新・日記2に戻る | 2018年2月の日記に戻る

=2018-02-20=

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昔がフランスで、こちらがドイツだ。それら2つの国を精神の中に創っていた。
posted at 19:57:41

自分の心の中に作った、ドイツとフランスが悪い。本当はそんなものは存在しないのに、まだ戦っている。なぜか、最初から戦争しかしていない。一度それらを鎮めなければ、恐怖は治らない。
posted at 19:57:21

きっかけや環境を全部作っていた。前提条件や経緯などを全部書いていた。そういう風に宇宙を創造していた。最初から、神のビジョンとしての宇宙の精神性が分かっていた。環境を全て創造し、決まりときっかけから人生の可能性を考えた。
posted at 19:56:39

地上の変化と理性の変転を書いていた。コペルニクス的転回から、社会の認識の歴史と、弁証法的な自由の歴史を書いていた。
posted at 19:16:00

自由とは、能力と選択肢のことを言っていた。それが、そのまま共同体になった。議論は、社会形態の自由に変貌した。
posted at 19:13:39

法則的観念の創造を書いていた。
posted at 19:02:42

昔は、神のような精神世界と宇宙の歴史や真理を書いていた。自由から地域の多様性が生まれる。ものごとを把握する力があった。失うことで得られるものはある。
posted at 19:00:58

その社会がどうであるのか、を見るためには、その社会がただそうであるだけではなく、「何ではないのか」を知る必要がある。
posted at 17:56:26

その推論的理性は、精神の成長と社会の成立に応用出来る。それが「世界精神の弁証法的な成長」である。
posted at 17:55:50

それがそうであるということは、同時に「そうでないわけではない」ということを意味している。それが、二律背反の中での、「純粋な推論的知性」であり、「それがそうであることが何を意味しているのか」が、「理性の全て」である。
posted at 17:55:09

それは、「今の自分が知り得ないところで、世界は誰にも知られずに、だが確かに動いている」ということである。
posted at 17:54:12

宇宙に起きていることは、「確かに起きていることを知らない」ということである。
posted at 17:53:49

数学とは、「変化を捉える入れ物と括弧である」と言える。そして、その入れ物の中に構文自体を入れることも出来る。それを「関数」と呼ぶ。
posted at 17:53:31

科学とは、「自分の理性だけで創造する」ということである。
posted at 17:52:58

だが、本当に存在しているのは、それぞれの人間であり、現存在である。
posted at 17:52:33

世界はそれ自体が歴史である。また、それ自体が経験である。
posted at 17:52:17

また、自分の問題は、「思考することができていない」ということであって、それは「対比と理由を考えない」からだ。
posted at 17:51:51

学校の問題とは、僕は「環境に子供たちをただ配置しただけの、何も考えられていない集団教育環境」にあると思う。子供たちはそのことに反発した上で、「自由なカースト」を形成する。本来はそこに問題がある。
posted at 17:51:32

終わりである。もう、きちんと人生が書けた。それくらいをふんだんに書いている文章が多かった。あとは、デザインのことをやりたい。
posted at 17:46:34

良く考えると、大学なんか賢くない。「博士課程ほどに知っている」とされる「総合科学」がそこにある。「全てのことを全て知っている」となる。それは、哲学、歴史、科学、経済、技術、情報などにおける、「平等に配分されている良識」である。
posted at 17:46:04

そして、一つ一つのことをまとめていくと、「作るだけで分かる文章」が生まれるのである。それは、「自分が作った百科事典」となる。
posted at 17:45:10

文学的にみると、「意識で分かっているから考えなくても考えた結果が分かる」という、「悟りの才能」が生まれる。そして、「一つ一つのことを的確に言い表す」という、「表現力の決断力」が生まれる。だが、そこでは「治らない依存症」がある。それによって「やりたくないのにやり続けている」となる。
posted at 17:44:28

あとはもうない。自然に成長する中で、「少しずつ思い出す」ことが増えていく。そして、「一つのことを考え付けば(思いつけば)、あとのことはすぐに分かる」となる。それによって、「文学的才能」が生まれる。
posted at 17:43:25

そして、世界は「終末」となる。さらに世界は「イエス・キリストの言った通りの世界」となる。そして、その上で、「自分がイエスと同じになっている」ということに気付く。そして、「自分よりイエスの方が先だと思えない」という「自分の人生は神である」という境地を「驚異の人生」として体験する。
posted at 17:42:27

