新・日記2に戻る | 2017年10月の日記に戻る

=2017-10-21=

純粋に共同体のためになることを行い、共同体の出来る範囲で報酬を与えるような、「共同体担当局」を作ります。

共同体担当局は、金儲けを目的とせず、ただ、その共同体の目的とすることを行います。

たとえば、Linux担当局では、Linuxの開発を目的とし、出来る範囲でそれぞれに報酬を与えます。

あとは、自由な開拓の人生のようなことを言いたかった。全てのことを知り、考え、発想していく人生のことを言いたかった。

人生において、さまざまなことをした。自分の出来る全てのことを知り、世界を全て変えられるのだと信じ、そしてみんなのことを解決出来るのは自分だと信じていた。

この世界の全てを解決出来る、そう信じていた。

その上で、最大限努力した。純粋に善の感情は、全員を包括し、全員を導いていた。

僕は、ネットの時代だから、一人が複数の職業に就くことが出来ても、悪くないと思う。いつも、そういう、「革新的な社会論」を書いていた。

僕らが作る日本という社会、それ自体が一つの幸福論だ。

偉大な「出来る国」を作りたかった。社会の構造を成り立たせながら、自分の人生と同じことが全て出来て分かるような、そういう国のモデルを作っていた。

この社会にどんな国が存在出来るか、そのことを書いていた。

ネットをやめなさい。神を信じなさい。神は、あなたのことをきちんと救ってくれる。

神を信じると、自分が神になって、人々のことをきちんと救い、愛することが出来るようになる。

さあ、扉を開けて、ネットに溺れるのではなく、神を信じなさい。

昔のネットは良かった。

最近は、ネットで真面目な議論をしようとするのが間違っている。昔のネットは、マターリとかキター!とかショボーンとかアッヒャッヒャとかカエレ!とか、自分の別キャラクターを仮面として身につけるような、そういう楽しさがあった。個人の評価についても同じことが言える。あたかも自分を普遍的な常識人のように見せかけて、敵を何も分かっていない馬鹿な人間として意見をでっちあげ、そしてそれを外国人の悪人と結びつけて、相手が明らかにおかしく、自分が明らかにまともなように見せかける。

昔のネットの方が、楽しかった。

人生を、良いことと悪いことが同じだけ起きる、と言う人間が居るが、それはあくまで賢くて良い人間だからそうなる。悪くて馬鹿な人間には、何も起きない。

僕は、判断基準として、善良さでも、理想でも、遺伝子でも、金でもなく、「個人の頭の賢さと努力」と言うものが考えられると思う。

昔は、経験から世界のことを救えるようになった。経験から社会の可能性を知った。

最近は、一人で革命家のようにこの世界のことを支配した。文章には、独立と共有の自由な社会を書いて作った。そして、昔を再体験し、逆戻りしていくような文章を書いていた。

昔のネットは良かった。みんなそれぞれを全員受け入れる、モナーのネットだった。最近はおかしい。極右政治家の支持者と補完勢力による、意味のない辛いだけのネットになっている。みんな、ネットなんか誰も見たくない。なぜか、何も悪くない純粋なみんなをいじめて批判出来なくする。そんなことしか出来ないのが、最近のネットユーザーだ。

そういうわけで、Linuxが良いものになったところで、何の意味もない。今のLinuxは、ネットが悪いせいで全く意味がないものになっている。昔は、Linuxは超賢かった。誰でもUNIXの素晴らしい知恵と賢さに恵まれるように見えた。今のLinuxは、劣化コピーの出来損ないだ。Linuxが悪いと言うよりも、ネットそのものが諸行無常になっている。

要は、自由になった代わり、理想がなくなっている。みんなを平等に受け入れるような、大らかな気持ちと心がない。そこが間違っている。最近は、芸能人よりも、ネットでいきがっている勘違いした馬鹿をいじめる。だが、勘違いするのをみんなで批判しても、何も面白いことは無い。本当は、誰もが間違え、失敗し、悲惨になる中で、そうしたみんなのことを受け入れ、みんなで同じことを楽しめるような、そんな「自由な解放と受容の場」こそが必要なのだ。ネットの右翼は、それが分かっていない。

昔のネットは、それぞれが賢い情報共有をしていたし、大爆笑出来るようなコメントがいつもついていたり、あるいは、UD(がん・白血病の原因をみんなのパソコンで分散計算するプロジェクト)をみんなでやっていたり、ありえないアスキーアートやプログラムを作っていたり、国際情勢のことをたまに真面目に議論したりしながら、煽り騙りをネットの華だと言ってみんなで受け入れていたり、荒らしのようなものとも共存しながら適当な「分かる雑談」をしたりして、本当にそれぞれが楽しくコメントを交わしていた。最近のネットは、そういう一体感や共有のものは、今でもあるのかもしれないが、僕は無くなってどんどん悪いものになっているように思う。どこにも、いじめ、批判、激情、そして無意味さと虚無感や寂しさだけがある。ネットはおかしい。本当は、そうした昔のネットも、決して良いものではない。ソ連が無くなって、世界は本当におかしくなった。Windows XPが良かったりとか、みんなでWindowsの各OSバージョンをアニメの女の子に擬人化したりとか、そういう、ある種の「みんなが思う楽しさ」のようなものが健全だった。今はそうではない、おかしな狂った楽しさが、世界を破壊している。本当は、Linuxが悪い。Linuxは、最悪のクズだ。

馬鹿な人間が辛いのは、常に同じ馬鹿になっている。なりたくてなっているわけではなく、強制的に常に同じ馬鹿になっている。だから、周りがそれを変えてやると治る。馬鹿にしか見えないのに、賢い人間が多い。賢く頑張るために、そういう風になる。

昔は、ネットのたくさんの環境を知って分かっていた。一つの環境を深く分かった後で、全ての環境を広く分かっていた。そこから社会が分かった。

自分が最近分かっていないのは、全部国の体制にするのは良くない。Linuxやオープンソースのように、自発的に自由にして、成果を共有し、一人の参加者として参加するような、そういう風にした方が良い。制度を変えたり、それぞれに権利を与えることは悪くは無いが、それが目的になってしまえば意味がない。もっと、フリーかつオープンに、自由に考えた方が良い。

出来ることなら、社会を成り立たせる手段や、人生を生きる手段も、国や役所が決めるのではなく、民主的に自由に決めてほしい。だからと言って、金や資本だけで良いわけではない。もっと、自由に、そして共有的に行ってほしい。自由にする代わり、柔軟性を高め、役人や行政のする手続きのように面倒なものは排してほしい。その上で、さまざまな経験が出来る「環境的土壌」を作ってほしい。ただ、僕はインターネット以外の方法でも、実現する可能性はあると思う。今のところ、有力なものは広告だが、僕は広告だけでは成り立たないと思っている。何か良い方法があると思う。