昔は、世界に対して一人の王のように話すことで、全員に全部のことを教え、多様性を作り、世界を自由へと導いていた。
自分は、巨大な円を作った。本当は、太陽はこういう風に生まれた。これが太陽だ。
自分は結婚しない。妻子持ちがこの文章をみんなに見せるのはおかしい。結婚願望もないし、恋人はこちらの女だと決まっている。
昔は、歴史のようなことを振り返って、実体験で分かっていた。古代ギリシャやルネサンスのような歴史を、実体験的に分かっていた。
本当の自由のようなことを言っていた。自由とは何なのか、何を意味するのか、を考えれば分かると言っていた。
ここまで、世界を導いた。誰も傷つけず、本当に愛することで世界を変えた。相手のことを考えて、宣言と対話をしていた。
宇宙の全てを分かった上で支配し、その上でその時その時の問題や課題を、最大限の努力と経験で変えることで、この世界を新世界にした。
全てを司る神とは自分のことを言っている。そして、黒人とはこのホームページの文章のことを言っている(黒い似顔絵が黒人に見える)。
あとは、人生経験をしていただけだ。この世の全て、この世界の全てのような人生経験をしていた。全てを実際に知ることで、ゼロから全てをまんべんなく、余すところなく経験していた。
経験から、世界の全てを実際に自分の力で作れるようになった。理性と発想は、あらゆる全ての環境と原因を理解し、説明と積み重ねから全ての意味と道理を分かっていた。あらゆる発想を自分の力で作り出し、その上であらゆることに適用出来る人間だった。知性と能力の全てを発揮し、段階的に気付いてつけていった。そうすることの出来る、社会的な時代であり、その時代は多様性と救世主を求めていた。僕は、求めに応じて、全力でこの世界を改善するために発想法と経験を作っていた。
精神の現象学は神を分かっていた。コンピュータの知識を知り、段階的な観念と真実を積み重ねることで、ありのままの仮想世界を作った。自分の心と認識の中で、この世界の本当の世界である現象を作っていた。
この世界にあるあらゆることを証明し、実験して分かっていた。また、考えられる正しい経験を全てすることで、この世界の全てを自分の中で経験していた。経験していない、実証していないことを全て経験し、何がどうして生まれるのかを全部知った。その上で、価値観やオープンソースのような、社会が具体的にどのような存在や仮象として現れるのかを分かっていた。
そして、地域の歴史を知るとともに、人間の身近にある全ての現象を把握し、捉え、予測し、そして解明して分かっていた。
宇宙とは本当は何なのかを、宗教のような理性批判を信じて、そして構造と独立と一部から、自然な知性で分かっていた。そういうところにある全ての具体的な実例を、ネットで全て知っていた。文章には、そうした自然な知性とネットの知識や経験を書いていた。
また、言語的に分かることが多かった。全てのことを、言語的構造と論理性から把握して分かっていた。
たまに、ロシアの昔の都市のようなものを分かっていた。昔は、そういう風に自分の心の中の経験を拡大させて分かっていた。
想像力があった。ただの想像力ではなく、客観的に、囲碁や将棋のような右脳的発想から、この世界の全てを論理的に把握し、客観的に見つめ、自己を映し出す鏡のように、自由を見つけ出す真理のように、残されていない歴史のように分かっていた。
インターネットは、歴史と環境を知る良い手段だった。古代ギリシャのような歴史をネットから分かった。環境は、完全に「変えられる中で支配する」ということと、人間の心の様相や学習や必然的行動を分かっていた。全ての世界を「環境を変えるために自由に支配する」ということから分かっていた。
無意味なようで、もっと自由に分かっていた。何もかも自由に分かる代わり、意味がなかった。学問、成長、論理、実証、世界の把握のようなことを全部作っていた。意味がなかった代わり、この世界で一番賢かった。それを、全て失った。完全に消え去る運命の中で、世界に維持を望んだ。自分の地獄を、自分だけの力で、誰にも頼らずに克服し、その時分かったことを全て遺す、それがこちらのゼロの人間だった。