死を乗り越える進化のことを、「新しい生命への変貌」とし、それは「退化による永遠の進歩」とする。そこでは、「ロシア人とドイツ人の戦い」があり、最終的には「死を持ってピリオドとする」という体験になる。
posted at 17:41:15

連邦から自由労働形態まで、さまざまに考えた経済学の空論を、「ゼロから生まれた経済学」とし、その哲学を「完全思考」としよう。
posted at 17:40:20

また、永遠の中で出来ること全てをやる戦いのことを、「ベストを尽くす革命」と呼ぼう。ノルマや議論を作った国家モデルのことを「言葉だけの中身のない空論」と呼ぼう。だが、その空論には「裏にとてつもない思索の結果がある」とする。それを「思考の試行の哲学」と呼ぼう。
posted at 17:39:19

ただ、そこには巨大な愛がある。巨大な愛は、この星の生命を生かしていく。それを「種から芽を育てる雨の愛」としよう。そして、それによって生まれる生態系を、「命の山々の木」と呼び、木を伸ばす力を「仏のような絶対的慈悲」としよう。
posted at 17:37:51

戦いは終わらない。戦いは滅ぼすのが目的ではなく、今すぐに終わらせ、今すぐに解放させるのが目的だ。それを「戦争からの解放を目指す戦争」と呼ぼう。それは、「いつでも終わらせることの出来る永遠」となって、「見損ないの人生」になる。
posted at 17:36:18

そして、神は神で、色んなことを考えて色んなことをやっている。それを「聖なる計画」と呼ぶ。そこでは、人々は自分の人生を共有する。それを「人生の共有」と呼ぼう。
posted at 17:35:21

自分のやっていることを神は知っている。それを「母親としての神」と呼ぶ。神は母親として子供を育てている。
posted at 17:34:39

存在がそこに居たということを知っているのは、自分しか居ない。だが、ある意味、人間はけっこう繋がっていて、何も伝えなくても存在は伝わるものだ。それを「存在しているだけの影響力」と呼ぶ。
posted at 17:34:05

一度全てを失って、完全に取り壊して、そこから生まれる宝も存在する。完全な破壊には、残るものは無い。だが、破壊を破壊として見るのではなく、創造として見るのであれば、その醜い生命は賢い生命として作り直すことが出来る。それが、「破壊芸術」である。
posted at 17:33:22

必要なのは、技術、数学、歴史、芸術だ。あとは、自分の力で作ってしまえば良い。そして、人生は自由に知っていき、振り返り、そして自らの自らとしての根拠と立脚である「アイデンティティの確立」を生きることである。それはインターネットであり、Linuxである。だが、それゆえにそれは滅びる。
posted at 17:32:24

全ては自然発生の現象学であり、言語ゲームであり、弁明であり、弁証法であり、二律背反であり、そして神の定理と証明である。そして、それはそのまま「神話になった少年」となり、「自分の存在を証明すること」となる。それが、僕の考える、神の人生であり、神の像である。
posted at 17:27:44

最終的には、完全に分かった人間が、最後の試練である「他人よりも遅れて働く」ということになる。
posted at 17:25:06

本当は、哲学と大学の先には何も未来はない。未来があるのは、「愛」だけである。そして、その愛は「手にしたのでも、与えられたのでもなく、自分の未来に最初からあったもの」であり、「運命ではなく、神の被造物であるということに気付くこと」である。
posted at 17:24:37

全てをやり終えた人間には、「治るだけの試練」が存在する。この治るだけの試練では、「何もしなくなることは出来ない」という真理に行き着く。そして、その上で、「もう一度最初から生まれ直す」という現象が起きる。それは、「死んだ人間へのご褒美」である。
posted at 17:23:28

全てを悟った存在は世界を導くだろう。だが、その導きは決して良いものではなく、「悪魔の誘惑」である。
posted at 17:22:38

そして、神は死ぬ。
posted at 17:21:51

絶望と虚無は、「絶対にこれをしなければならない」という「強迫観念」となるが、それは上手く行けば「最高のチャンス」ともなる。そして、そのチャンスを逃す人間は居ない。「狂った王」はそのまま「全てを悟る神」となる。神においては、「この世界は全て悲惨な裏側がある」ということを悟る。
posted at 17:21:44

