昨日分かった文章を忘れた。認識や人間のことを言っていた。悟りや心理学的な段階のようなことを言っていた。自分の頭の中がどのようになっているかを書いていた。
僕は、この世界を「予想通り起きる世界」に変えた。予想通り、理想通り、希望通り起きる。その予想通り起きる世界を、もう予想通り起きない世界にすれば良い。予想と反することがたくさん起きるようにすれば良い。予想通りとは言うが、全部が簡単に可能であるわけではない。理想のためにたくさんの努力をして解決している。だから、こういう風に、全部解決して分かるようになった。こんなことをするのは僕だけだ。予想通りにはもう、ならなくて良い。
もっと、「前提がない中で分かる」ようにすれば良い。子供にはそういう、前提となる知識や経験がなくても分かる人間が多い。前提の知識だけを知って、それだけになってしまうと、前提の無い考え方が無くなってしまう。
考え方を知りなさい。前提をゼロにして考えると、この世界の「表面的な考え方」が分かる。そこが分かる人間なら、何も無くても分かる。中学生にそういう人間が多い。
昔の自分は「何が何の前提となっているか」を良く考えていた。
認識は自分の側にある。もっと、認識は自分の心から生まれるのだ、ということを分かった方が良い。そうした心理学が分かる人間が昔、多かった。
仮想的なコミュニティの形成を考えることで、この世界は自由に変えられるようになる。
一度、「今の自分のように分かる」ことを変えてみても良いだろう。全部同じように、全部同じ方法で、ひたすら同じことを続けていても、何も分からない。昔の自分をアホな引き篭もりだと思っているが、あれはそんな人間ではないし、色んなことを自由に哲学者のように分かっているというが、あれはそんなにまともな人間ではない。狂っているように見えて、実際のその場面を見れば、まともにきちんと成長し、色んなことを確かに分かっている。
一度、「思い出せすぎる」のも止めた方が良い。そんなに何でも思い出せるようにするから、知性がなくなって分からなくなる。知性と分からないのは同じだ。何も分からない人間の方が、知性がつくし、精神も良くなるし、きちんとした考え方も分かる。本当は、あれはそういう、社会的経験を重ねることで知性がついた人間だ。そういうことを言っている文章が多かった。
そんなに分かりすぎない方が良い。分からなくてもそのうち分かるから、そんなに全部分かったことは忘れる。むしろ、全部分かってしまえば、それが分からなくなっても、記憶の中でそれは活きていて、それによってたくさんのことが分かるようになる。
プログラミングをやりたいなら、むしろ、具体的なものを作った方が良い。CMSサイトでも、人工知能でも良いから、もっと具体的なものを書かなければ、プログラミングは出来ない。このホームページを簡単に作れるCMSを作っても良いと思う。人工知能の勉強をしてロボットを改良しても良い。
僕は、昔、この世界を変えた人間だったが、最近はその変えたことを利用して世界を導いた。だが、色々と反省点があったので、ここで列挙したい。
・みんなを馬鹿にする意味がなかった。
・自分が分からなくなる意味がなかった。
・ありえない精神を作った。
・世界を変えたのが無駄に終わった。
・世界を変えようとするあまり、世界を悪くしている。
・自分の地獄に道連れになっただけで、みんなは何も良くないし、辛いだけだ。
だから、僕はこの世界を正常にする。本当に「良い」と思えるような、そういう世界にしていく。この文章は愛と罪の「告白」である。
大学では、数学やコンピュータ科学などを「一般から個別へ」と教えることが多い。だが、僕はあえてその逆を提唱したい。それは、「実地から仮想へ」というもので、社会におけるさまざまな実地的な事柄を最初に知って、そこからしだいに一般的・仮想的なものへと至る、という考え方だ。
さまざまな実地的な経験を既に分かっておくことで、さまざまな理論や思考をしやすくする。「思考する前に経験する」というこの考え方は、数学や大学とは逆で、何にでもあてはまる、ボトムアップでエジソンのような発明家的な考え方だ。
Linuxカーネルの勉強のために以下の文章を読んでいる。
The Linux Kernel
https://linuxjf.osdn.jp/JFdocs/The-Linux-Kernel-images/frame.html
昔は、人生の経験や社会の実例を作って、そこから理論を導き出し、社会を創造出来るようにするような、そういう文章を書いていた。
僕は、今から予想外のことを起こす。そして、それ以降はもう、予想外のことは何も起きなくする。恐怖や不安は無くなって、楽になる。そして、世界は解放され、再び楽園へと戻るだろう。