英会話教室と農園に行ってきた。以下はケータイのメモである。
全ての労働を経験していた。プログラマ、芸術家、日本の文化まで経験した。
新しく社会を知り、新しい視点での考え方を知ることで分かっていた。
ネットはそういう環境として相応しいものだった。
ネットは高校生が青春しているだけだ。大人は誰も見ていない。
大人は本を読んで仕事をした方が良い。
最近は大人もパソコンだ。普通、パソコンしかしない。パソコンが分かる人間が賢い。
僕が思うに、やっぱりパソコンはあった方が良いし、出来た方が良い。パソコンは、人間がこれをしたい、という当たり前を提供してくれる。賢いのはパソコンが出来る人間だ。僕は、むしろそんなには出来ない。もっと出来る人間が多い。
パソコンは、人間のやりたいことが全部叶う良い機械だ。
高校生の流行なんか、すぐに変わる。昔はスコールやユウナが好きな馬鹿しか居なかった。宇多田ヒカルや浜崎あゆみが好きだった馬鹿しか居なかった。ドラえもんの時代だ。ネットなんか、友達がたくさん得られるだけ、良い。
ただ、ケータイぐらいからおかしいのは分かる。自分は一応ケータイ世代だが、高校に行かなかったせいで良く分からない。一番悪い世代だった。そのごろが最悪だ。
自分が消したように見えて、悪いものはそういう風に自然に消える。あの時代、ナインティナインやモーニング娘。が多かった。最悪の時代だった。
馬鹿が増えたのは、そういう時代に比べて、何もないからだ。さらに馬鹿になっている。むしろ、あの時代はまともにかっこいい人間が多かったし、若者は強かった。
自分は、ギリギリ80年代生まれだ。これより上の世代はもっと良かったはずだが、自分はテレビゲームという新しい機械を最初からやっていた。ちょうど、ドイツが再統一し、ソ連の崩壊とともに生まれたが、世界は変わっても続くということが分かっていた。
昔はケータイのカメラが画期的だったが、僕は嫌いだった。誰でもすぐに友達の写真を撮れるのはおかしい。メールは嫌いだった。どこでも常に仕事に従属させられるのはおかしい。そういう人間だった。テレビは、笑う犬の冒険が嫌いだった。ネプチューンが馬鹿をやっている。馬鹿すぎてテレビ番組に見えない。
あの時代Windowsが賢い。万能の機械に見える。むしろ、最近だから誰でも分かる。
大人と子供は同じだ。普通心までは老化しない。
昔はビデオテープで映画を見ていた。今でも、父親が好きだった男はつらいよのビデオテープが全作、家にある。再生出来る機械の方がない。
漫画が好きだった。ポスト・ドラゴンボールのような時代で、最終巻まで単行本で名作を全部読むことが多かった。流行りはオタクのエヴァンゲリオンのようなアニメだった。アニメ全盛期の、オタクしか居ない時代だった。
明らかにすぐ最近だが、結構懐かしい。ドラえもんは面白かった。僕はパピとドラコルルが好きだ。
昔は、やけに面白かった。面白いものが多かった代わり、馬鹿だった。
自分が馬鹿なのは、そんな時代を良いと思っている。みんな、もっと前を知っている。60年代以降は意味がないと老人が言う。みんな馬鹿になりたかっただけで、本当に馬鹿になった。
みんな、馬鹿になりたかった。だから、馬鹿になる。それで滅びたのが人間だ。若者には分からない。
ケータイのメモ終わり。
英会話教室では、この場所や建物の見た目を知っているか、と言う問いに、どこにあってどんな見た目をしているのかを返す、と言うことをやった。
たとえば、Do you know where the station is?と聞いて、It's south from main street.と答え、What does it look like?と聞いて、It's big and it has a modern building.と答える。
農園では、ホウレンソウの種を蒔いた。
昔は、本当に全ての労働を経験していた。最近は、本当に全部考えた。
