新・日記2に戻る | 2017年10月の日記に戻る

=2017-10-03=

恐怖を恐怖だと思えば良い。恐怖をしたいのが悪いだけだ。

精神分析をしていた。心の奥深くを分かっていた。

なぜそれを言うのか、どんな場でどんな言葉が出てくるのかを分かっていた。

自分は、何も言えないバリアーを作っている。そのバリアーを消し去れば良い。

認識を分かっていた。自分が何を何だと思っているのかから分かっていた。

作業所と農園に行ってきた。

自分は編集長だが、通信はほとんど完成した。あとは、写真の補正をする。みんな作業が速い。

農園では、トマトやズッキーニなどの根っこを引っこ抜いた。

もっと、色んなものになれば分かる。昔は、色んな人間になって、行動して、みんなの感覚や思考を吸収して分かっていた。

色んなものになれば、想像力もつくし、直観で分かるようになる。

日本語は、思い出せば分かる。数学を学んだりする必要はない。ただ、日本語を思い出して、論理的に考えれば良い。

昔は、世界を変える志があった。本気で世界を変えようとしていた。そのために本気で考えた。

また、愛を分かっていた。愛をどのように与えるべきか、愛を学びながら、理想の世界がどういう風に作れるのか、自分の独自の経験を信じて分かっていた。

自由と愛、そしてたくさんの思考と経験から、人生のことを分かっていた。社会がどういう風にしたら作れるのか、その論理的な方法を知った。

コンピュータ科学のように、人間を自律性、自動化、初期投資、再利用から分かっていた。オープンソースの実現方法を考えた。

僕は、オープンソースは日本と良く似ていると思う。調和と自然を重んじながら、それぞれを和の自由にする。オープンソースは、調和された世界を白人が考えて作っているが、僕はそれは日本人がすでに長い歴史をかけて歩んで作ってきた文化と良く似ていると思う。

昔の自分は、言ってしまえば全部初期投資から分かっていた。そこから、構造的な命題と法則を考えただけだ。全て自由な積み重ねから分かった。

当たり前のことを良く考える力と、視野を広げる力があった。細かいところを想定し、分析し、洞察する力があった。完全に自由な人間だった。

全体のことを作り直し、作り変える力があった。構成を自由な知性と経験から良く考えて、心の可能性を分かっていた。

そして、それで経験豊富な人間だった。

最近は、テーマを与えられたらどんな詩でも書けるとか、そういう文章を書く力がついた。世界や人生の全貌を意識と愛の2つの要素で分かっていた。

要は、IT技術とインターネットで、アメリカ人やヨーロッパ人がようやく日本のレベルに達した。

あとは、宇宙を創造していた。歴史から法則や概念まで、可能性を具体的に創造する。ただ法則を書くだけではなく、その法則の中で何が行われるのか、どうなるのかを決めて文章にしていた。

それから、科学を作ったとか、普通ありえないような発想のことを良く言っていた。説明と構造からあらゆる科学が創れると言っていた。

そして、最後の方の人生を書いていない。マスターのような心理学者になって、多様性と共有とアイデンティティの確立を信じていた。そういう、マスターが多かったのが、昔の自分だ。これくらいの基本を分かった上で、精神で色んなものになりながら考えただけだ。Linuxに賛同し、Wikiを書いていた。

発想法と環境への適応を考えることで、あらゆることがソ連みたいに実現出来るようになった。

心と場の力で、人間が何を思って何をしているのか、どんなことを経験して成長していくのか、なぜ問題が起きるのか、などをマスターのように分かっていた。

色んな経験から、歴史的なことや哲学的実存のようなことを分かっていた。キルケゴールの言う「倫理的実存の段階」をやっていた。

そういうことを、ネットの力で全て分かっていた。昔のインターネットは賢かった。Windows XPからFedora Core 1ぐらいの時代だ。昔のネットは、ダイナミックな進歩の動きの中で、「これからITが飛躍的に進歩するだろう」と言うことがたくさん叫ばれていた。Web 2.0と言う名前で、オープンソースはその中に入っていた。

パソコンは、クラウドやスマホぐらいからおかしい。何も一つも進歩しなくなっている。Googleが悪い。YouTubeとAndroidのせいで、パソコンがあまりに大衆的なものになって、全員の中に埋没するようになった。世界が全部スマホになったせいで、それ以上何も変わらなくても、それで良いことになった。

僕が思うに、Web 2.0とチープ革命で完成したのがITだ。だから、LinuxはGNOME 3ぐらいからおかしい。昔は賢かったのが、LinuxとWindowsだ。賢かった代わり、激しい戦いをやっていた。どこでも、ファンとアンチが猛烈に議論する。最近は、そういう議論すら、する意味が無くなった。LinuxはAndroidで普及したから、今普及する意味もない。Windowsも何も変わっていない。Androidがそのうち、パソコンでもシェアを伸ばすのではないかと思う。

