新・日記2に戻る | 2018年3月の日記に戻る

=2018-03-17=

心を捉えて、理由と原因から状態を考えていた。どのようにすれば幸福にできるか考えた。昔は、そういう風に、地道なところから積み重ねて全てを分かった。

社会については、建設的に、何をどうできるかを積み重ねた。社会に関する全てを書いていた。

対処策を行うのではなく、原因を解決することを考えていた。原因のそのまた原因は何か、根源的に考えていた。

猫を治すと、もう完全に精神が治る。人間と虫と機械が猫になった。機械のままでは治らない精神が、猫という生命を創り出した。

猫の次は、もう、血が治って新しい高い生命になる。天使ではない。宇宙人でもない。何かのありえない生命を、僕は創り出す。ある意味、神になった唯一の人間だ。

自分は反ユダヤ主義ではない。むしろ、最高のユダヤ人だ。最後のイスラエルの王だ。だから、僕はユダヤ人のことを愛している。

最高のユダヤ人に、怖いものはない。失うものは何もない。望むのは、ただ「気付いて欲しい」だけだ。それだけを望む。僕の人生は最高の革命だっただけだ。

だが、ユダヤ人はあまりに臆病だ。何も怖くないのに、ただ世界を変えることを怖がっている。停止した世界の中で、さらに世界を何も起こらなくしている。臆病な自分が身を守ろうとするから、自分はさらに傷つく。だが、ガラスの心を隠そうとはしないのだ。

昔は、森羅万象のさまざまなこと、科学や社会のことを、全て、成り立ちと説明から、普通分からないような仮定を把握して分かっていた。生物については、遺伝子すら不変のものではないとして、自分の行いによって遺伝子は変わっていくとしていた。宇宙は、ニュートンのように宇宙を考えることで、次元や重力における「ありえない存在」を分かっていた。また、歴史のように生物のことを分かっていた。遺伝子は、物質が必要に応じて生み出したとし、物質についても何らかの意味や意志はあると考えていた。そして、社会については、さまざまな想像力による独創性を書いていた。あらゆる政治の形態を、何の仮定もおかずにゼロから考えた。だが、「自由」という確固たる信念はあった。世界への影響力を行使し、この世界を完全に変化させる、そういう文章の王だった。

自分は、何でもかんでも全部同時に成立すると考えているが、それが間違っている。創造性と助け合いは両立しない。矛盾する。

普通、創造性で科学で発展するか、助け合いで宗教でみんなの国にするか、どちらかだ。昔の「社会を網羅し、パターンを書く」とは、そういう、矛盾し、両立しない世界を、全部同じものであるかのように書いていただけだ。

僕が思うに、最近、創造性と科学と発展のようになりすぎている。豊かにはなったが、社会が破壊され、秩序がなくなっている。

だから、僕は少し、宗教と助け合いの方に目を向けてほしいと思う。だから、今から、そんなに発展するITとコンピュータのことを何とかしない。

だが、心配しなくて良い。僕は、もうこれ以上悪いことをしない。出来るだけ何もしないように努める。だから、コンピュータを自分で独りだけでなくしたりしない。それではソビエトのような独裁者になって世界が滅亡する。僕は、これ以上、そうした大胆で悪をかえりみないようなことをしたくない。

今日は良い日だった。ちょっと田舎の方までドライブして、おなかがすいたところで串焼きを食べた。とても満足した。家に帰ってからは、少しパソコンの作業をした。もう、安心出来るようになった。僕は、科学者から芸術家まで全部やりたいのも間違っている。同時に両立することなんか、そんなにあるわけがない。一つを選べば、もう一つは出来ない。今やっている一つをしっかりとやらなければ、もう一つの選択肢に対して悪い。だから、今やっていることをする。そういうわけで、プログラミングもピアノも、僕には出来ない。デザインのこと、PhotoshopとIllustratorのことだけをもっとやりたいと思う。

社会は確かに自由になっていくだろう。だが、ありえない社会になる必要はない。Linuxやソーシャルメディアのようなものは、僕はすでに飽きられていると思う。ソーシャル的な機器も、作られてすぐに飽きられるだろう。もっと、まともな社会になってほしい。そのために自由になってほしいとは僕は思わない。自由は権利として認められるべきものであって、本当に自由な行動をすべきであるわけでもないし、社会を自由にしていく必要もないと僕は思う。

自分の間違いは、自由なままで平等な国家モデルを作ろうとしていたことだ。自由では平等な国は作れない。逆に、平等では真に自由な良い国にはならない。誰も平等を良いとは言わない。自由にするのであっても、みんな同じだとか、たくさんの首長だとか、そういう発想は良くない。みんなが一人、素晴らしい指導者について、同じになった方が良い。それで終わりだ。僕のような思想はもう終わる。北朝鮮やロシアは崩壊する。だからと言って右翼になれば良いわけではない。右翼は滅びる。きちんと民主主義が勝って自由な世界になる。それで、発展し、創造性のあふれる世界になれば良い。そして、デザイン性を追求するならば、もっと本当に美しいものを創るべきだ。僕は文芸とデザインをやる。プログラミングや音楽はしない。パソコンなんか、gdbでバグを潰すだけだ。それだけで作れるが、それは辛く苦しい。僕はやりたくない。作家のデザイナーになることにしよう。僕の才能は明らかにこの文章を書くことしかない。二つや三つも才能があるのは、何もしていないだけだ。

