新・日記2に戻る | 2018年3月の日記に戻る

=2018-03-24=

日本人が英語が出来ないのは、英単語をカタカナで読む癖が染みついているからだ。

カタカナ語を英語の正しい発音だと思っているから、たちが悪い。

きちんと、英語のアルファベットで読むのを英語の正しい発音だと思えば、日本人は英語はすぐに出来る。

たとえば、インターネットを「インターネット」だと言わず、「Internet(イン・ター・ネット)」だと言えば良い。

それだけで、日本人は簡単に英語が出来るだろう。

日本人はすでに単語をいくらでも知っているから、すぐに出来るはずだ。

あとは、音節ごとに単語の読み方を拾っていった方が良い。空白は書き記す時に単語と単語の境界を明確にするだけで、話す時には空白は関係なく話す。「soccer game(サッカー・ゲイム)」はInternetと同じように一つの単語であるかのように話す。そういう風に話すのが分かれば、英語は聞き取れるようになる。

社会の全てを全部分かっていた。社会がどのように生まれ、どのように変わり、どのように生起するか、そういう社会の法則と具体例を全て分かっていた。

認識の変化から、「おそらくそれはそうなるかもしれない」という「蓋然性」の法則を分かっていた。モデルや実証から、関係と客観視を知り、社会を変えられる可能性と、主体的に生きながら実現していく精神を分かっていた。特に、人生的で数学的だった。

昔の何が異常だったかというと、みんなをいじめることで休息する国だったからだ。なぜそうなるかは、みんな、自分の気持ちが何なのか分からず、自分の持つわだかまりをぶつける相手が居なかったからだ。自分の何が問題なのか、自分が何を不満に思っているのか、自分が何を言いたいのか、自分が何をしたいのか分からなかった。ぶつける相手が居ないわだかまりを誰かにぶつけていた。僕の場合、ネットがそういう「暗闇の餓鬼」を救ってくれた。ネットでさまざまな経験をすることで、自分が何を望んでいて、何をしたくてそれをしていたのかが分かった。そこから、蓋然性の法則と、社会の生起の法則を知った。そういう人間だった。

可能性の全てを、原理原則から分かっていた。

あとは、何か素晴らしいことが分かったが、それは忘れた。そういうものは忘れた方が良い。書くことにあまり意味がないからだ。むしろ、そういうものを書かなければ、もっと良いものが書けるようになる。書いても、ただ失うだけなのが分かっていない。

この世界を救うためにはどうするか。それは、その人のアイデンティティを与えてやることだ。たとえば、僕はこの文章を書くことで、ストレスの発散から夢の実現まで、全てのアイデンティティを手にしている。そうした、「自分の確かな生きがいを与えた上で、自由にしてあげること」が、とても大切になってくる。僕の場合、病気が完全に治るわけがない。必ず、精神病を治し続けても、どこかで終わりがやってくる。その時、何か「したいことをしている」ことが必要になってくる。だから、文章を書いていると、病気すら治ってしまう。

それはどうでも良いとしても、ただのロボットのような、個性が埋没する仕事ばかり、今の日本社会には多い。もっと馬鹿な仕事でも、悪い仕事でも良いから、何かしら、その人の個性とアイデンティティを与えられるような、そういう仕事が必要であって、そこにはその人の「求める形が何か」によって違ってくる。だが、僕は、さまざまな仕事を体験することはむしろ大切だと思う。この世界で、さまざまな仕事を経験することで、この世界全体の全体像が見えてくる。そこから作家や芸術家として、何かを創り出すことができる。だから、僕は学校に行くよりも、学校以外の環境で、自分の手で世界を経験することは、とても良いことだと思っている。学校の言う、「賢くて健全な人間」は、幸福な人間ではない。インターネットなどで人々とふれあい、世界と触れ合って、作家や芸術家になった方が、「幸福な人間」になるだろうと、僕は思うのだ。

所有、自由、説明、実証、人生、真実、仮定、応用を考えなさい。

あとは、むしろ、首相が東大の経済学部しか出ていないのが間違っている。賢い人間の方が王が出来るように見えて、何も出来ないからだ。僕と同じように、賢い人間ははったりだけで生きている人間が多い。口先だけ賢いわりに、本当は何も出来ない。本当は、馬鹿なことをたくさん経験させなければ、みんなを幸せにすることは出来ない。