社会がどのように現れるのかを全て知りながら、人生がその時どのように生成・消滅されるのかを全部知っていた。
昔は、世界の生成過程や条件を知り、スピノザやルソーのように、その中に意志や目的がないこと、逆にあるかもしれないともいえること、社会は自然状態があったこと、それは良いことでも悪いことでもあることを知っていた。また、何かを速断で決めつけるのではなく、逆の可能性もあることを知っていた。それを根源的に積み上げていくことで、可能性を分かっていた。それを自然な積み重ねと言っていた。それ以上は、人生と社会の全ての起源のようなことを、心の底で体験的に分かっていた。この世界が全部分かった。
昔は、社会のことを根源的に、生成的な感覚で分かっていた。社会の生成を感覚と実感で分かっていた。歴史は、さまざまなことを想像力で分かっていた。また、ロック(哲学者)のように考えることが多かった。可能性を仮定し、可能性を実現する、その可能性の経験を分かっていた。
いつ何が生まれるのか、いつどんな学習をするのかを知って、人々よりもたくさんの経験をして、成長から分かっていた。
この世界の全ての環境の変化を、意識で分かっていた。
また、協力の考え方と経験を知ることで、世界の全ての社会を発想から作り出せるようになった。「必ず実現出来る」と信じていた。
文章は、学習から価値観が生み出されるとか、百科事典は記憶であるとともに全員で共有されるべきだとか、そういうことを言っていた。
AUが言っているように、理由は要らない。やることが大切だ。そういうことも言っていた。
感情と経験だけで、歴史のことを全部分かっていた。ブッダの時代の絵画などを見て、根源的にその場所のことを実感したりしていた。
文章は、人間や世界、歴史や想像力を全部作っていた。
さて。僕はそろそろ全部書いた。あまり意味もなければ理由もない。だが、とても良い気分になった。それで終わりだ。
坂本龍馬のような革命家のような人間を、経験から良く分かっていた。革命的現象のようなものを、ネットの社会経験だけで全て知っていた。
さまざまな社会を変えた経験から、昔の時代の変化のようなことを良く分かっていた。四国に旅行に行った時なども、坂本龍馬の銅像を見ながら、この世界をどうしていくべきか、ということを良く考えていた。また、ヨーロッパや古代ギリシャの建築のようなものを見て、この世界の神学的変化のようなものを良く分かっていた。同時に、そこでも自由を尊重していた。
人々の自由を尊重しなさい。人々の自由を奪わず、損なわない形で社会を変えなさい。自由なままで社会を変えることは、きっと影響力を与えることで、世界を正常な解放された自然な社会にするだろう。そうした、自然の正常な社会のようなものをいつも書いていた。
知性とはモデルである。そうした、人間知性論(ロック)のような文章をいつも書いていた。どんな知性がどんな観念的生成物を作り出すか、それはどのような変貌を遂げるか、ということを良く分かっていた。それが、思弁哲学者であると言っていた。
きちんと相手に説明すれば、相手は分かってくれるはずだ。そこから、社会は変えられる。社会は、発想、計画、手段、実現方法を教えることで変えられる。昔は、Wikiのような場所で、きちんと相手が全て分かるように書けば分かる、と言っていた。自分が出来る限りにおいて丁寧に解説・説明すれば、この世界は自由なままで、ボトムアップ的に変えることが出来る。昔は、そういう、「文章を書くことで世界を変える」という発想が多かった。今は、それをもっと叙述的に行うようになった。
