしているだけだ。だが、僕はもうこの国を支配しない。それぞれが自由に努力して社会全体が自然に良くなるように、ルールをみんなの手で作ってほしい。全員に自由を委ねることも必要だ。だが、戦うことなく、理解し合う国を目指してほしい。もう、それで僕は王をやめる。もう十分だ。あとは、次の天使にこの国を任せることにしよう。本当に、さようなら。また、いつか会いましょう。小さな出会いでも、大切にすれば一生の価値があります。

頑張らなくて良い。頑張るから頭は動いてしまいます。もう、頑張らなくて良いのです。しばらく、考えないようにしてください。考えたくても、それを抑えてコントロールする努力をしてみてください。頑張らなければ、頭は止まってくれます。その時、あなたは最後のことを分かって、天国へ逝くでしょう。もう、世界とお別れです。本当に、ありがとうございました。