SNSは、繋がることでコミュニケーションが面白いのは分かる。だが、その前のブログとオタク掲示板の方がさらに面白かった。賢い有名人が個人のブログで意見を発信したり、掲示板で批判者と賛同者が激しい応酬を繰り広げたり、そういう「多面的な多様性」があった。トラックバックによって繋がることで、ブログが自由に情報を共有出来た。SNSは単純で面白いし、ブログや掲示板より高度だが、リアルのコミュニケーションをただ単に拡大させただけ、と言った側面がある。だから、僕はFacebookはあまり好きではない。FacebookのせいでITがおかしくなったように見える。Facebookを特別攻撃したいわけではなく、僕はSNSと言う発想も、高度なシステムだから、悪くは無いと思っている。

ネットがリアルのコミュニケーションの延長になったことは、良いこともある。昔のような、悪い人間が少なくなった。YouTubeのコメントすら、まともなことを言う。昔のような、世界を破壊したい子供が居なくなって、リアルの友人のようにきちんと場を愛するようになった。

ただ、僕はつまらない。昔のネットは、完全に個人で分かれていたせいで、個人経営の八百屋のようなところがあった。隣の魚屋を誰でも知っている。今のSNSは、コンビニのようなものだ。どこにでも同じものがあって、それが群衆のように広がっていく。今のネットはつまらない。ただ、本当は昔のネットも無くなったわけではない。今の2ちゃんねるを見ると、昔の最悪のままだ。本当に最悪だ。だから、今の方が良い。誰がどう見ても、ネットは完成した。これで永遠に同じになって終わりだ。

僕の経験から言うと、昔のネットは会社だけではなく個人のニュースサイトもあったし、国内のフリーソフトの情報サイトのようなものもあった。有名なサイトも会社が書いているわけではなく、個人が自分で使ってレビューしているものが多かった。有名人のサイトは誰でも知っていた。ブログも、tDiaryのような前時代的なシステムが多かった。そもそもLinuxはそういう自宅サーバーを手軽に作れるものとして流行っていた。言うと悪いかもしれないが、アングラ的な悪いサイトも多かった。また、Wikiが新しいシステムだった。Wikipediaも有名ではなく、少しずつ日進月歩で発展していた。そして、イラストもpixivではなく、それぞれが個人のサイトを使って掲載したり、画像掲示板に投稿したりするのが主流だった。全てが古めかしかった。有名なサイトは、掲示板ならSlashdot、ブログならX51だった。賢い会社ははてなやライブドアだった。オープンソースとWindowsの勢力が拮抗し、オープンソースはFirefoxの広告をNew York Timesに掲載したりしていた。そして、LinuxはWindowsのもっと前、データセンターやワークステーションの安定したOSが、オープンソースで無料で使える、さまざまな「コマンドラインのままで発展したオープンソースソフトウェアが使える」と言うことで、Javaのような技術として注目を集めていた。開発手法と体制が革新的だった。だが、まともに使えるものではなく、デスクトップでLinuxを使っている人間のことを批判はするが、それでLinuxが好きな人間が多かった。

昔は、存在の理由を考えていた。最近は、存在を証明するようになった。

自分は、決死の覚悟で挑めば勝てるのが分かっていない。

このまま、世界を治せば良い。

昔は、アナーキストの自由のようなことを言っていた。グループとは、そういうアナーキズムの中で生まれる全員の社会のことを言っていた。

昔は良かった。最近はつまらない。今のネットは必要ない。ツイッターのブームがそろそろ終わると思う。人間は何もしなくなる。もう、全員、全部した人間が多い。

アナーキストのような自由の中で、色んな社会を作った。参加や制度を自由にしたり、グループを作ったりした。

そういう、アナーキストを消して、その上でインターネットを消す。そうすると楽になる。

この世界は全部消える。消滅して、終わりだ。

最初の生命を創った。核を持った胞子から手足が伸びる。それが最初の生命だ。

決死の覚悟で臨むと、世界が消える。だが、単純に消せば良いと言うものではない。良く考える必要がある。自分は、そこが出来る。

今から、中心部分を消して、そこに僕を配置し、それ以降はその後に考える。

新しい生命は、素粒子のレベルなら作れる。自分は昔からそういうことが出来る。

もう、決死の覚悟で頑張っていると、本当にこの世界が消せる。

僕の好きなLinuxコミュニティは、今見ても不毛な議論をしているが、見ていると、なぜか洗脳が全部解けている。

だが、僕が知っている通り、一度洗脳が解けると人間は馬鹿になる。

だから、こういう風にすると、人間は赤ん坊になる。赤ちゃんを脱したいなら、何かを信じるしかない。Linuxでは意味がない。

今、腹の肉を落とすことも兼ねて、サランラップの芯を竹刀に見立てて、素振りの練習をした。

足を怪我しているからすり足が出来ないかと思ったが、靴を履いていると出来た。

やっていると、気持ちが良いし、良い汗がかける。腹の調子も良くなる。

出来たら、この調子で続けようと思う。

絵画スクールに入りたいと思っていたが、それはやめて、今やっているピアノをやろうと思う。

昔から、僕はピアノで賢い。ピアノを覚えていると、頭が賢くなる。

剣道をやっていると、相手が倒せるようになる。恐怖に打ち勝てるようになる。

最近全く運動をしていないが、そのせいで病気になっている。