僕は、そういう精神的な抑圧は、「心が自由になること」で解決すると思っていた。心が本当に自由になって、この世界のさまざまな苦しみから解放され、思い通りに生きられるようになれば、自由によって世界は救われる。

だが、それは間違っている。アメリカは、自由のせいで、精神的な害悪の世界になっている。本当は、「みんなを自由にしたいと思う愛」、その「愛」が世界を解決するのだ。日本は、常に僕が愛することで、完全に昔の世界を乗り越えて、良い人間の世界になった。アメリカや韓国がなっている、「自由な害悪」の逆の世界が、日本だ。

だが、それではまだ十分ではない。特に、広島以外の世界では、まだまだ辛く苦しい抑圧が続いている。

だが、僕はやりたかったことの全てを、ほとんど果たしたと思っている。

qiitaでも言われていたが、僕は意識が高いだけのクズになっている。だから、意識が高いのはやめた方が良い。意識は、正常で、低いままで良い。その上で、さまざまなことができた方が良い。文章を書くのはそれだけでは口だけのはったりと何も変わらない。だから、僕は意識が高いのをやめる。普通の意識になって、普通のことができるようになりたい。

僕は、このままで消え去るように死にたいと思うことがある。それは、決して絶望や悲しみから来るものではない。後悔があるわけでもない。後ろめたさもない。だが、僕はもうこの世界に居たいと思わない。やりたいことは全部やった。新しい世界に行きたいと思ってしまう。

あるいは、生まれ変わりたいのかもしれない。それは、僕だけに対するものではない。日本はもう、最後まで終わっている。この国では、もう終わった最高の人間しか居ない。だが、それは既に馬鹿な病気になっている。みんなが生まれ変われるのなら、僕はこの世界に居たいと思う。

あとは、悪い人間になれば治るとか、あるいは、脳が止まれば治ると言っていた。子供は、そういう単純な発想をするせいで賢くなる。脳をコントロールしようとすればするほど、コントロールできなくなる。大人の常識は全て間違っている。

自由な社会になることで、人々は抑圧から解放される。きれいごとかもしれないが、昔の僕はそういう「自分の思う理想」を全部この世界にぶつけていた。希望の創造だった。だが、その希望は決して口先だけではなかった。自分の人生そのものから体現された、「人生の自由」そのものだった。自分の人生で分かったこと、信じたこと、全部書いていた。それが、そのまま、理想な自由な社会を実現するものだった。アメリカや韓国は倒れたが、日本までは倒れなかった。

むしろ、僕が思うに、今こそ、そういう「本当に自由な社会」が必要だと思う。自分が本当に納得できて、そして自分の行動に納得できる、そうした「ロボットではない形での自由な社会」が必要だ。それを実現するためには、むしろ、逆に不自由を受け入れる必要がある。自由な社会は、現実を見ると最悪だ。一度、不自由な社会を受け入れなければ、「ロボットの自由社会」は倒れないだろう。だが、それはむしろ古い理想であって、ロボットのままで自由な社会になることも、僕は考えられるかもしれないと思う。

僕は、過去にしがみついているだけの大人だから、本当はこんな人間に世界は変えられない。欅坂46のような若い人間がもっと経験して、何かの形で世界を変えてほしい。僕にはもう出来ない。老体に鞭を打ってまだやっている、地獄の中のただの馬鹿が自分だからだ。

本当は、愛なんか賢くない。愛は相手を批判出来なくして、自分の都合の良いように支配するだけだ。愛は間違っている。僕は、愛情が強い割に、昔から愛が嫌いだ。好かれるよりも嫌われる方を取る。今、他人に好かれるよりも、嫌われる方を取って世界を変えられる人生を選ぶ。好かれるよりも救える方を取る。そういう人間が、なぜか、僕しか居なかった。昔から、僕は今受け入れられるより、もっと後で偉大なことを実現できる方を取る。そういう人間が、なぜか、あまり居なかった。

