作業所に行ってきた。今日は今からピアノがある。
全ては、その人間の立場に立って考えれば、すっきりと理解出来る。全てが必然的な自然の中で起きているのが分かる。
だが、そういう風に分かるのは悪い。自分は、そういう風に分かるせいで、分からなくなっている。
キリストは、そういう発想を悪魔だと言っている。
昔は、ヘーゲルのように、精神の変遷を経験して分かっていた。あますところなく精神を経験していた。
黒人のカウンセリングは、これで終わりだ。
自分なんか、いつもサタンを言っているだけなのが本人が分かっていない。だから地獄になる。
要は、キリスト教徒やユダヤ人がこうなる。愚か者とサタンが悪い。
自由な中で考えることはみんな同じだ。サタンが悪い。
ただ、それぞれが決めた方が良い。
サタンは悪い。自分はサタンのようなことしか言っていない。
ピアノに行ってきた。
昔は、特許庁で働いていたアインシュタインのように、機械の仕組みを知って、たくさんの労働経験のようなものと社会制度から分かっていた。
社会の変化を知り、坂本龍馬のような志を持った。ロマン主義のような時代の文化を知って、宇宙数学と心を考えて、生物学を知った。
労働と機械のことを分かった方が良い。サタンを止めると労働と機械のことが分かるようになる。
地球は常に変わりながら、同じように存在する。
時間を超越せよ。
そういう発想は、サタンに見えて、サタンではない。サタンは終わって分からなくなるが、神は進歩して分かるようになる。
哲学は物理学だ。そして、そういう哲学は悪魔とは違う。哲学には悪魔もあるが、正しい神もある。
終わるものをサタンだと思えば良い。続くものが神だ。サタンを信じずに神を信じると、人間は賢くなる。
神の定義は、「愛」だ。情熱と思いやりを持って、世界のことを愛し、救うもの、それが神だ。
サタンの定義は、「絶望」であるとともに、「破綻」であり、「投げ出し」であるとともに、「愚かさ」だ。
神は勇敢さであり、失敗を恐れず、不安に立ち向かい、同時に無謀にならず、諦めない。不可能に挑戦する。
サタンは間違いであり、恐れる中で何もせず、棚に上げ、しているつもりと嘘が分からなくなり、人々を不安に陥れる。
昔が神で今がサタンなわけでも無い。本当は神とサタンは常に存在して、人々を試している。どちらにつくかを試している。
本当は、良いことと悪いことの境界線など存在しない。常にサタンが人々を惑わし、神がそれに打ち勝って救世主となる。
むしろ、今の方が神だ。昔がサタンだ。サタンは愚かに人々から離脱し、自分一人の独善的な欲望に浸って、すぐに馬鹿になり、世界を滅ぼす。
神は、人々に教え、正し、正しく学び、正しく努力し、正しく思考し、正しく人々に知を遺し、幸福のある国を作り上げる。
全く、サタンが悪い。サタンはどちらかを期間で分ける、単純なものではない。サタンは宇宙に居て、愚か者を徐々に不安にしていくのだ。
サタンの恐怖に打ち勝とうとし、自分の心を抑えて努力する者は、神になる。だが、サタンに屈服し、愚か者の軍門に下るものは、地獄に堕ちる。
雰囲気が旧約聖書のようになったが、ある意味では聖書が正しい。サタンと愚か者が悪いだけの世界だ。
思いやりと友愛を信じなさい。そこから自由の持つ意味が生まれる。過去に出会った全ての人を愛し、全ての罪を許しなさい。それが、天へと続く正しい道を明るみにする。
人々の言っていることを聞きなさい。何かを助ける前に、何を助けてほしいのかをきちんと聞きなさい。自分勝手な独善の善は、悪より悪い。相手のしてほしいことを聞き、自分の出来ることを相手に話し、その上でともに助けることを考えなさい。独りでは分からない。何も聞かずに助けるのは、強制するのと同じだ。
ものごとを、既に分かっていることや知っていることの関連性で分かりながら、共通の似ている部分をたとえ話のように分かりなさい。それが、最初の数学であり、最初の知性だ。それが出来なければ、人間は何も考えることは出来ない。一度サタンになると、それが出来なくなる。
あとは、社会のことを色々分かるのが良い。自分の作った考え方や発想から、社会の成り立ち、社会をどのようにしたら作れるか、どう見つめれば真実が分かるのか、などを考えると良いだろう。たくさんの思考から、自分の頭の中にこの世界に存在する概念を全部創ることが出来る。