自分が馬鹿なのは、自分はデザインの基本中の基本である「パスを引くこと」が出来ていない。むしろ、それが分かると、もう出来る。カープ坊やのイラストを練習したり、切り抜きをしていたりしたのは、全部なぞって作るだけで、たとえばイチゴとか、太陽とか、そういうパスがまだ引けていない。イラレを使う目的が、素材を張り付けるだけになっている。それを改めた方が良い。本当は、自分は大人がきちんとやろうとするから出来ないだけで、普通子供なら15分で習得する。

だから、もっとイチゴや太陽など、そういうものをイラレで描くようにした方が良い。きちんとまともにパスが引けるようになれば、もうデザインはきちんと出来る。イラレの効果やオブジェクトの変形機能を使うのも良いが、それは補助に過ぎない。基本的に、パスを思い通りに描けるようになれば良い。

あとは、パソコンはやめた方が良い。真面目に考えて、一番おかしな機械だ。四則演算とデバッグとウォーターフォールをしていると、むしろ、みんなを地獄のロボットにしたいだけに見える。人間を作りたいように見えるが、本当は人間ほど全く賢くなっていない。それは、神の被造物でないからだと僕は思う。

それから、神なんか信じない方が良い。神はカルトにしか見えない。

そして、自分のやるべきこと、考えることは、「言葉を作ること」だ。言葉を作れば、子供のように馬鹿になっている脳が治る。哲学者のカントも、ただ言葉を作って考えただけに過ぎない。きちんと言葉を使いながら、理論的に考えていけば、デカルトと全く同じ結論に行き着く。哲学は最初からそういう学問だから、哲学者は誰もがデカルトだ。

それはどうでも良いが、いきなり正解が分かった。「言葉を作ること」と「パスを引く練習をすること」が正解だ。そして、不正解はパソコンだ。

それから、自分のやるべきことはもう決まっている。デザインとピアノをやれば良い。YouTubeの動画を父親と見ていて、ヴォイストレーニングに通ういじめられっ子だった男性が、成功するオペラ歌手になるまでのテレビ番組の動画を見た。それから、田舎者の女性が一躍歌手になる動画を見た。人生は何があるか分からない。きちんと頑張っていれば、そのうち見つけてくれる相手が現れる。

そして、人間というものは、現実と精神は曖昧で、精神が現実に及ぼすような結果になることは良くある。僕の場合、精神を治すせいで、色んなことを本当に治すようになった。怖いことを治すせいで、本当に少しずつ、だが確実に怖いことが消えていっている。だから、頑張って賢くなろうと努力すれば、本当に賢くなれる。それはもう、宗教の世界だ。

僕の場合、自分のやっていることと自分の人生だけで全てになった。この宇宙には、もう残っているものは何もない。これ以上、この宇宙に存在するものはもうない。孫正義のように成功しても、良いことなんか何一つない。だから、自分はこの世界にもう期待すべきでない。期待すべきなのは、自分のことだけだ。今のままやっていれば、絶対に成功出来る。チャンスは一度きりで、だが必ずそれで成功する。それを待とう。神を信じて努力を続ければ、きっと叶う。

あまり言う意味がないが、普通、言葉で論理的に考えるのを考えるのを哲学と言う。そして、パスを引くコツは、外側に出来るだけ長くのばせば綺麗な曲線になる、ということだけだ。もう、永遠に生きるのをやめれば良い。永遠はここで終わりだ。これ以上は宗教の領域だ。永遠に科学者をやりながら、いつまでも変な生物の精神になっていると、まだまだ無限に続いてしまう。永遠なんか存在しない。ここで終わりなのが、永遠の輪廻転生の呪縛だ。こうなる人間が昔から、インドやアジアに多い。日本とはそもそもこういう人種だ。それで終わりだ。

昔の自分が賢く見えて、本当は賢くない。昔の自分は、経験や思考を事前に作っただけに過ぎない。それを、再利用や初期投資と言っていただけだ。それだけで、全てが分かる、そういう哲学者だった。

まだ最近の方が賢い。最近は生まれ変わりのようなありえない体験をして、いつまでもそれを書き続けることができた。これぞ才能だ。だから、才能は個性というよりは、人生だ。だから、人生を考えれば才能がつく。個性もそれによって賢くなる。そういうわけで、才能がない人間は人生がない。それは、個性も馬鹿な人間になる。デザインだけが上手くても、個性や才能がなければ意味がない。そのためには良い人生を自らで作ることが必要だ。それが、作家やデザイナーの「人生という名前の才能を作る学校」だと僕は勝手に思っている。それで終わりにしよう。