僕は、もう死を乗り越えた。死んで治った。
僕は、占星術のような「星」と言うものは、あると思う。やり方は違っても、同じ星の下で、同じ道を生きている。それが人間の人生だ。
全てに満足して、全てを消した。僕は、もう完全に満足した。
昔は、科学的な宇宙の構造のようなことを言っていた。生物を水分と言って、水分に精神があると言う。そして、力やエネルギーを人間の感覚に過ぎないと言って、本当にあるものは位置の移動と作用的反応だけだと言っていた。
もう、終わりにしたい。もう、これ以上文章は書かない。今から英会話教室に行く。本当にありがとう。そして、さようなら。
昔は、本当に社会を知って分かっていた。社会を知るプロセスのようなものを書いて、ナショナリズムが悪いとか、そういうことを言っていた。
終わりにする。
英会話教室と農園に行ってきた。ケータイに文章をメモしたのでそれを載せる。
もう少し文章を書きたい。
精神分析で前世を体験していた。アメリカ、ドイツ、ソ連を体験した。自分は、そういう精神分析のせいで怖くなっている。
昔は、みんなの施設を共有して作るとか、共和国を独立性を高めた連邦にするとか、英語やフランス語とか、ありのままにこの世界を見て、自由に考え方を作るような、そういう文章を書いていた。特に、共同体と共有とか、自分の人生とかを書いていた。
モデルを作っていた。
僕は責めてほしいわけではないが、間違ったことをしたから、それを反省したい。世界は、純粋で世界を変える愛を、自由な上で、今更だが思い出してほしいと思う。愚かな人間など、居ない。
自分は、明るい家族に戻りたいだけだ。
吸収し、共有すれば正常になる。それを作り出す環境を作りなさい。
自由に好きなだけ学べるような、自由な学校を作れ。
もう日本が復活した。
日本が何もなくなったのは、明治維新が悪い。伝統文化がなくなった。だから、日本はアメリカと良く似ている。
日本人は、集団に流されやすい。僕はそれを利用した。
もう終わりだ。そろそろ滅亡だ。
群衆は愚かだ。
あとは、みんな分かった上で自由になる。もうなったはずだ。
決して僕は滅ぼしたいわけではない。みんなのことを愛している。なぜか、善良な王を頑張っている。だから、悪いのは僕だ。警戒しなくて良いが、たまに自分を一番悪いことにする。
最近ドイツよりフランスの方が右翼だ。安易にドイツを批判すれば良いわけではない。
韓国を差別する人間は、日本人でない。日本人は人種差別をしない人種だ。
人種差別をする日本人は、死ぬべきだ。
人種差別をする日本人が死ねば、日本が滅亡しているのが直るだろう。
人種差別主義者は滅亡せよ。
日本はおかしくなっているが、自分のせいではない。それをおかしくないと思えば、自分のせいで変になっているのが治る。
自分のせいだと思うから、自分のせいでおかしくなっている。自分のせいだと思わなければ、みんなも救われる。
みんな、治れ。
要するに、彼のせいだと思うことも、彼のせいでないと思うことも、両方間違っている。
だから、彼のせいだと彼が思わなくなれば治る。
ケータイ終わり。
人種差別も同じで、自分のことをクズだと思うから、クズになっている。自由の方がクズに見える。人種差別は、人種差別をクズだと思うから人種差別になる。自由は悪くない。自由は自分のことを悪いとかクズだとか思わない。だから、自由の方が馬鹿に見えて、悪いのはクズだ。
人間にクズは居ない。人種差別にも寛容的になろう。人種差別をしたからと言って、人を殺したわけではない。
あとは、国家や民族の独立性を考えていた。一緒になれば、迫害や虐殺が起きるが、独立してしまえば、戦争も出来るし、好き勝手言える。僕は、独立の方が良いと思う。それぞれが自由にやれば、楽だ。だが、どちらにせよ、融和的に仲良くやる姿勢がなければ、仲良くは出来ない。
