新・日記2に戻る | 2017年10月の日記に戻る

=2017-10-09=

作業所と農園に行ってきた。今日は、作業所では馬の仕事をした。

以下は、ケータイに書いたメモだ。

作業所では、ポニーを2頭飼っています。

一方は白くて大人しい大きな馬、もう一方は茶色くて活発な小さな馬です。

馬小屋には、2頭がいくらか自由に動けるスペースがあります。

まず、餌やりです。ほぐした草をたらいに入れて与えます。

餌を馬が食べている間に、糞を始末します。

そして、馬の毛をブラッシングします。ブラッシングしている間に、馬小屋をホースの水で綺麗にします。

午後は、馬を繋いで散歩に連れて行きます。

子供たちを馬に乗せたりするホースセラピーもやっています。

社会を作っていた。

構造を作っていた。

説明や積み重ねや知の構造を作った。

経験から考え方を作って分かっていた。

死んでいるようで、死んでいない。それが辛いだけだ。

毎日をするのを止めて、死んだように見えるのを復活させれば、もう治っている。

昔は、文化人類学のようなことを考えることが多かった。

死んで治るより、生きた方が良い。動物や植物と触れあっていると、そういう風になる。

大人は分かっていない。子供からパソコンやネットは取り上げた方が良い。子供にパソコンをさせても、何の良いこともない。自分の経験から言って、パソコンが好きな人間が最悪のいじめっ子になる。情報リテラシーはありえない。

相対的な自由な国が良い。連邦にして、それぞれの意見を集め、経験と実験から社会制度を作り、それぞれが自由に決める。出来る限り自由にする。その中で出来ることを考える。最大限に自由になる。

民進党も、連合の反対で原発ゼロは出来なかった。小池はしがらみなく、と言っているが、結局何も出来ないだろう。オバマも出来なかった。民主主義には何も出来ない。僕が首相になっても、著作権法の改正すら出来ないだろう。自由は何もしないだけだ。

王国にした方が良い。王で偉大な国になる。王のやること全てが王国となる。

日本の問題は、スマホとパソコンしかしない国になった。ほとんど全員スマホだけをやっている。その上、希望もない。著作権法なんか変えるより、希望を作った方が良い。

もう僕は完全に楽になった。あとは生き返るだけだ。完全復活だ。

バッハの時代の人間は、パソコンより良いものを作れば良いと言う。芸術性のあるものをみんなで決めれば良い。仕方ないから、マイクロソフト以外は馬鹿だ。だが、盛者必衰と言う。マイクロソフトの製品を公開したいのは分かるが、それなら自分で開発するべきだ。バッハはそれを言う。Linuxは良いと言う。リーナスと言うカリスマが賢いのが良い。むしろ、Linuxは独自性のあるものにすれば良い。技術は賢くない。芸術的にしないのがおかしい。

バッハは、キリスト教を信じた方が良いと言う。小説は、主人公を最強にしてあり得ないストーリーにすれば良い。それくらいなら、悪くない。むしろ、賢いと言う。

Linuxは、日本人がデザインすれば良い。欧米人のエンジニアが作るから、醜いデザインになる。日本人なら賢いデザインになる。

デザインだけをするよりも、文章を書いた方が良い。未来人はそれを言う。書いているのが賢い。何かで生活すれば良い。

自分は分かっていない。作品が重要であって、生活は重要でない。逆に、芸術は良いと言う。

この馬鹿は、他人の作品を見たり、影響を受けたりしないのがおかしい。

ストーリーなんか、他人をパクれば作れる。作家はそういう人間が多い。ベタなストーリーなんか誰でも書ける。

オープンソースみたいなものは多い。いつものルネサンスだ。フランス革命と同じだ。

革新的なものが革命を起こすのはかっこいい。

Linuxは、UNIXの伝統を守った方が良い。それが出来るなら賢い。

むしろ、マイクロソフトは放っておけば倒れる。わざわざこれが倒す意味がない。マイクロソフトと言うより、パソコン業界全体が迷走している。Linuxは意味がない。

自分の好きな芸術家を作れば良い。それと同じを目指せば賢い。全く同じことをすれば良い。同じものを作れる人間が賢い。

昔は、色んな人間と同じになって、経験を作って発想していた。今の自分はそれで出来ている。

ケータイのメモ終わり。

近世が賢かったのは、最初にルネサンスが起きたことが要因にあると思う。ダヴィンチなどのルネサンスの巨匠の作品を模写しながら、新しい自由で人間中心的な文化を模索する。その中で、近代芸術・音楽・科学がどんどん生まれていった。ルネサンスの巨匠とその理想が、近世・近代と言う巨大な流れを創り出したのだと思う。

昔は、科学者のような発想をたくさんして分かっていた。

発想から、思弁哲学者のように分かった。

発想は、「新しいものを創り出す」ことから分かることが出来る。新しいコンピュータを考えたり、インターフェースを考えたりする。物理なら、磁気デバイスよりももっと良い可能性が何かないかと考える。少し変わった発想なら、空の色が赤くなることもあるかもしれない。

神は、神の世界観で分かっていた。神は、エデンから天使まで続く永遠の歴史を分かっている。

昔は、インターネットとLinuxから、歴史を分かっていた。ルネサンスや古代ギリシャのような文明的な興亡をネットの経験から分かっていた。

終わりにしよう。「さようなら」に代わる言葉は、「また明日」だ。

昔は、場面で人生を考えていた。みんなの人生がどうなるか、全部分かっていた。

僕が思うに、カーネルの最大の役割とは、「実行中のプログラムが何をしていても、別のプログラムの実行へと移ることが出来ること」だと思う。それが出来れば、マルチタスクが出来るし、GUIのプログラムの実行もスマートに出来る。本当は、それだけを実行するものにすれば、良いのかもしれない。

では、さようなら、また明日。

カーネルは、メモリ管理も行う。カーネルとC言語のコンパイラとlibcがどれくらい被っているのか僕は分からないが、スタックとヒープに領域を設定するのはきっとそれらどれかがやっている。そして、プログラムとハードウェアの割り込みを行う。たぶん、カーネルはそれくらいしかしていない。作るのは難しくない。