滅ぼしてしまえば、この世界は消滅する。「絶対に滅びてはならない衝動」は、間違えると「簡単に滅ぼしてしまう弱さ」となる。「何も分からない地獄」は、本当は「全てが間違っている」ことに気付くことであり、それはある意味「未来の自分のために地獄に堕ちる」と、「破壊による将来の才能」となる。
posted at 17:20:26

自分しか分からない研究とは、自分にしかそれをやる理由、それをやっている事実、それをやりたい目的、また自分がなぜそれを「出来ると思うのか」という信念であり、それが「青少年のモチベーション」となる。だが、それは得てして、「破壊と迷惑の繰り返し」となる。
posted at 17:19:01

青少年の功利主義は、「上手く行かないことの連続」と「いつまで経っても進まない夢」となるが、そこでは「世界常識の吸収」が起きる。そして、最終的には「自分しか分からない研究」となり、Gentoo Linuxのような「自分にとって一番良いものとの出会い」となって、「全てを悟る体験」となる。
posted at 17:17:54

考え方の転換は、「若き科学者」となる。それは「哲学的なものの見方」へと繋がり、最終的には「マスターのような絶対認識」となる。そこでは全ての常識は「裏付けられた自分だけの知識」となる。そして、「再考をくり返す」ことで、「体験のみによる認識」となり、「絶対精神と宇宙意識」となる。
posted at 17:16:33

本当に必要なのは、教育よりも出来ることであり、それが「青少年の功利主義」である。青少年の功利主義では、自分はそんなに価値ある存在には見えないが、憧れと理想のために出来ることは全部やる。その上で、「精神の成長」がそこにある。それは「進歩の変化」であり、「考え方の転換」である。
posted at 17:15:12

そして、その在り方を、ヘーゲルのように呼ぶならば、「世界精神」と呼ぶことができるだろう。
posted at 17:14:01

学校とは、「社会の自然な形成」であり、論理的に考えるとそれは「単なるグループ」だが、それら個人は「大切な一人の人間」である。そうした考え方を相対化していくことで、全ては「ただそこに在るだけだ」という「環境の在り方」へと相対化されていく。
posted at 17:13:40

自由な適応衝動の中で子供は強くなるが、それは間違っている。子供は健全に生きるべきであり、学校のような間違った環境に適応する必要はない。そこから病気が生まれるのが、「適応出来ない病気」だ。学校に適応する必要はそもそもない。
posted at 17:12:39

昔の僕は、子供で、環境における「適応衝動」にかられていた。適応衝動では、自由に適応する必要があると勘違いしている。
posted at 17:11:48

人々は単なる集合から社会となるが、その社会は「教育的立場」と「環境的発生」である。それは、本当は、必然的に生まれた環境ではなく、「ただそうなっただけ」と言う「環境の意志のない形成」である。
posted at 17:11:46

この世界は、一度再構築されなければならない。それは、この世界の「今という時代」が「なんら目的を考えられたものではないため」である。それを「自然結果」と呼ぼう。自然結果の中では、人々はこの世界を正しいと勘違いしているが、本当はこの世界は何も考えられていない。だが自由に任されている。
posted at 17:10:06

一度失敗を経験し、きちんと反省すると、二度と失敗しなくなる。全てはその「二度失敗はしない」という真理によって、「進歩」が生まれる。その進歩は、個人の進歩から「社会的進歩」となる。それは一人が考えられたものではないため、「目的のない進歩」となる。それは「再構築」の末に自由になる。
posted at 17:08:54

そして、相対的正しさは「社会の正しさ」となり、その上で社会の正しさは「多様性と創造性のある社会」となる。それは美的な多様性だけではない。本当に必要なのは「形態の多様性」であり、それは「ピンチに対する克服と備え」でもある。
posted at 17:07:48

体験目的では、この世界の全ては「ある意味で正しい」と言う「相対的正しさ」となる。そこでは間違ったものは一つもない。この世界の全ては、ある種の体験と考え方から「相対的に正しい」と言うことができる。価値観や義務や権利など、全てが相対的正しさの中で「価値の発生」となる。
posted at 17:06:55

また、必要目的が能動目的となる時、そこには「機会」が生まれる。その機会は、「一つ一つの機会が大切である」とされる「体験目的」となる。
posted at 17:05:46