会社や仕事が自由な方が良いと言うが、僕はそれは違うと思う。自由に労働し、自由に報酬を努力に応じて得れば、働くかもしれない。だが、働くことが過度に過ぎると、競争のための奴隷や駒になってしまう。それは、働く、と言うこと自体が、その人間を苦しめることに繋がる。働けば良いと言う問題ではない。どのようにすれば国民が働くのかを考えるよりも、どのようにしたら働かなくて済むのかを考えないといけない。その意味で、自由の方が自由が無い、自由の方が国家を優先する全体主義である、と言う側面は、確かにある。
僕は、今回の選挙は、社民党や共産党が勝つチャンスになると思う。大義なき解散を言うだけではなく、安倍がどれほど悪いことをしてきたか、良く宣伝すれば社民党でも勝てるはずだ。悪くないとは言うが、僕はどんどん悪い国になっているのがまず悪いと思うし、アベノミクスも成功していないし、安全保障などの分野でとてもおかしなことをしていると思う。小池の希望の党と民進党は、小池がリベラル派を排除すると言っているのにそれを聞かずに焦って事実上の解党をしてしまった。前原が安保法を批判するが、小池はその安保法の一番の賛同者だ。僕は希望の党が勝って自民党を倒せるぐらいの勢力になることも、一つの道として期待しているが、もう一つの道として、社民党や共産党が議席を伸ばすことに期待している。安倍は、もう少し人種差別主義者を批判してほしい。トランプに賛同し、日本の人種差別主義者を擁護・利用することは、僕は出来るだけしてほしくないと思う。
昔は、慎重に、大切に色んなことや自由なことを積み重ねて、積み上げて分かっていた。また、精神的な「色んなものになること」で分かっていた。積み重ねとなることから、変化が全て分かっていた。
なんだか、もうやることが無い。やりたいことはたくさんあったはずなのに、今何も思わない。つまらない。
昔は、子供の成長や啓蒙のような「人生」のこと、多様性や共同体のような「信念」のことを書いていた。
ネットを見ていると、僕は小池と希望の党にはやっぱり期待出来ないと思う。小池の過去のツイートで、小池は極右みたいなことをたくさん言っている。右翼が言う、希望の党に信頼性がない、と言うのも、僕はその通りだと思う。だが、民進党が無くなったのは、僕は良いと思う。民進党が無くなって、これでやっと共産党が勝てるような対立軸が出来た。僕が思うに、社民党が忘れられている。民進党出身者でリベラル派の人はきっと社民党に入る。だから、社民党でも勝てるようになるかもしれない。
今まで、僕は小池を共産党的な左翼の右翼だと思っていたが、彼女は左翼ではない。極右だ。だから、僕は小池は応援しない。
たぶん、みんなに影響力を与えること自体が悪い。だから、影響力を使って影響力を行使しないようにすれば治る。
そもそも、僕はこの世界に対する情熱や信念のようなものがあるわけでもないし、みんなが本当はどのように生きているのか、何を考えているのか、まるで分かっていない。
だから、僕なんかにこの世界を動かせる力があると思うこと、それ自体が間違っている。
MICOが言うように、自分は神様気取りだが、神のように分かっていないし、神も居ない。ポルノグラフィティが言うように、この世界には僕らしか居ない。
だから、常識なんか考えなくても良い。本当は、僕らしか居ない。僕がやるように僕がやり、僕らがやるように僕らがやるだけだ。
一度、政治的な対立から、慈愛の精神まで、全てを否定し、リセットするのが良いだろう。それで悪いと誰も言わないからだ。
昔の自分は、世界を作っていた。この世界の全てを、作って(創って)いた。創造し、書き表し、精神を作り出し、全てを導いていた。
そもそも、こんな風にやり続け、迷走を続ける意味があるだろうか?
もっと違った形でみんなのことを愛することは可能ではないのか?