それだけで、新しい考え方と発見をすることで、社会の段階を全て分かっていた。この世界がどうだったのか、どうなることが分かるか、それはいつでもそこにあるのか、それともそこだけであるのか、あったはずなのか、条件は何なのか、のように、社会のことを意識で分かっていた。
失敗や別れの悲しみを乗り越えると同時に、ネットでそういうものを分かち合って、自分の人生を受け入れながら、失敗から再挑戦を繰り返すことで、本当に全てのことがマスターのように分かった。また、ヘーゲルが言うように、あますところなく全ての経験をしていた。
最近は、最初は確かに素晴らしい知性と情愛を書いていたが、次第にそれが悪くなっている。もう一度、善良な情熱家に戻った方が良い。パソコンは、そういう人間の方が出来る。
自分は、むしろ、もっとパソコンのことを学びたい。工場の機械的労働者になるのは、まだ早い。まだ、遊んでいられる若者の時代だ。その時代の間に、色んなパソコンのこと、昔やりかったが何も知らなくて出来なかったことを、もう一度知り直したい。出来たら、ソフトウェアだけではなく、ハードウェアやアナログな機械についても、やりたいと思う。
だが、大学はもう良い。大学はもうしない。やるとしたら、パソコンをやりながら数学・物理だ。これ以上、何も知りたくない。既に全部知っているのに、知性がないせいで何も分からない。人間は、普通のことが分かる部分が知性だ。大学をやっていると、普通の知性がなくなって、大学の知性に取って代わられてしまう。それが、何も分からない人間の境地だ。本当に、分かってしまうと、何も分からなくなる。
もっと、MS-Officeの使い方のようなものを知った方が良いと思う。プログラミングは、すぐに出来るわけがないし、作りたいアプリケーションもない。Webサーバを立てるのは、管理が難しい。それから、ファイナンシャルプランナーの資格を取ったらどうかと父親に言ったが、それは意味がないと言っていた。資産管理の話だし、難しい。
僕は、賢い技術や考え方が知りたい。だから、暗号技術入門(読んだ)のように、言語の話でなく、もっと技術的なことを知りたい。BeOSのような技術に興味がある。Unity(ゲーム制作技術)のようなものにも少し興味がある。CADでも出来たら良いかもしれない。
要は、もっと高度な技術を学んだ方が良い。圧縮・解凍のアルゴリズムとか、TCP/IPの仕組みとか、TeXの記法とか、僕が知らないことはいっぱいある。明らかに、本を買うよりも、家に既にある本を読んだ方が良い。Linusの人生を変えたと言う、オペレーティングシステムの本は家に置いたままだ。読んでも良いとは思うが、いかんせん厚い。簡単には読めないだろう。lexとyaccの使い方なんかを分かると、自分のプログラミング言語が自作出来る。それはかなり良い。
怖いのは、後で辛くなるのが怖いだけであって、後で辛くなったりはしない。それで安心出来る。
昔は、「何でも自由に出来る」ことで分かっていた。何でも、物理のように自由自在に出来る。そこが賢かった。
労働の経験も、全部自由にすることで分かっていた。
何でも自由に出来る中で、色んなことを考えた。成立させたり、仮定を作ったり、基礎を作ったり、応用の共通性を考えたりした。
そして、最近は、それをそのまま、「巨大な精神分析を作る」ことで、完全な下積みのように分かっていた。
何も頑張らなくて良い。何一つ、頑張らなくなると、病気が治って、頭が賢くなる。
治したせいで、賢くならなくなった。一度、頑張らない時期を過ごすと楽になる。
可能性を試そうとしないのがおかしい。色んな可能性を試し、実験しなければ、絵は描けない。最初から良い絵を描こうとするのが間違っている。
昔は、基礎を作って専門を横断するようなことをしていた。社会学から心理学まで、実践的、応用的に、全てのことを自分で考え方と仮定と成立を作って分かっていた。
昔は、そういう、「色んなことを試すこと」がとても上手くて、何でもきちんと考えて、人並み以上のことが出来るように、基礎や能力から仮定や帰納法ををきちんと作る人間だった。
もう終わりにする。さようなら。