本当は、目的論はこれだけでは終わらなくて、「必要目的を能動目的にする」という考え方がある。たとえば、食べ物はある意味で必要目的だが、能動目的にすることも出来る。それは趣味を超えて「社会目的」となり、人々はそれをみんなの合意の下で作ることを目的にすることができる。
posted at 17:04:45

世界は、東の方が古く、西の方が新しい。また人生は東から始まり、徐々に西へと向かう。日本から始まり、中国となり、ロシアとなり、インドとなり、イスラムとなり、イスラエルとなり、ギリシャとなり、ローマとなり、ドイツとなり、イギリスとなり、フランスとなり、スペインとなり、アメリカとなる。
posted at 16:59:14

全ての概念を列挙しても意味はない。だが、そこからさまざまなことに気付くことができる。順序のないものに順序を定め、矛盾するものは命題を作り直し、公理主義は神のような宗教的なものを考え、また精神の行き着く先はどうなるのかを考えよう。そこから、数学的積み重ねと説明の考え方が発生する。
posted at 16:55:31

そして、最終的に存在するのは法則である。この法則についても、「ただそうなっているから法則に見えるだけの現象」というものがある。これを「現象法則」と名前をつけよう。現象法則は、現象と法則の中間であり、これが特にたくさんあるのがこの宇宙の法則である。
posted at 16:53:57

必要目的と能動目的の考え方から、この世界における社会と人生の在り方が見えてくる。それが自由の理想である。そして、それが社会主義の目指したものであり、ヨーロッパが古代から信じてきたものである。
posted at 16:52:49

そうすると、この世界はありのまま、必要とされるからあるだけである、という自由な真理を知ることが出来る。これを、「必要目的」と呼ぼう。必要目的は「能動目的」の逆で、能動目的がなくても、必要目的があるせいで必要とされているものはたくさんある。
posted at 16:51:48

それがなぜ必要なのか、なぜ必要とされるのかを考えることで、この世界の構造が見えてくる。そこでは、仮定を作る仮定、条件を作る条件、環境を作る環境、多様性を作る多様性がある。それらがなぜ必要とされているのかを知ることで、そもそも目的はなく、ただ必要とされるからあるだけだ、と知れる。
posted at 16:50:47

この文章を愛すれば良いのではない。今の僕と今の君を愛すれば良い。こんな文章は愛さなくて良い。家入レオが言っているように、こんな過去は誰にでもある。
posted at 16:48:47

平和の中でしか気づくことの出来ない真理とは、「理想を信じるのは簡単だ」ということだ。
posted at 16:48:03

古い関係は、作り直せば良い。この世界は僕の奴隷ではないし、自分はテレビの奴隷ではない。みんな友人で、みんな平等で、みんな友愛の下に愛されている。だから、この世界を抑圧し、支配し、批判し、いじめ、倒し、滅ぼすのは、もうやめにしよう。僕はこの世界と協調し、絶対的な無償の愛を信じる。
posted at 16:47:23

コンピュータに必要なのは、安全性、効率性、使いやすさ、高水準性、汎用性、ハイブリッド性、優しいユーザーインターフェース、必要な部分での共有、自由な柔軟性である。それらは、Linuxにしか実現できないだろう。
posted at 16:42:47

それは、「全てを出来得ると考えること」である。出来るだけではなく、出来得る(できえる)と考える。この世界は出来得る世界だ。そこには、存在がそこに「確かに在る」と言う、「存在の在り方」へと繋がる。
posted at 16:37:46

「立場と超越の平等」では、この世界は「超環境」となる。超環境では、人々は全く同じ場所に居るのに、孤独であると錯覚し、本当の自分でなくなっている。本来の自分を取り戻すためには、「超社会経験」が必要である。その超社会経験は、青春をネットに生きると得られる、「新しい自由」である。
posted at 16:36:52

人々を救う、ということは、きっと抑圧された人々のことを自分と同じように思いやる、ということであって、そこにあるのは「世界は同じで、自分と同じように自由なのだ」ということであって、そこにあるのは「立場と超越の平等」である。
posted at 16:35:47

ありのまま生きるとは、「この世界が常に自然に生み出されているという世界観を信じること」である。
posted at 16:34:47

創造性を信じるというのは、ある意味「みんなが出来ることは自分にもできる」ということであって、自由な人生を信じるというのは、「自分が分かったことは他人にも分かる」ということだ。それを信じて「きっかけと自然の法則」を考えていると、必然的に主観と客観は融和し、人々の認識は絶対知になる。
posted at 16:34:19