そういうわけで、そもそも言葉だけで人々を変えようとするのが間違っている。騙した上に操り、みんなを悪魔にして地獄にしているからだ。
もっと、楽で、賢くて、それぞれが分かり合うことはきっと可能だ。
昔は、義務ではなく機会だとか、そういうことを啓蒙的に分かっていたが、本当はそんな人間はいくらでも子供に居る。子供が普通にそうだ。
だから、哲学や大学もしなくて良い。そんなことをする意味が最初からない。今はまだ無いのなら、作れば良い。そういう発想は自分が一番分かっている。
選挙を見ていると、僕は一つの党の政治家が一つの地域を支配し、統一的に選挙で選ぶ、と言う発想が無理があるような気がする。
それぞれの個人がそれぞれの政党を選ぶ、と言う風には出来ないのだろうか。
不可能だと思う。だが、昔の僕の文章は、そういうことを特に言っていた。
僕は、見ていると、むしろ、リベラル新党が出来た上で、共産党や社民党と連携して、リベラル派がいくらか勝つのが良いと思う。
だが、むしろ、僕はそれも良いとは思わない。そもそも、政党が選挙で勝つ、国会で議論する、と言う発想が間違っているのではないかと思ってしまうのだ。
選挙なんか要らない。解散もおかしいが、自民党なんか、選挙で勝っているように見えて、ブームのように新党を結成することを否定する。それは、民主的でない。
僕は、もっと違った民主主義のあり方と言うものが考えられると思うのである。
そもそも、何故選挙を信じるのだろうか?選挙を信じるのは、きっと昔の王国へのアンチテーゼとしての村社会・地域共同社会の名残りだと思う。
今の時代、選挙よりもっと良い方法がきっとあると思う。
行政も、役所が全て行い、税金をいくらでも取るのは、おかしい。税金を信じるのも、僕はおかしいと思う。そもそも、金や所有自体がおかしいような気がしてしまう。
今までのやり方が有用で、実行力があるとは言うが、それは昔の話で、今の時代、政府や役所が居て、良いことなんか何もない。
もっと、共同体のようなやり方が良いと思う。共有はしなくて良いが、むしろ、階層的なものが必要ないと思う。みんなで決めて、みんなで働き方を変えていった方が良い。
僕は、ネットの間違っている点と言うのは、ネットの「抑圧的平等の自由」を信じることだと思う。
抑圧の中で、それぞれをスラムのように平等にする。日本には昔からそういうネットが多い。トランプが同じだ。
そんな風になっているのは、僕は「社会として未成熟で、遅れている」と思う。
もっと、最初から全員が平等であり、それぞれが自分らしく、ありのままに生きられるような、そんな社会が当たり前、常識になれば、きっと良い社会になる。
だから、僕はきっとそういう理想は達成出来ると思う。ありえないとか不可能だと思うのではなく、信じれば良い。信じることが本当に出来た時に、世界は変わる。
昔は、そういうことを文章に書いていた。抑圧は平等になり、一体となり、支配となり、滅びて抑圧に戻ると言っていた。
人間は、分かってしまうと、分からない人間のことが分からなくなる。日本語が分かる人間には、日本語の分からない人間のことは分からない。だから、僕は時に分からない人間の立場に立って、馬鹿と同じ視点や立場で考えることも必要だと思う。馬鹿の方が賢い人間は多い。馬鹿を知れば知るほど、馬鹿の方が分かっているのが分かる。だから、政治家や役所は、国民のことが分からないのに国民を管理・支配しているから、悪い人間になる。僕は、馬鹿で良いから、国民が国民のことを管理・支配する社会になれば良いと、そう思う。国民は確かに馬鹿だが、本当は分かっている人間はもっと馬鹿だ。
良く考えると、昔はそういう、「分からない左翼の権力」が嫌いだった。学校は、学校の子供たちが自分で支配するべきだと、子供ながらに思っていた。大人には分からない。分かる人間には分からない。だから、僕はそれで賢い人間になった。僕は、分からない王にではなく、分かる民衆が自分で自分のことを支配出来るべきだと、いつも考えていた。