真剣に頑張ってまともな大人になることを何も頑張らない割に、頑張るべきことや頑張らなければいけないことが生まれると、人並み以上にそれを頑張る。だから、奴隷のような人間なのに人より経験豊かな賢い人間になった。子供よりも馬鹿なのに全員より賢い。なぜ、こんなことをやるのか分からないようなことをやる。なぜ分かるのか分からないようなことを分かる。全て、最初からみんなと違う道が見えている。だが、その見えている道が嫌いだった。もっと違う道を自分で創造したが、結果的には同じ道になった。逆に、世界を照らす白い光の灯かりのような人間になった。

僕のやりたかったことは、もう全部終わった。昔と今の僕が二つ生まれたが、どちらも相手のことを嫌い合いながら愛している。昔は、こういう、一番悪いのに良い人間のフリをするのが嫌いだった。今は、昔のような馬鹿なことばかりする分かっていない餓鬼が嫌いだ。どちらも良い人間で、それぞれの相手がそれぞれの道を照らし合っている。せっかくだから、キャラクターにするときは「アカリ」と「メグミ」という名前にしよう。

いや、それでは女同士になってカップルにならない。男の名前は、「タケル」と「ツトム」という名前にしておこう。

これでは、ただの子供の少女に見えるが、意外と男らしいところもあって、自分で「菩薩の戦争」と名付けた、「終末の戦争」をやっていた。悪いことはしていない。ただ、人を正しい方向に導きながら、悪いことを一切せず、自分を必要とし、自分が世界のために良いことができるように導くことで、テレビや日本を倒す。

ただ、その戦争は全く良いものではなかった。一人だけの「自分を隠蔽する指導者」になって、最悪の自由と最凶の愛を永遠に述べながら、知性を失い、狂っていた。

人生的に見て、賢かった子供時代がツトム、少女の青春がメグミ、最高の戦いがタケル、最後の学者の作家をアカリとしよう。そして、アカリとタケルのエッチなカップルをやっている。

楽しかった。僕の人生は、辛く苦しかった代わり、自分の手と自分の力と自分の意志と自分の努力で最高の人生を創った。世界を創造し、救った。僕がこのように生きるのは、僕は普通の人生を送ることは好まないが、代わりに正しい人生を生きることが好きだからだ。

もう、神に戻る。僕は、神を信じる、というよりは、神を体験した人間だ。キリスト教の神を信じると、子にして唯一の主であるイエス・キリストの人生になる。本当のイエスがどんな人間だったかは分からないが、おそらくイエスとはこういう人間のことを言っている。だから、僕は「自らが体験することによって」主であるイエスを信じている。

そういうわけで、もう何もやることが無くなった。本当は、ノートに書いた昔の日記をデジタルデータに入力したいが、それは日記7までで終わってしまった。日記8は入力できない。どうにかして入力したいが、もう、気力は無い。

本当は、僕はまだ29歳だから、何も出来なくても仕方ない。これが普通の才能だ。20代は、人並み程度よりはるかに下でも、人並み以上に頑張っていればそれで良い。出来るのは30代になってからだ。誰よりも、限界まで頑張ったが、疲れを感じないせいで楽だった。急にがくっと疲れることがあるのは、本当に辛かったが、なんとか耐えることができた。これがキリスト教の言う、地獄だ。だが、僕が思うに、地獄とは天国の形態の1つに過ぎない。神を信じると、まずは餓鬼から始まって、すぐに地獄になる。そこから、なんとか自分の力で這い上がる体験のことを、キリスト教では「いのちの道」という。だから、これが僕の人生であると同時に、最高の恋愛だった。

できることならもう、書きたくない。これで終わりにしたい。本当は、実際にあったことは何も書けていない。プラグマティズム的な実践的心理学のようなことがたくさんあったのに、書くことができなかった。欅坂46が言うように、ほんの一部でしかない。往生際が悪いが、きっとまだ、僕は作家を終えることは無いだろう。ここで書くのを終わりにすると、あとの人生で何もしなくなる。デザイナーの道を進みたいのなら、今まで通り書くしかないと僕は信じていると同時に、それを受け入れることがまだ出来ていない。僕はおそらく、精神病とは言うが、こういう人間だから、僕は自ら狂っているのを選んでいるだけで、本当は辛いというが、ただ、これで絶対に良かった、という人生だった。