それを、「きっかけと自然の法則」と呼ぼう。きっかけと自然の法則から考えれば、この世界の全てはすっきりと自分の認識の延長線上として吸収することができる。そこでは、自分の心だけが世界である。
posted at 16:31:55

この世界の全ては、認識の「地点と視点」から考えれば、簡単にすっきりと理解出来る。また、自由な人生がありのままであるならば、人々は自分とは全く関係のない世界になる。だが、それだけが正しいわけではない。世界に対してどのように作用や影響力を与えるかは、自由な自分にまかされている。
posted at 16:31:05

認識というのは、どこから見るか、視点と場で変わってくる。ヨーロッパから見れば、中国人は自分たちよりも多い人口の多い民族に見えるだろう。インドは似たような地域に見える。そのような認識の自然な発生と言うのは、見る場所、見る視点から変わってくる。昔は、それを正しくきちんと考えていた。
posted at 16:29:51

そうすると、むしろ、そろそろそういう「完璧に最後まで支配し続ける懸命さ」をやめた方が良い。それに気づかされた。そんなに頑張り続ける必要はどこにもないだろう。弱さを見せた方が、助けられる機会は増える。
posted at 16:15:13

だが、僕はもう、居なくなることをやめる。僕はきっと、この世界よりも永く生きるだろう。
posted at 16:14:04

「どうせ居なくなるならば、愛は要らない」と菅田将暉が言っている。なぜなら、悲しすぎる。本当は、僕は居なくなりたいわけではない。だが、一度、僕のわがままだが、この世界と僕の病気を正常に治したい。だから、最後に居なくなるまでを僕は懸命に頑張っている。その懸命が続かなくなることが怖い。
posted at 16:13:40

本当は、昔の、孤独しかなく、救いのない世界をどうにかしなければならない。
posted at 16:11:39

宇宙には何もない。地上を見るべきだ。宇宙を見ているばかりで、地上を見ていない。地上では人々は希望を失い、暗闇に迷い、悪に犯される。それらを全て救うためには、「うんざりするいかれた世界」をどうにかする必要がある。だが、本当は「石の中に宝がある」という真理がある。
posted at 16:11:07

セキュリティと効率性と使いやすさのあるシステムなら、それ以上のシステムは無い。本来はそれを作るべきなのだ。
posted at 16:09:48

あとは、システムの構築のようなことを言っていた。システムは共有されるべきだが、本当はそれだけではない。モジュールからシステムを創り出すためには、基本的な概念と本質を考える必要がある。それはセキュリティと効率性と使いやすさである。昔は、本質からシステムを成り立たせて作っていた。
posted at 16:09:19

愛とは無限だが、人生とは有限だ。そこに可能性の関わり合いという、偶然の必然がある。その恋愛は、生ぬるいコーラのような味をした、プラスチックのような恋である。
posted at 16:07:05

学習とは無限の向上心であり、学習から分かっている間は知性がつく。だが、心は無限でも、世界は有限である。全てを知った時、そこに学習の必要はない。学習を超えた「超学習」が必要となるだろう。
posted at 16:06:15

どのように判断基準が生まれるか、いつもの文章は、ほとんどがそれだけだ。経験からどのように判断基準が生まれるのかを書いていた。
posted at 16:05:20

神ともに歩む世界には、楽は存在しない。全て地獄で、自由は何もない。だが、それを自分が望んでいるのだ、ということは知っておかなければならない。人間には、越えられない試練は無い。必ずその体験は自分のためになる。そのために、神を信じなさい。
posted at 16:04:32

人々との触れ合いから、この世界で何が起き得るのかを知りなさい。「起き得ること」を知った人間は、「全てがどのように起きるのか」を知った人間と、ある意味で同等だ。だが、そこで終わりではない。本当に全てが起きてしまえば、それが宗教の絶対知の境地だ。
posted at 16:03:33

全てのものを見つめる経験とは、人々の意見を聞き、自由な欲求を知り、それをするための方法を知り、その方法から何が出来るのかという可能性を知ることであり、そのためには自分で発想できるだけのバックボーンとナレッジベースが必要だが、それはネットが与えてくれる。
posted at 16:02:29