正しいのは、自分の経験だけだ。正しい意見は、本人が話す言葉だけだ。絶対に正しいとされるものから導いたものだけを信じなさい。それで、きちんと全ては理解出来るだろうからだ。きっと、それはデカルトだけではなく、誰もが青春時代に通る道だ。そして、全てを分かって、精神は神となって、馬鹿になる。それが、大人と子供の越えられない境界線だ。
あとは、自由なことを言っていた。選択肢を与えるとか、自分でシステムを作るとか、独立性を高めるとか、手段を与えるとか、みんなで決められるようにするとか、そういうことを言う。そういうことをいつも、左翼のように書いていた。それが、僕の文章だ。
そして、「自由になる理論」のようなことを言っていた。論理的に、いつ何が自由になるのかを考えた。自由になっていくためにどうすれば良いのか、自由になるとどんなことが待ち受けているのか、そこから何が分かるのか、最終的にどんな自由な結果が生まれるのか、分かっていた。そして、そこから本当はどうすれば良かったのか、どのように制度や経験を可能にすれば良かったのか、そこから見えてくるのは何かを考えていた。自由だけではなく、PDCAサイクルのような、具体的な方法論を社会実現と実践に応用していたような、そういう文章だった。だから、理想だけを見ているわけでもなく、きちんと考える理性ぐらい昔はあったのだ。
だから、自由な発見と自立的支配のプロセスを言っていた。あれは、そういう馬鹿だ。その意味で、価値観を作るとか、社会を実現するとか、そういうことを言っていた。自由なそれぞれの社会を実現するためには、価値観を尊重し、意図を分析し、全員の理想が成り立つように秩序を作るべきだと言う。そういう風に、共同体を作りたかった。それらに必要な要素や前提条件を完璧に考えた。そういう人間だった。
あとは、決定が決定となるプロセス、決まりが決まりとなるプロセスを考えた。そして、人生を考えていた。人生において、何が何になるのかを、プロセス的に考える。どんなことがどんなことを導いてくれるのか、何を意図してそれをするのか、愛とは何なのか、人生における価値観や愛とは何をもたらしてくれるのか、啓蒙や改革はどこへと行き着くのか、など。そういうことを、可能性として、また事実・実例として考える。そういう文章だった。
あとは、思考を辿りながら、環境への適応を考えて、この世界のことを「分からないことによって」分かる人間だった。分からないから、みんなのことを分かる。分からない的に、みんなのことを分かる。そこから、「思考の段階」と言うものを作った。この世界の全てを、思考の段階から考えて分かっていた。
全てを捉えて、既に分かっていることだけでこの世界のことを全て分かった。そういうところがおかしな不登校の高校生だった。
もう、そろそろきちんと分かった。あとは、言語的に考えることが多かった。論理の組み合わせと自然な経験の反省から、デカルトやヘーゲルのように世界のことを分かっていた。
論理の段階を論理的に考えることで、環境がいつ生まれるか、その生まれた環境がどうなるか、その環境は何のためにあるのか、その目的のためにどのようにすれば実現出来るのか、問題の原因はどこにあるのか、どのようにすればそれが経緯的に生み出せるか、その変化は証明するとどうなるか、その実験結果は何を意味しているのか、科学的に考えるとはどういうことなのか、地球は宗教的にどんな実像と実存が過去にあったと考えられるのか、今の自分たちが「居る」と言うことは何を「意味」しているのか、など。
また、社会、具体的環境、自由、潜在的可能性の実現などが、可能性の中でどのように生まれるのか、そこにどんな原理原則があるのかを考えた。
そういう文章だった。何も分かっていない。だが、れっきとした「自由」と言う理想があった。自由にしなければ、何も生まれない、自由と言う意味は、何かを生み出すことだ、と考えていた。
あとは、具体的存在を全貌と全員知っていた。全員のことを知り、全ての経験を知り、全ての思考をして、全て試し、全て行動し、全て聞き、全て言い、全て見た。そこから、関連して考えることで、何が正しい行動なのか、人々と自分の関わりから知った。知識を共有することで、認識の了承を知った。そして、全ては問題の共有であり、宇宙は全部同じなのだと悟った。全部で一つなのだ、一つはバラバラなのだと悟った。