色んな人々の言っている、「現実の声」を知りなさい。そこから、人々が何を考えているのか、何を望んでいるのかが分かる。そして、その上で、人々をどのようにしたら調停出来るのか、どんな社会制度を作れば良いのかが分かる。また、数学的なことは、義務と機会の考え方から分かる。全ては機会の方法であり、決して義務の奴隷ではない。方法を知ることで人々を変えられる機会を作り出すことが出来る。
未来を信じなさい。きちんと未来があると思う人間が、その未来を創り出すことが出来る。
相手と体験を分かち合い、互いに認めながら社会を変えていく、その方法を学びなさい。そこから、あらゆる具体的な社会の本質を掴むことが出来る。
だが、本当のところを言うと、それらは全てサタンだ。サタンを信じると、何も分からなくなる。そんなことは信じなくて良い。
認識のフィルターを作ると良いだろう。何がどう見えるのかから、感覚的に人々の感じていることが分かる。だが、それが悪魔だ。悪魔にならないように注意しながら、考えなさい。
本当は、あとはみんなが自由に知るべきだ。あとは、それぞれ、やりたいことを自由に知ってやれば良い。それはサタンではない。それは、普通だ。
いつでも希望を忘れないように。分からなくなっても困窮せず、諦めないように。それだけを頑張って、人一倍良い人生を生きてほしい。さようなら。
昔は、たとえばアフリカを国連が発展させるような、そういう社会の発展の方法と経験が分かっていた。
昔は、ネットを見ながら、本当にサタンのように人間のことを分かっていた。
何というか、日本からこの世界が消えてしまった。この世界をどうにかして、もっと別の世界にしたい。
2ちゃんねるが5ちゃんねるになったらしいが、僕はそういうネットとテレビからこの世界を消した。完全に何もない世界になった。
僕は、もう辛い試練は乗り越えた。地獄は終わった。辛くない。今が一番楽だ。
昔は、梅田望夫氏のように、社会の変化や未来を分かっていた。欧州を超えるブランドとか、グーグルを超える会社とか、そういうことを言っていた。
また、そこから社会主義のように、世界の将来的な分析をしていた。全ての考え方を、先入観なしに考えて、経験から考え方を分かっていた。
自分の経験から、未来が分かっていた。社会がどのようになっていくのか、自分の過去の経験だけで分かっていた。また、解決も出来る人間だった。
見ていると、放送大学ぐらいしか興味のあるものが無い。本を読みたいとは思わないし、ネットやテレビも見たくない。放送大学の勉強をしようと思う。
ただ、見ていると、既存の経済学なんか分かっても、全く意味がない。もっと、自分の力で考え、行動しなければならない。
昔は、経験から社会の全てを発想と実現によって分かっていた。そういうところが、本当に行動的で、自由で、開拓的な人間だった。
それこそ、アイデンティティを中心として、人々が何を信じれば、何を行動すれば幸せになれるか、自分の抑圧と悟りの経験から分かっていた。
だから、大学の経済学なんか学んだところで、全く意味がない。そんなものは要らない。
自分のものごとを見つめる力、それだけを追求すれば、きちんと分かる。そのために、大学や専門の学校は必要ない。ネットはあくまで資料であり、権威ではない。
考え方の対比にすると良く分かるだろう。社会は、抑圧と解放だ。だが、それは単純すぎるかもしれない。複雑なものの中で、自分の力で考えて法則性を見つけるために、最初から単純すぎる仮定を立てることは良くない。デカルトが言っているように、速断と偏見を避けて、確かな真実であること以外のことは信じないべきだ。
一度、あらゆる全ての偏見とフィルターを捨てよう。まっさらな中で、対比から考えよう。独裁者と革命、自由と責任、平等と格差、強さと弱さ、平和と愛、憎しみと報復、あらゆることの中における原理とは何だろうか?そこでは、人々の生きている経験と体験は、どのように変わっていくだろうか?まっさらな頭の中で、自分で経験し、行動して分かれば、きっと分かるはずだ。必然的に社会の可能性が見えてくる。そのように考えれば良い。