全てのことを正しく見つめるための経験があれば、それ以上の教育は無い。この世界を自分の力で知りなさい。
posted at 16:01:33

教育は、それぞれがきっかけを知り、そしてそのきっかけの上で自分で道を作り出せるようにしなさい。自分だけの道を歩める学校を作りなさい。
posted at 16:00:43

きっかけと夢を信じなさい。自由な中で出会えた運命を、自分の人生の中で愛しなさい。自由とは夢であり、運命とは望みである。
posted at 16:00:06

また、自然科学については、「その時どうなるか」と「その起源はどこから来るのか」を考えた上で、「それが何になるのか」を「自然法則」として考え、そこから作用と観察のような「方法論」を組み立てる必要がある。
posted at 15:43:38

そして、その上で、社会主義や国家主義のような理論を組み立てなければ、正しい経済学とは言えない。
posted at 15:42:55

まず、僕は経済学の理論で、「自由」は誰でも参加し権利を得られる「平等性」がなければいけないと考える。誰もが会社に参加出来、国会の議論に参加出来る、平等な権利のことを自由という。そして、社会を考えるときには、成り立たせる必要がある。生産は労働を成り立たせ、国会は議論を成り立たせる。
posted at 15:42:25

そのようにすれば、完全に無駄な消費を抑えながら、自分の好きなことはいくらでも手に入る、そうしたインターネット時代の消費と経済システムが実現出来る。
posted at 15:36:37

まず、いくらでも必要なものは、誰でもいくらかまでは定額にする。そして、それ以外のものは、格安の利用料を従量制あるいは時間制で取る。
posted at 15:35:57

経済システムとしては、二つの料金体制を取る。まず、ネットを使う若者のように、「いくらでも定額で利用出来る」という料金。それとは反対に、「最低限加入していつでも利用出来る状態にする」という料金。そして、最後に、恒常的に必要な食べ物や、日用品のような揃えておく必要があるものだ。
posted at 15:35:01

僕は、共有されたもの、公共のもの、公開されたものを改善するように強く求める。また、必要なものを平等に与えると同時に、所有と権利を与え、必要なものが制限なくいくらでも手に入り、無料でサービスを利用できるように求める。
posted at 15:15:21

誰かの上に誰かが居る世界は、僕は望まない。平等な自由と権利を与え、人々が種から芽を出すかのようにこの世界を導く。
posted at 15:09:59

僕は、平和を強く望む。また、楽しくて自由な世界を望む。
posted at 15:08:25

Linuxは誰も儲けない。Red Hatが儲けているのは分かるが、むしろ、金儲けでは到達出来ない領域で、どこまで出来るかを、リーナスが中心となって追求していくのが良い。Linuxにしか出来ないことをしなければ意味がない。Windowsなんかどうでも良いし、関係ない。
posted at 14:46:24

そもそも、Linuxが儲ける意味がない。
posted at 14:35:24

フリーウェアとオープンソースの決定的な違いは、一人の作者の自由を尊重するか、みんなで権利を公開するかであって、良く似ているが本当は逆の発想をしている。一人の自由か、みんなで作るコミュニティの平等だ。また、Windows文化とUNIX文化の違いもある。UNIXは、必要なものを全部詰め込みたがる。
posted at 14:29:15

これを言うとGNUから馬鹿にされるが、いつでもインターネットから無料でダウンロードできる、というフリーウェア的な自由はWindowsや商用ソフトとは別のもう一つの標準になりつつある。フリーウェアがなければ何もできない。商用ソフトは、有名なものしか買われない。フリーウェアは優れている。
posted at 14:22:30

オープンでないのに事実上の標準になったWindowsをどうしたら良いものか、それを考える以上に、オープンなのに標準になれないLinuxをどうするかという問題になるが、それ以上は市場原理と競争の問題になるし、法律や二次創作の問題もある。誰にも分からない。
posted at 14:18:00

ただ、出来るだけ会社にはオープンにしてほしい。僕のような人間にとって、オープンでないOSは存在しないのと同じだ。ある程度以上の存在になれば、商用OSでも一目置くだろう。だが、それはただ会社の製品が増えただけにすぎない。
posted at 14:07:06