自由とは生み出すことであり、この世界は常に生み出されている。創り出されている。昔は、そういうことを一行で書いていた。自由なプロセスは世界の歴史だった。この世界の全ての歴史を「その時作り出す」ような、そういう歴史の文章を書いていた。また、本来の世界は古代ギリシャだと考えていた。逆に、未来の世界は古代ローマだと考えていた。話は違うが、そういう趣旨のことを言っていた。この世界の全ての歴史を、プロセスとして、具体的な変貌として分かっていた。そこから、民族主義的な世界観を書いていた。
そういうわけで、思考の段階を分かっていた。説明と実験のようなことや、全員を分かっていく、知っていくプロセスのようなものを書いていた。
そろそろ分かった。そういうあり得ない文章だった。全部分かっている代わり、何も分かっていなかった。それが、そのまま神を作った。神はこういう風に生まれた。
そして、単純な人生観念のことを言う。目的意識から自由と社会への愛が生まれるとか、そういうことを言っていた。
もう、分かったから、終わりにしよう。ありがとう。そして、さようなら。
あとは、関係や概念を分かっていた。それが自分独自の数学になった。これで分かる通り、人間は分からない人間が賢い。だが、それが一番、居ない。
意識がその時どうなるのかを考えて、経験を考えれば分かる。
そして、人生経験をたくさん積むことで、デカルトのように自由な推論をするようになる。
誰のことも実感で全員包括して分かるようになる。資本主義を荒らしまくった経験から、何でも実現出来る理想の理性を得られるようになる。
それがまだされていないことであっても、そこにあるだけで、何がそこで出来るのかが分かるようになる。
それが、「環境を変えられる」と言う「第一真理」に繋がる。
そして、歴史が今この瞬間にここに存在し、未来はまだ分からない、あるのは「自分の行動に対する結果」の積み重ねと集合だけだ、と言うことが分かる。
自分以外の人間の行動を、自分による行動だと責任感と慈悲の心を持って実感出来るようになるだろう。
あとは、決まりや労働の経験を考えていた。労働を吸収しながら、ボトムアップ的、参加的な社会の変化の可能性を考えた。そして、それが実在することを知り、手段が分かれば実現出来ることを知った。
そして、自分の経験から、「宇宙における絆」を知った。「宇宙的な人間関係」を分かっていた。
自分の過去の経験だけで全て分かった。この世界の全てが、自分の体験と理性だけで、完璧に全て分かった。そして、そのことに対して「本当の満足」を感じていた。
だから、寂しくても、僕は幸福で、満足していた。
終わりにする。僕は本当に、この人生が好きだった。だから、今死んでも悔いは無い。だが、僕は死を信じることも止めたいと思う。死は良いものではない。この世界にそんなに簡単にゴールが見つかるような、逃げ場所が見つかるような体験は無い。いくらでも逃げ回って、最後まで走り続けて、その上でやっとゴールがある。だが、賢い人間なら簡単にゴールが見つかるだろう。大人は馬鹿の方が良い。子供なら簡単にゴールを見つけられるから、若いうちに自由になると本当に全て分かる。
こういう風に考えると、カントのような理性批判は誰でも分かる。
さようなら。でも、きっと明日もう一度会えると思う。僕は気分屋だけど、本当は強情で、意地を張って言い訳を続ける。そしてツンデレなところがある。だが裏表はない。
そういうわけで、宇宙的と言うよりは、宇宙人的な人間関係を分かっていた。宇宙的な社会実現を、引き篭もりの経験から分かった。ダイナミックな社会のうねりをネットで感じていた。そこから、学校と言う閉鎖的な空間がいかに意味がないか、どのように変えれば良いのか、良く分かっていた。
攻撃は意味がない。他人を攻撃してはならない。だが、攻撃はある種の防衛反応であり、叫び声だと考えた。いじめは対称性が無いことが問題であり、いじめられっ子はいじめっ子をいじめ返すべきだ、と言う自由、いじめが無くなるためにいじめられっ子が何が出来るのか、と言う自由、そして世界をどのようにすれば平和に出来るのか、と言う自由を分かっていた。