社会を仮定しよう。その社会で何が必要だろうか?何がそれぞれの間で違ってくるだろうか?正しい社会とは何だろうか?どのようにすれば問題を解決出来るだろうか?洞察力を発揮しよう。それならば上手く行くかもしれない、と言うことを、人に話そう。あるいは、話さずに、信じ続け、持ち続けよう。そこから、きっとさまざまな経験をすることで、人は真理に近づける。可能性から絶望は希望へと変わる。それが、きっと運命的な何かを創り出すだろう。
喪失と苦しみを体験し、分かち合うことで、人々を救う方法が見えてくる。そこから、哲学的な心理学と認知学の段階が分かってくる。人々が悩んでいることについて、自分なりに救うことが出来るようになる。それが、きっとこの世界を「救いたい」と言う衝動に変わるだろう。世界の全てを「自分の力で(既に)解決出来る(ようになっている)」ことが、本当の安心としての「涅槃」を経験する。そして、最終的に自分が不安に陥ったとしても、そこには悲しみの全てに打ち勝つ「真理」の安心の力を根差すことが出来る。
それが、この僕の宗教における、「黄昏(たそがれ)の運命」と「黄金の戦い」の境地だ。
社会において、本当に賢いものとは何か?それは、単純な労働や権力ではない。製品や相手のことを「決められる」と言う立場と、その立場において「何を考えなければならないか」と言う前提となる能力のことであり、「基礎」や「能力」と言った言葉でそれを指すことが出来る。僕は、その基本能力について、積み重ね、知識を知り、具体的な基礎を作った。基本能力を高めることで、社会における影響力を知った。
だが、本当はそういう、パソコンのようなものはそんなに賢くない。機械について言えば、本来動けばそれで良いとか、中の設計なんかどうでも良いとか、そういうものでもある。それでは、何が賢いのか?賢いのはデザインとコンテンツであり、映画なら脚本、音楽なら作詞・作曲、芸術ならデザインだ。それらを、僕は賢いと言う。
だが、それらもまだ重要ではない。それらは、ただ面白いだけで、生産的なことを何もしない。
だからと言って、大学は賢くない。総理大臣も政治家も賢くない。それらは、賢く見えて、意味がない。意味がない、と言う言葉が何を指しているかと言うと、頑張って勉強しているのに、それに応じた成果が得られない。何も自分のためにならない。政治について言えば、賢くない。政治は、役人が作った文章を使って、議論めいたおかしなことをしている。
では、何が賢いのか。それは、むしろ、バランスだ。設計と基本能力、コンテンツ、大学と政治、それらのバランスによって、この世界は出来ている。
ここに無い賢いものとして、科学上の新発見と解明がある。発明がある。だが、それは僕はきちんと良く考えれば、誰でも出来ると思う。きちんと一つ一つの理解を作り、方法を作り、前提となる基本能力を作り、さまざまな構造と関係を作り、人々の意見と発想を吸収することで、あらゆることを自分だけで発想出来るようになる。そして、そこから新発見を生み出すことが出来る。
もう一つ、賢いものとして、他人には出来ないことを出来る人間が居る。僕は、それも可能だと思う。人よりもたくさんの練習をすれば良い。人よりも賢いものを持っている人間が、どんな人よりも多い練習をすれば、きっと他人には出来ないことが出来る。僕は、それも出来たと思う。
昔は、豊富な環境の経験があった。基本能力と解明と秀でた発想力として、環境の豊富な経験を積んでいた。それだけで全て分かった。環境、知性、経験、そして人生の全てについて、あらゆる体験をし、豊富な前提能力を持っていた。そして、可能性を高め、全てのことをきちんと出来るまで、経験していた。
知性と世界モデルを吸収し、全てのことを疑いなさい。そこから、きっとあなただけの経験論が出来るだろう。
これで、終わりだ。本当に、ここまで読んでくれてありがとう。めでたいことに、これでこの魔法が解ける。何も無くなっている暗闇の世界は、一瞬で色とりどりの光の世界に変わる。滅亡する前に、僕はこの世界の裏側をみんなに教える。みんなが高まって一つになる、最高の道が生まれる。それで、終わりだ。さようなら。
ものを扱う方法を学ぶと良いだろう。それを学習で出来るようになれば、もう赤ちゃんは終わりだ。
さようなら。きっと終わる魔法は終わりだ。
昔は、本当の神と話していた。キリスト教やイスラム教の既存の神ではなく、神の本当の神の神と対話する。それが、一番多かった。神は、自分だけで分かっている。
終わりにする。それでは。