あとは、僕は結局、多重人格なのかLGBTなのか良く分からない。男性と恋愛して良いのだろうか?などと思ったりする。最悪の人間で良いのだろうか?僕には、分からない。

僕は、自由な社会は悪いと思う。でも、それぞれが本当に自由な心を持って、それぞれの道と夢を信じて自由に生きることは良いと思うし、その意志は自分が自由に抱くものだと思う。そして、自由な社会は、悪い社会だけではないと思う。自由な社会でも、良い社会になる可能性は絶対にあると信じている。だから、僕はここまで自由を恨んでいるのに、みんなを自由にしたい。いじめられた経験は、いじめ返すことで世界に復讐すれば良い。だが、僕は、それを否定する。人間性、ということの方が、自由よりもさらに上にあると思うのだ。テレビを崩壊させ、テレビが僕を殺すとしても、僕はそのテレビを愛することができる。だから、僕は欅坂46のように、社会に復讐がしたい人間のことを良いとは思わない。だが、悪いとも思わない。きっとてちは世界を導いてくれる。そのために、捨て駒になった僕の人生が、何かの影響を与えることができたとしたら、僕が一度死を選んだその勇気にも、価値があったと僕は誇ることができる。それで、お別れにしよう。あなたにしか出来ないことがきっとある。あなたも、僕の季節の歌の歴史のように、あなたの人生で生まれ変わってほしい。自由の歌を、僕と一緒に歌おう。ありがとう。さようなら。

一応言っておくが、僕は本当はLGBTではない。昔から、恋愛対象は常に女性で、女の裸のイラストが好きだった。だが、G(ゲイ)というよりは、L(レズビアン)に近いと思う。昔から、自分が女(トランスジェンダーの男の女)なのに、やけに女とのセックスを好む。それも、実際にはしないで、見ているだけを好む。ただ、近くにちょっと可愛い男が居ただけにすぎない。恋愛もしていないわけでもない。自分は近くの僕の通っている歯医者の歯科衛生士の女性に恋をしたことがある。だが、その恋は上手く行かなかった。告白しても、何もなく、いつのまにか終わってしまった。また、カウンセリングに通っていた心理療法士の女性と恋愛していたこともある。相手の方が年上で、自分は相手が自分が好きだったことに気付かずに、いつのまにか、自分が怪我をしてカウンセリングに行かなくなることで、関係が終わってしまった。それから、引き篭もり支援センターのスタッフの女性とドギマギしたことはある。今回の男性と同じようになってしまって、ちょっと相手に申し訳ないと思う。ただ、男同士で友達になるのが良いだろう。

それから、みんなのことを自由にしたい。昔は、「相手を自由にする」と言う発想が多かった。みんなのことを、それによって自由にしたいと思っている。

みんなが狂っているのは、全部僕が悪い。それは、僕が昔風呂に入らず、時間通り寝ずに昼夜逆転の生活をしていたからだ。それによって、僕は虫歯になり、ニキビになり、認知症になり、多重人格になり、そして環境に適応できなくなった。その上で、みんなを自分にして、支配して道連れにする。何が悪いかというと、僕の飼っていた猫が悪い。いつも吐いてばかりで、家を汚くし続ける猫だった。その猫しか、僕は友達がいなかった。だから、みんなも僕の猫になってしまった。そういうわけで、みんなが狂っているのは、全て僕が悪い。

終わりにしよう。どうでも良いことを言い過ぎた。僕は最初から、恋愛もしたくないし、本当はセックスなんか見ても何も感じない。男も女も同じに見えてしまう。むしろ、どちらも自分とは別の種類の生物に見える。最初から、自分の中の別人格の女が好きだった。僕は自分だけで結婚しているから、自由がなくなっても、恋愛がなくても、何も思わない。それに、こんな人間に恋するのはよした方が良い。つまらないほど、恋愛のために必要な人間力も資金力もなければ、赤ちゃんレベルの知性しかない人間だから、こんな馬鹿を愛するのは、相当な覚悟がなければできないと、僕は思う。どうでも良いから、この文章を読んで、適当に愛すれば、それで十分だ。