一度出来たことは、絶対に全部出来る。だから安心して良い。あなたの努力は無駄にならない。
出来ることなら、もっと宇宙的な人生のことを書きたいが、全く覚えていない。神のように全てを分かった人間だった。
きっと、いじめは自由を許せば解決出来る。相手の自由に任せながら、自分の主導権を得ることで、ある程度の反撃は出来るだろう。恐怖はあるかもしれないが、恐怖には勇気で打ち勝つことが出来る。昔の自分はそういう風に考えていた。
ある意味、自分も相手も含めて、相手のことを良く知らなかった。もっと素直に反応し、相手の環境を良く理解すれば良かった。環境でのさまざまな行き違いと、コミュニケーション不足があった。ネットは、相手のことを良く理解し、コミュニケーションの経験を豊かにすることで、僕を相互理解のマスターへと近づけてくれた。絶対に相手のことを理解すると言う、真理を教えてくれた。結果的にその真理は正しくなかったかもしれないが、素直に相手と接することで、いじめは無くなり、相互に理解することが可能になるだろう。人間関係の欠如は、経験の無さから生まれる。
それを突き詰めて考えることで、世界の全ては変えられる。昔はそういう風に全てを知っていた。それがまさに希望であり、世界は変えられるようにしなければ希望は無くなると考えていた。それはもっと違うやり方があると考えていた。
あとは、環境のようなことをとにかく良く見ていた。環境を知ることで、全ての人間関係を自由なまま導いて支配する人間だった。心理的コントロールで世界を変えられる人間だった。
経験を成り立たせるために環境をどのように作れば良いのか、良く考えていた。その経験を成り立たせるための環境を考えていた。そこから思考を場に適用して考えていた。
感覚的に分かるための経験を作っていた。経験から、あらゆる自然界のものの変化が分かった。どんな感情がどんなものを作り出すのか、そういうことが分かった。歴史的文化のようなことを、経験と感覚から分かっていた。
社会の変化は、出来事と文化がどのように「興る」のかから分かっていた。
今日はたくさん書いたが、そろそろ書いたかいがあった。きちんと自分で分かったからだ。楽しかった。だが、頭と目が異常に疲れている。休みたいと思う。
必要なのはまず勇気である。そして、何に増しても勇気である。僕はそう思う。勇気があれば、諦めることすら成功に変わる。僕は、「勇気」こそ宇宙の全てだと思う。そして、恐怖の中で打ち勝つことが出来ない場合は、「勇気を後回しにする」ことで解決出来る。あとでそのことに打ち勝つことにして、今はそのことと向き合わない、そんな逃げることに似た現象も、本当は一つの勇気なのだと僕は思っている。いずれ戦う時が来る。その時のために、勇気を温存しておくべきだ。戦いが始まったら、よそ見をせず、まっすぐに行こう。辛くても生きれば良い。勝つまで戦いは終わらない。死んでも生まれ変われば良い。
あとは、常識を覆していた。電磁波は存在せず、現象が波立っているだけだ。波は法則ではなく関係的な現象だ。熱やエネルギーは存在せず、あるのは状態と慣性の法則だけだ。電子も陽子も光の別のバリエーションに過ぎない。あるものは光だけだ。植物にも意識はある。そうした、全てのことを覆す文章を書いていた。社会論や経済論については、誰も出来ないようなとびぬけてあり得ない発想を、自由な中での必然的な思考と論理に落とし込んで書く。そういう文章をいつも書いていた。星の集まりが銀河なら、宇宙の集まりにも名前を付けるべきだ。生命は繋がっている。生命は宇宙のどこか別の場所で生まれたはずだ。
日本は、ロシアと一緒になるべきだ。それで、共産圏の文化と融和することが出来る。日本には、民主主義やカタカナ語など、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、そして中国やインドの文化はある。無いのはロシア、イスラム、黒人の文化だ。それらを吸収するために、ロシアと一緒になるのが良い。僕はそれが一番日本のためになると思う。また、ロシアには原油や広大な領土がある。日本の技術力や資金力と一緒になれば、必ず成功する。日本とロシアで、新しい社会民主主義の連合連邦国家を作らなければならない。そして、そこではオープンソースの考え方を取り入れよう。
