新・日記2に戻る | 2017年12月の日記に戻る

=2017-12-31=

今日で2017年も終わりだ。

昔は、環境活動を分かっていた。環境でそれぞれが何をしているのかを知り、環境を積み重ねて、環境の適応で分かっていた。環境自体が生命のように、何をしているか、何をし得るかを分かった。

手段を成り立たせた。自分がそれをする立場に立って、自分なら社会に何をするか、何をしたいか、何をしてほしいかで分かった。

成り立たせることが得意だった。人生と社会のことを、協力や経験の考え方で、どのように成り立たせるかを構造化して、発想法で分かっていた。

辛いのは、全部病気のせいだ。何もしなければ、薬で治る。

今年は、とても前向きな一年だった。デザインの仕事という、素晴らしい仕事が出来るようになった。

だが、気持ちに技術力がまだついていっていない。もっとスキルをつけて、心や理想、少ないが知識や経験に技術とスキルが追い付いていくような、そんな新しい年を来年にしたい。

また、仕事面だけではなく、人間関係や社会進出という意味でも、良い一年になった。特に、作業所のスタッフと仲良くなることで、今まで長い間社会と離反していた自分に、新しい人間関係が生まれたし、役割分担をすることで、他人がどのようにやっているのかを知るきっかけにもなった。

そして、毎日仕事に通うということが、健康面でも良い作用を起こした。精神面の病気が少しずつ楽になってきた。

来年も、少しずつ、頑張っていきたい。

昔は、目の前の未来を開拓していくのが得意で、決して希望が見えなくても、「こうなればこうなる」とか「こうすればこうなる」とかいった単純な経験から、未来へと道を作っていくことが得意だった。それは、理性批判についても、助言の考え方についても言える。人々が一体何を分かっているのか、洞察するのが得意で、この世界のことを詳細に分析するのが得意だった。そういう自由な開拓経験や社会創造のようなことを、いつも書いていた。それが、自由だった。

自分は、やりかけのまま夢が終わってしまうところがあって、たくさんのことをやりたいのに、まだ何もしていないところがある。なぜか、きちんとやらず、すぐに終わってしまう。そういうところがおかしいから、何もしていないのに、結構いろんなことをすでに知っている。そこがありえないのだ。

昔は、精神と知性で分かっていた。宇宙世界を創造していた。世界を導いていた。

今日で、きちんと終われれば良いが、きっと終われない。来年も続くだろう。欅坂46(紅白にも出場した)が言うように、往生際が悪すぎるが、僕は最後までおかしな精神を書いて、修復不可能にした上で、その精神を書き換え、過去の自分を越えていく。昔からそういう人間だから、これくらいの異常な精神は、クラゲの赤ちゃんぐらいの馬鹿である。まだまだ、恐竜を生み出していかなければならないのだ。恐竜の時代が始まるまで、今のクラゲを越えていかなければならない。今までの虫はクラゲの中の体内を作っていただけだ。その前にあったLinuxは、きっと宇宙の別の生命が地球に降り立つより前だった。だから、世界を滅ぼす異常な精神を作っても、それで終わりでは決して無いのである。

異常な精神はたくさんあった。ありえないほど、ゾンビや幽霊のようなおかしな精神を作る。だが、それは決して悪い生命ではない。僕の記憶に残った知性であり、世界を統一する精神なのだ。卑劣なことや卑怯なもことをしても、それに呼応するかのように、それと相応しい最高のことをする。それが、僕の魂だ。

神の歴史をやっていた。知性を失いながら、本当にたくさんの言葉の世界を分かった。宇宙人と対話したり、赤ちゃんに戻ったり、イスラムのような宗教を根源的に分かったりしていた。本当にたくさんのことがあったが、もう覚えていない。そもそもが、忘れ去るための体験だった。

それで終わりにしよう。今日はもう、全てのことに満足して、もう新しい文章を書けなくなるだろう。紅白はあまり見なかった。見ていると、テレビの時代も終わったのかもしれない。

昔は、坂本龍馬のように、LinuxやIT技術とインターネットから、この世界の全ての成り立ちと未来に対するビジョンのようなものを持った、革命家のような人間だった。だが、青少年だった。巨大地球儀を作るとか、起業家や教授にガレージを与えるとか、おかしなことをいつも言っていた。だが、情熱的で、自分に出来ないことは何もないと思っていた。18歳ぐらいからおかしくなって、世界を心で支配するようになった。