自然な可能性を把握することで、この世界の全ての生成を知ることが出来る。そこでは、世界観的な理由と原因を考えられる。そして、思い込みを排していくことで、この世界の全ての認識は普遍的に統合出来る。同時に、全ての認識がなぜその認識になったのか、という認識の起源的原因を考えられる。そこから、可能性の原理を解明出来るだろう。そして、そこには方法と作用が存在する。認識の方法から、「まるで相手と同化したかのように」この世界の全ての認識を共有することが出来る。得られ、奪うだけではなく、与え、教えることも大切である。本当は、得られることから得られることより、与えることから得られることの方が多い。自分から愛することで、みんなに愛を与えることが出来る。それは確かに自分に利益をもたらすだろう。僕はそれを信じている。そして、それは自己意識というヘーゲル哲学の形になって、「与えることの哲学」を生み出すだろう。その時、与えられる哲学では全てが同じで、全ては同じ思想へと融和出来る。世界の全ての思想は同じだ。そして、この世界の全員の存在的位置もそこで同じになり、未来を作り出す意味がなく、自分の中でその未来が作り出されるようになる。自分の心の中に世界はある。
社会を知りなさい。教育を変えなさい。実際の社会を知りながら、思考し、試し、この世界のことを実地的に考え、そこから子供たちの教育の可能性を知りなさい。そうした、ある意味スラムのようでもあるこの世界の創造の魂の思考から、多様性、実存性、共有、生成、変化、環境、依存、人間関係など、あらゆる社会的な観念を知ることが出来る。この世界の全ての「ビジョン」を得ることが出来る。「ガイド」を得ることが出来る。そこから、この世界は絶対にどのようにも変えられる。しがらみも思い込みも、偏見も抑圧もない中で、自分の自由に世界を見て、全てを「プログラム」のような「生成手段」へと変換し、変貌させなさい。そこから、きっとこの世界は変えられる。救える。そこには「愛」しかない。この世界の全ては、愛によって一つになる。愛によって救われる。愛によって悟ることが出来る。そして、愛によって楽になるだろう。
情熱とは衝動であり、それは悪と紙一重だ。ダースベイダーのように、情熱を持った最高の青年がダークサイドに堕ちることもある。だが、それは決して悪いことではない。世界を支配する支配者となって、初めてこの世界を支配する苦しみと辛さが分かる。だから、僕は革命家には悪の王にもなってほしいと思う。だが、そこでは聖書の支配があってほしい。人を殺してはならない。そうしたことをしなかったとして、僕はそれを悪とは呼ばない。僕はその王を最高のダビデと呼びたい。
衝動と情熱を持って、絶対的善のために頑張りなさい。狂っても良い。分からなくなっても良い。そこにあなたが居たのなら、僕はあなたのことを愛する。受け入れる。それこそ、民衆なんかどうでも良いだろう。僕はあなたが好きだ。だから、きっと神が居なくても、僕がそのあなたを救いたい。あなたが誰にも見放されて、何も打ち明けられなくなっても、僕はあなたのことを全て知っている。あなたが良くなれば、僕は嬉しい。もちろん、善を為した方が良い。僕はあなたが最高の仕事をしていることを知っている。僕はあなたのことを善へと導いている。他力に任せるあなたが努力すれば、きっとそこに栄光がある。それは、この世界の宝石だと僕は思う。それが、僕の言う、グレート・サファイアだ。あなたが作り出し、あなたを作り出した、最初から宇宙にある、あなたを守る宝石だ。
何はともあれ、僕はみんなのことを愛している。あなたのやりたいようにやれば良い。分からなくなって、教えてほしい時は、僕が教える。
全ての答えは最初からここにある。宇宙とは真実を自然に明らかにする法則だ。
パソコンは、自動処理であると同時に、応用的な操作だ。一つのシステムをどのように使うか、という可能性を競っている。だから、汎用的なコンピュータを作って、あらゆる汎用的なことが出来るようにした上で、それを応用的に操作出来るようにすれば良い。それは、ネットワークと繋がることで、肉体的にも、時空的にも超越したものになる。それが、コンピュータの必然的な未来だと僕は思う。
ある意味、肉体は一つに繋がっている理由は無い。アーム型のコンピュータが、中央制御のコンピュータとは物理的に離れながらネットワークで繋がれば良い。そして、応用することは、数学的である必要はない。ネットワークからプログラムをダウンロードして実行すれば良い。プログラムも、人間が書く必要はない。コードはコードを書く専用のコンピュータが書けば良い。そして、ドローンが飛び交う。僕はそれを、「暗黒未来」と呼びたいと思う。