あとは、社民党がベンチャー企業を支援するべきだとか、そういうことを言っていた。どの会社でも低価格で利用出来る汎用工場施設を作れば良いとか、外注に丸投げでも専門的なことを安価かつ高度に出来るならその方が良いとか、そういう「社会主義的な資本主義」を良く考えていた。国をまるごと作るためにどう考えれば良いかとか、そういうことを言う。宗教や貨幣のような「第一ルール」を統一して、あとは何も決めず、ただ自由にやるのも理想だと考えていた。アナーキストのようだったが、個人の出来ることだけではなく、社会全体の出来ることを貫いて考えていた。ある意味、全体主義にも見える。それは認めよう。
環境への適応から、「全員にはどうやったらなれるのか」を考えた。ネットを見ながらたまに空想して、現実世界と仮想世界を行き来し、そこから全員を経験的に知った。
今日は終わりにしよう。もう寝る時間だ。続きは明日にする。
あとは、その人間や現象が何に起因するかを考えて、環境を知り、全ての現象を支配出来るようになった。自由に人々を支配し、変え、操る。そういう、あり得ない人間だった。
そして、環境の変化を考えていた。環境の実像的な変化を考えた。歴史において何が積み重なっていくのかを良く考えていた。
ウィトゲンシュタインのように、人々の中にある観念と問題意識を自分のことのように考えた。問題の解決から、問題そのものがどのように生まれるか、問題意識とは何であるのか、のようなことを考えて、数学的に哲学を考えていた。
そして、自然や社会を含む、場の意識的変化を考えて、世界を動かせる人間になっていた。この世界に影響力を持って与えられるほど、全てのことがはっきりと分かっていた。
自分には全て出来ると実感した。全ての科学を知っていた。全ての経験を持っていた。そして、悲しいほど辛さに耐えていた。
経験し、観察することで、社会の発展を良く考えていた。産業革命のようなことを良く思った。パソコンの歴史を知っていた。人とは違う人生を選んで、引き篭もりの経験だけで全て分かった。
疲れた。終わりにしよう。もう休みたい。
たぶん、話す機会があれば、何でも話せただろう。講演会のような機会があれば、何だって言えたはずだ。悲しい経験だけで、人生のことが全て分かる、あり得ない引き篭もりだった。ヒカルの碁やるろうに剣心の主人公の喪失体験のような、そういう体験から完全に人生のことを分かっていた。そして、その時の真実の体験を分かち合ったネットの仲間が好きだった。
あとは、イタリアのような文明的国家の文化のようなことを、実感と世界観から良く分かっていた。それから、工学的、社会的な、ものの形成手段と条件のようなものを、ネットの経験から分かっていた。マルクスすら、経験だけで分かっていた。
科学や、外国の文化も同様に経験だけで分かっていた。
精神分析や執着のようなことも、経験だけで宗教的に分かっていた。何でも治せて、何にでもなれる人間だった。
あとは、弁論術、啓蒙、革命、創造性が好きだっただけだ。それだけの人間だったが、創造性と啓蒙だけで分かる部分は全部分かった。経験だけで宇宙の全てを分かっていた。
経験を信じて場を分かっていた。実験と証明、構造と関係から相対性の真実を知った。独りだけ、この宇宙が全部分かっていた。
終わりにしよう。今日はもう、寝る時間だ。おやすみ。
現実では何もしていなかったが、ネットで色んな経験をしながら、自覚し、開拓することで、自由に気ままに自分勝手に生きた。そして、この世界を自由に変えたい、と言うよりは、経験から必然的に変えられるようになった。自分が分かったことを他人にも教えたかった。そして、自由を出来るだけ尊重し、悪いことをせず、慎重に積み重ねることから、発見し、推論し、実験し、開拓した。
終わりだ。本当に、今日を読んでくれてありがとう。明日も続きます。