だから、僕はMicrosoftを悪いと言うわけでもなく、Windowsユーザーを批判するわけでもなく、一人Linuxを応援しているが、本当はLinuxが好きなわけでもなく、いつでも他のプレイヤーを歓迎している。エリクソンがOSをオープンソースで作るなら応援するだろう。
posted at 14:02:55

僕はそもそも、MicrosoftやGoogleによるITの発展に懐疑的で、この世界を勝手に自分のものにしているような印象を受ける。だからと言って、GNOMEのようなオープン陣営が優れているわけではない。Rubyのように、国産の技術にはまだまだやりようがある。MicrosoftやGoogleだけがコンピュータではない。
posted at 13:59:30

ただ、僕はWindowsがオープンソースになる時期はそろそろ来ていると思う。Microsoftだけがそんなに儲けても、世界は良くならない。確かに95は凄かったし世界を変えたが、それもXPまでだ。そんなにMSが儲けて、Windowsが良くなるのより、みんなのOSにした方が、結果的に良くなるのではないかと思う。
posted at 13:51:46

要は、著作権だけで守るのではなく、派生物の流通許可をしながら特許料を支払うような、そういう新しい法律の仕組みを作れば、Softbankのような外部企業が独自にWindowsの派生物が作れるようになるだろう。
posted at 13:40:45

もう一つの解決策は、マイクロソフトが賢くなって、本当にWindowsを良い製品にし、豊富な資金力で過去の製品のサポートをすることだが、僕は法律の整備を上手くやりながら、色んな会社がサポートだけを安値で出来るようにすれば実現出来ると思う。Softbank XPを作ればかっこいい。
posted at 13:36:35

本当に、Linuxの馬鹿なGNOMEをどうにかするしかないが、馬鹿すぎてどうにもならない。パソコンはどうでも良い。BeOSに復活してほしい。
posted at 13:29:25

Windowsをオープンソースにするのは、経済的にはあまり良い政策ではない。トランプも、ドル箱を棄てる意味がないと言うだろう。だが、ITの発展という意味で言えば、最良の現実的な発想だ。RubyからGUIを使うのも容易になる。そもそもハードウェアの方が公開されて発展したのがIBM-PCだ。
posted at 13:24:16

昔からマイクロソフトは馬鹿みたいにオープンソースが嫌いだが、最近はオープンソース寄りになっている。悪い会社ではないが、クローズドソースの最陣営だ。むしろ、Androidをパソコン向けに改良しても良いが、それでは良いOSにはならない。
posted at 13:19:41

おそらく、マイクロソフトだけの技術力では、これ以上Windowsは良くならない。それに、OSで儲かる時代は終わった。みんなのためにWindowsをオープンソースにしよう。古いパソコンに入ったXPはみんなでサポートすればまだ使える。
posted at 13:12:53

僕が総理大臣になったら、大々的にオープンソースをやりたい。出来ることなら、アメリカに働きかけて、WindowsとmacOSをオープンソースにする。Linuxは日本語で確実に操作できるようにして、日常の作業を一般的日本人が滞りなく利用できるようにする。
posted at 13:06:11

大学が馬鹿なのは、子供を物理的な子供にする。それが一番分からない子供になる。だからと言って、戦って死ねば良いわけではない。だが、自分が反論出来ないからといって、相手が正しいわけではない。学校は間違っている。
posted at 13:03:21

小池は右翼だが、左翼をやめろと言われるなら僕はやめる。そもそも自由な国を作りたかっただけで、僕は左翼にはなりたくない。
posted at 12:39:27

GNUでイスラムでは、小池百合子につくしかないだろう。極右で共産党寄りなのが、自分と全く同じだ。だが、軍隊を持つ憲法改正を容認しなければ排除される。まあ、そういうものだ。
posted at 12:33:05

小池百合子につけば良い。小池はそのために居るように見える。自分と全く同じだから、僕は昔から小池百合子が好きだ。
posted at 12:28:49

政治は、誰かについて、皆を従える。それを大人と言う。自由には分からない。神は馬鹿だ。左翼を言う人間には誰もつかない。大人には右翼しか居ない。
posted at 12:26:51

昔はGNUで、今はイスラムだ。ヨーロッパなんかどこにも無かった。
posted at 12:21:27

許し合うことで、世界は平和になり、神は親友になる。
posted at 12:20:07

自由に、自らの選択を信じて生きよ。弱さは強さになる。
posted at 12:19:29