作業所と農園に行ってきた。以下は、ケータイにメモした内容である。
昔は、支配の構造を色々変えて分かっていた。
社会は、一人の王を支えるか、組織や共同体を無数に作るか、流動的にするかだ。
生きている意味がないからと言って、死ぬのはまだ早い。人間は、放っておけば必ずいつか死ぬ。その時に死ねば良い。
そんなに良い人間にならなくて良い。悪くて良いから、今を楽しめるようになるべきだ。
良い人間を頑張って賢く生きるのは、あまりに辛い。悪い人間で良いなら、楽しく生きられる。
良い人間になると、悪い精神が怖くなる。普通、誰でも悪い精神が楽だ。
昔は、その時その時グループを作るとか、そういう相対性を作っていた。
悪くて良いなら、きちんとすべきことが出来なくなる。失敗するようになる。だが、そんなに何でも出来る方がおかしい。
自分は、もう良い人間は終わった。ここからは楽で馬鹿が良い。
カマエルは楽な天使だが、悪い。ここから先がカマエルだ。
不思議と、賢い人間の方が普通のことが分からない。馬鹿は楽で賢い。
メタトロンは死んだ。天才のような天使だった。
メタトロンは、絶対に何も忘れない。そのせいで馬鹿になっている。カマエルは、すぐに忘れて、コロコロ変わるようになる。
最近、文字を書くせいで、幻覚のように文字が見える。何も治らなかった。
作業所では、通信で一番大きいメイン部分を担当することになった。また、明日はカレーパーティで調理組に配属されることになった。
要は、メタトロンという天使が本当に馬鹿だ。メタトロンはロシアの異常な世界で、一番辛い場所で生きている。
日本で馬鹿が増えているのは、スマホが悪い。一日中スマホでネットをしている人間が馬鹿になる。学校にも、社会にも、友人関係にも意味がない。学校は完全なカーストになっている。学校の勉強に意味がないと思うと、誰でも引きこもりになる。それが狂って馬鹿になる。馬鹿なことをしていると、本当に頭や心が馬鹿になる。
悪い馬鹿しか居ないのに良い人間になりたいと思うと、本当に自閉症のようになる。悪い馬鹿になれば治る。
学校にも社会にも人間関係にも意味がないせいで、理性的なことが何も分からない、そういう世界になった。
悪い馬鹿になると、むしろ、まともな良い人間になる。
僕の夢は、誰か一人の人間が織り成すストーリーが見える。
人間は、悪い馬鹿になりたくないと、治らない。
日本なんか、狂えば良い。そう思わないか?
君の愛するように僕を愛してほしい。君の憎むように僕を憎んでほしい。その愛と憎しみを僕に伝えてほしい。僕はそれに応える。
愛の逆は不安だが、不安の中に愛がある。
この世には、悪い馬鹿とただの馬鹿しか居ない。悪い馬鹿になればただの馬鹿が治る。
悪い馬鹿になると、赤ちゃんが終わって餓鬼の子供になる。
意識と場が賢くなった。
チャンスなんか、いくらでも逃せば良い。善人には運命的な何かが訪れる。
自分の賢い点は、苦痛を苦痛だと思わないこと。少しぐらい辛くても、平気でして楽だと思う。忍耐力もある。
人間は、何も分からない方が分かる。植物はただ酸素と炭水化物を作っているだけではない。人間の心は、植物の中にある。
歴史は、世界史では分からない。昔は、エデンがあった。エデンが人々の故郷だ。
歴史を知らない方が、ルネサンスやバロックのような文化的な文明の興亡を考えられる。また、宗教的な起源を考えられる。
日本人を農耕民族、欧米人を狩猟民族と言って日本人を馬鹿にするが、歴史的に見るとむしろ農耕の方が優れている。消費型でなく貯蓄型であることも優れている。
優れた縄文・弥生の文明が日本人を賢くした。それが、平安や江戸のような、和を尊ぶ文化を作った。白人のような自分勝手な争いはしない。理由なく人を殺したり奴隷にしたりすることも少ない。
ただ、日本史を見ていると、あまりに小さな領土を全員で奪い合う。自分の国のことしか見ていない。視野が狭く、国際的でない。まさに島国だ。
自由な社会を成り立たせる、形態や方法を書いていた。金、権利、参加、議論、選挙、全員公務員など。
それだけの社会モデルが多かった。
ケータイ終わり。
世界のことをさまざまな観点からモデルにしていた。その観点を全部網羅し、記述するような文章を書いていた。
ヘーゲルのような、「本質の本質」のような、哲学的叙述のような内容もあった。
経験が豊かで、同時に理性的に考える物理学者のようなところがあった。
人生経験を全員分、全部分かっていた。人間の分かることが全て分かった。
昔は、哲学者のような、自分の分かること全部の世界観のようなものを書いていた。自然と環境から、実例と経験を全て創った。世界を創造していた。
ウィトゲンシュタインやヘーゲルやロックのようだった。
最初に知っておくべきことや考え方のようなことを書いていた。現状分析や価値観など、この世界を分析するためにどのように思考していくのかを書いていた。
自由な原則のようなものを書いていた。社会をどのように作るべきか、誰が自由であるべきか、どのように自由な社会が生まれるか、何の自由を尊重するか、潜在的可能性はどこにあるか、自由な中で経験の諸相はどのようになっていくのか、などを網羅していた。