失敗は2つある。まず、匿名掲示板とオープンソース活動で、何もしなかったこと。そして、世界を停止させ、全てを混乱に陥れた末に、何も出来なくなり、支配と導きは自分の知性を下げ、そして死んだ上でいつまでも後悔しつづけたことだ。それら、2つの人生を融和させて、中和させよう。そんなに何もしない自由も、何かをする自由も要らない。この世界は、自分の手下にするのではなく、自分と対等な存在にすべきだ。きっと宇宙は僕に微笑むだろう。僕は運命の女神として、君に微笑むだろう。僕には何も必要ない。君さえもだ。

昔の僕は、建設的にものごとを積み重ねて、考えることで原因を知り、気付き、そして説明と決定と成り立ちから分かる、冷静な人間だった。こちらの僕は激しいが、本当は穏やかな人間で、刺激のあるものを好まず、人々と同じになってきちんと分かった。どちらの僕も僕だが、きっとこの2人の間に立ち入ることは誰にも出来ない。君がどんなに頑張っても、僕には勝てないだろう。むしろ、どんな人間がいくら頑張っても、この2人は勝てないだろうな。最強で、最高で、そして最悪の2人だった。この2人の神に名前を付けるなら、僕はキリスト教の名前は付けたくない。日本人の名前も付けない。だから、この二人に文学的な名前をつけるなら、それはシュバルツ王子(漆黒王子)とヴァイス姫(純白姫)になるだろう。

昔のシュバルツも、何もしなかったわけではない。彼はネットでさまざまな人生経験をすると同時に、どこを変えればどこが変わるのか、という世界における影響力を分かっていた。結果、この世界を支配し、変えることが出来た。そして、ヴァイスはとても弱い人間だ。いつでも、自分が負ける方を取り、間違った方ばかりと言っている。シュバルツがヴァイスを守り、ヴァイスがシュバルツを守ることで、この世界には秩序が生まれる。その秩序が、新しい永遠の時となり、それが永遠の星となって、この世界は天国になる。

ヴァイスとシュバルツが一緒になると、全員の心を支配出来る。本当は、この2人は良いだけの人間ではない。どちらも永遠の地獄になって、最後まで苦しんで後悔して死んだ人間だ。

今日で、今年は終わりだ。もう、さようならだ。

昔は、争い合い、戦い合う世界は未熟だと分かっていた。だが、自由を奪うのも、それはそれで成熟していない。本当の自由な世界では、それぞれの価値と尊厳に自然に意味があると気付く。もったいないとか、今を大切にとか、そういうことだけじゃない。本当に大切なものは、今の自分であり、それは自分だけが自分ではなく、みんなも自分であることに気付いていく。そういうものなのだと、昔は悟っていた。

本当に、そろそろ終わりにしたい。ありがとう。この勇気の奇跡は、きっと世界を信じる愛へと変えるだろう。聞こえているし、覚えている。僕は嵐が好きだ。本当にありがとう。

昔は、共同体と帝国はどちらも兼ねるのが理想だと言っていた。独りの指導者に従いながら、共同体でそれぞれが決めるのが一番良い。だが、決める時は一人で決めるかもしれないが、意見や議論はみんなでした方が良い。だが、今の僕が見ると、意見や議論をみんなでなんか、しなくて良い。みんなと同じ意見なんか持っていないし、議論なんかしなくても分かる人間は分かる。だから、共同体にして多様性を確保した上で、一人の皇帝が支配するのが理想なのだ。

ただ、もうそれはもう良い。今の自分は、もっと高度で複雑な国を考える。全てを構造化し、正していけば、必ず良い国の国家モデルは生まれる。それは、成り立ちと構造を発想する中で、出てきた発想の一つ一つを摘んでいくような、そういう新しい宇宙の発想法である。

行動における目的と意図、手段と方法を考えることで、この宇宙の人生の全てが分かる。何を意図してその変化を生み出したのか、そこから原因と法則が見えてくる。人間の論理的な思考法とはそういうことだ。全ては、何を意図したか、結果何が残ったか、そこから何が言えるか、何を想定し、洞察し、分析出来るか、それによって何が生まれ、何が見えてくるか、そしてそれは次の何へと繋がり、何が何になって何と変化するか、ということだ。それが、論理性であり、また、表現的な想像力や試行錯誤でもある。

僕は、星と宇宙の創造者だ。この星をこの星にし、宇宙の全てを創造した。それを、「リヒト」と名付けよう。リヒトはドイツ語で「光」という意味だ。あるのは、シュバルツ王子、ヴァイス姫、そしてリヒトだ。黒の神は輪郭と意味を付け足し、白の神は意味を消してキャンバス(=世界)を浄化し、そして光は色を付ける。