新・日記2に戻る | 2017年10月の日記に戻る

=2017-10-12=

作業所と農園に行ってきた。今日は馬の世話をした。見学者が2人来ていた。僕はまだ見習いだが、かっこいいところを見せられたら良かったと思う。

以下はケータイのメモである。

ストールマンは、ソフトウェア作者の権利というものを嫌う。

ソフトウェアを使う権利は、そのユーザーと管理者であると考える。

だから、フリーソフトウェアは、コピーすることだけでなく、販売することも許す。

僕は、これは新しいソフトウェアの所有の形として、まっとうなものではないかと思う。

ただ、僕は著作権を行使するソフトウェアの存在も、その新しい思想とは別の思想として、共存し、利用者があらゆる意味で選ぶことが出来るものとして、双方に影響を与えながら協力出来ないか、と思う。

また、オープンソースの開発体制が革新的であることは、僕はとても画期的で、そして創造的だと思う。

オープンソースは、パソコン業界のルネサンスだと僕は思う。

英語は、その一つに定める時に定冠詞を、何でもない一つの時に不定冠詞を使う。たとえば、日本語でリンゴと言えば、それは何でも全部のリンゴがリンゴだ。そのリンゴ一つの意味にしたい時に冠詞を使う。

自分は、得ようとするから得られない。得ようとしなければ得られる。

自分の得ようとする心が、逆に自分から奪い取っている。

他人と接する時には、誠意をもって行うこと。それで何でも上手くいく。

宇宙は、ありのまま、この宇宙だ。

昔は、具体例を全部、きちんと明確に、そして大量に作っていた。

言葉だけで全ての経験をしていた。書くことで全て分かっていた。

フリーソフトウェアが無個性な醜いものになるのは、ある意味、著作権を否定して作者の個性を奪っているからだ、と言えるかもしれない。

パソコンは、コンパイル時に静的に決まる部分と、実行時に動的に決まる部分に分かれる。そういう考え方をすれば分かる。移植性についても、同じことが言える。ユーザーやパーミッション、あるいはパイプやシェルスクリプトについても、同じことが言える。最終的には、関数の定義と実行の話になる。パッケージ管理システムだけを作れば良いことになる。ネットワークも同じである。

匿名掲示板なんか、Linuxと同じだ。Linuxを滅ぼせば、世界は良くなるだろう。

明日は、13日の金曜日だ。

決してLinuxが理想なわけではない。理想はもっと違うところにある。

ケータイのメモはここまで。