作業所と農園に行ってきた。
今日は、作業所でカレーパーティがあった。自分は、肉を切るのと盛り付けを少し担当した。
作業所での通信で、今回僕は編集長とメイン部分のデザインを担当することになった。
僕は作業所ではデザインはまだまだ下手な方なのだが、今回は僕が編集長を担当する。
もっとデザインが上手くなりたいと思う。
世界の構造を作りながら、環境がどのように生まれるのか、環境の具体的生成プロセスを書いていた。
環境だけではなく、全ての事象について、貫くような視点で全部の本質を書いていた。
また、全ての数学的関係を書いて、全概念から全ての関係を分かるような、そういう「公理主義」のような文章を書いていた。
論理的考え方のパターンを作っていた。
みんなの意見を聞いて分かっていた。自分だけで、全意見作って分かった。
社会文化の変貌のような、「文化的歴史」を書いていた。社会文化の歴史がどのように発展していくか、分かっていた。
生命意識のようなものを分かっていた。この宇宙の意識を経験的な概念と本質から分かっていた。
宇宙のように、この世界の全てを書いていた。宇宙の全てを包括する数学だった。
人間は、絶対的原理を信じれば分かる。
昔は、ただ信じるだけではなく、その場その場で信じてモデルを作って、絶対的原理を作って、それと具体例を照らし合わせることで分かっていた。
要は、本当に、信じながら推測しなければ分からない。
社会学や心理学は、社会原理を作ることで分かっていた。そして、物理的に心を考えた。
僕は、この文章を書くのを止めて、デザインに専念したい。だから、これでお別れだ。さようなら。本当にありがとう。
そろそろ、きっと文章はやめられる。ただ、止める意志を持てば良い。それだけで止められる。
他人より分かるからと言って、自分を賢いと思わない方が良い。批判や否定は誰でも出来る。肯定出来る人間が賢い。
日本人は、漢字とカタカナ語を両方使うが、これはある意味、形容的な「飾りと雰囲気だけの」文化を作ってしまう。
だが、英語も悪い。英語は最初から本質を言って、何も分からない。
MSは完全に間違っている。良くある会社のやり方として、最初に出た原案はどこかへ消え去り、頑張って作ったものが台無しになって、あとで意見に追われて反省して変えている。Windows 8から10までの迷走は、良くある会社だ。オープンソースにした方が良い。オープンソースは、バグが無いだけではなく、完全に自由に作れる。アプリケーション、基盤ソフトウェア、OS、コマンド、コンパイラ、全部オープンソースで作れば良い。バグが完全になくなって、独自性の強い個性のあるものが生まれる。
オープンソースは、Windowsと違って、アプリケーションが落ちるバグは少ない。だが、機能が低機能だったり、良く考えられていないところでの不具合が多い。パスワードを入力してもログイン出来ない時に、日本語入力がオンになっていたり、そういう「全部を想定出来ていない」不具合が多い。オープンだからと言って万能ではないが、そんなにアプリケーションが落ちるよりはマシだ。
ただ、オープンソースは使えない。KDEは動かない。KDEは起動すらしないことが多い。ネットワークにも繋がらない。手動設定をどうやれば良いのか分からない。フォントも醜い。Windowsと同じぐらいの最低限の機能が無いことがある。プリンターのドライバーが対応していない。何にも使えない。仕方がないからWindowsに戻る。起動も遅くて、アプリケーションも重くて、何もかも使い辛くてデザインも醜いのにWindowsになる。パソコンはおかしい。
もう、終わりにする。さようなら。本当に、もう書きたくない。絶対に書きたくない。完全に書きたくない。もう書かない。
往生際が悪いが、あと少しだけ書く。
昔は、科学者や芸術家など、偉人や歴史的文化のようなことを、自分のことのように分かっていた。科学者や芸術家を包括する、全員のような人間だった。
分からない方が良い。分かるのは賢くない。人間は、分からない方が賢い。
昔の自分の方が賢かったと思うなら、今分かっていることを分からなくすると、すぐに分からない昔に戻る。
僕がカープで好きな選手はエルドレッドだ。良い人間のオーラが出ている。
デザインを勉強したいなら、下手なデザインの本を買うよりも、絵画や芸術作品を鑑賞することだ。
人間は、何も分からなくても、自分の道は分かる。何から取り組んでいけば、全てをきちんと分かることが出来るのかが、誰でも分かるのが人間だ。
昔の自分は、そういう人生の段階を書いていただけだ。
だが、大人になってしまうと、そういう段階は必要でなくなる。もっと、自由に出来るようになる。だから、昔の青春時代のように賢くなくても、賢いと思えば良い。
世界と人生は既に全て分かっている。それが、大人だ。