新・日記2に戻る | 2017年9月の日記に戻る

=2017-09-16=

昔は、経験を把握して、経験的に人生のことを分かっていた。人生が場面と環境によって、どうなっていくかを、経験的に考えた。

自由な経験的理性で、世界のことを分かっていた。経験から、社会を論理的に考えていた。

宇宙の根源的な意識を分かって、神のようなことを言っていた。

社会モデルを作って、歴史のようなことを分かっていた。

自分は、一度失敗したことや、怖いと勝手に決めつけていることを、怖くてもした方が良い。再チャレンジすれば成功するかもしれない。

みんなとの関係を作り直した方が良い。テレビの方が悪い。

神は存在しているかもしれないが、神を信じても、信じなくても、神に倒される。だから、神を倒した方が良い。

成長や学習から、真理を分かっていた。だが、本当は分かったことは何も無くて、分かったものは全部自分だった。

今、農園に行ってきた。今から英会話教室に行く。

英会話教室に行ってきた。

昔は、環境が必然的にそうなっていくのを書いていた。環境が生まれ、環境が変わっていき、環境に適応し、環境を変えていく。その過程と前提を書いていた。

神が居なくなると、もう、まともに分かるようになる。

みんなが分かっているのに、自分が分からないのが怖い。それは、みんなをもう分からなくすると楽になる。

辛い時は、関心を他に向けること。特に、関心を僕から他に移せば、すぐに楽になる。

掴んで離さず、馬のように暴れるだけではなく、それぞれを分離させ、独立させていけば楽になる。

自由は多様性から生まれる。多様性を実現するためには、もっと遅くてネットから離れた生き方をすることだ。

YouTubeはGoogleが金を払っているから、違法ではない。それどころか、広告と再生回数で儲かる。

Googleのやっているように、そのうち、中国政府がマイクロソフトに金を払うことで、Windowsの違法コピーが容認されるような、そういう世界が来るかもしれない。

あるいは、中国政府が金を払うことで、オープンソースのように再配布やコピーが自由に出来るようになるかもしれない。

ただ、そんなことを言っていたら、この世界は何でもありになるだろう。Googleは意味がない。

自分は、何かを絶対にやりたいとか、やりたくて仕方がないとか、やってみせる、出来るまでやる、頑張る、と言った、「情動」が無いのが悪い。

昔は、そういう情動があった。パソコンが好きで、Linuxをやりたいとか、この世界をもっと良い世界にしたい、と言う情熱と情動があった。

賢さとは、情動がどれだけ大きいか、それにかかっている。

だから、ある意味、「絶対にやらなければならない」と思った、その情動が賢いから、僕は今でも文章を書いている。

プログラミングでも、美術でも、音楽でも、何でもできればそれで良い、と言う考え方は、間違っている。

それは、たとえば、本を読もうとして、自分の目的で本を読むのではなく、本に従属させられるだけの奴隷になる、と言うことを意味している。

自由ではない。何でも良いと思っていると、それでは何も分からない。普通、意味がないことはしたくない。

だから、どの本でも良いと思って本を読むのではなく、何らかのこだわりや目的を持って本を読むべきだ。

自分は、出来ることが無い、と言うが、本当は初歩の初歩しか出来ていないだけで、出来ていることは多い。それをもっと発展させる方法を考えれば良い。

それこそ、勉強することは間違っていないが、勉強の時代は終わった。今からは、プロのように「出来る」時代になる。

プロのようにやりたい、と思わないのがおかしい。

自分は、社会の普通のことが分かっていない。普通、自分で作らなくても、誰かに作ってもらえば良い。それが分かると、そんなに全分野出来ても、全部の仕事が分かるようになっても、意味がないのが分かる。

そんなに大学や知識を分かることには、意味がない。

そうすると、むしろ、パソコンは止めた方が良い。制御構造(条件分岐と繰り返し)とデータ(配列と構造体)とポインタと関数で誰でも作る。それは楽しい作業ではない。

デザインと執筆は楽しいだろう。そういう、楽しいことを極めれば良い。英語とピアノしか出来ないのは、学校に通わなかったからだ。

だから、学校に通って一つのことを出来るようになって、あとは楽しいことをして、金を稼いで、ものを買えば良い。それが普通だ。

ただ、僕は、そんな普通はつまらないと思ってしまうのだ。

哲学や作家として生きるなら、情熱と情動が必要だが、それだけでは達成出来ないゴールだ。調べたり、知ったり、考えたりしないといけない。そして、それはもう終わった。

することが無いのは、自分は考えすぎているからだ。今やっていることをやっていれば、そのうちすぐに出来る。

そんなに「出来ることをすぐにする」必要はない。なぜか、子供の頃からやっていて出来ることもあるが、大人がやると、大人の方が簡単に出来ることの方が多い。

子供時代に何でもやっていると、出来るとは言うが、学校の勉強はしない方が良い。あとでやった方が賢い。

だから、答えは、買った本と、執筆とデザインだ。それだけをやるのが良い。

ただ、簡単にそれで良いことにするのは悪い。それで良いわけがない。むしろ、僕は数学がやりたい。

そろそろ僕は分かった。

もっと、みんながやっているようにやれば良い。みんなになったつもりで、みんな全員のことを吸収すれば良い。みんなの意見を聞き、同じように考えれば良い。

昔は、そういうところが「人間」だった。人間は賢い。最近は人間で無くなっている。

その社会が、その場所が、たとえそうだった場合、それはどうなるだろうか?

その方法が、その慣習が、たとえそうだった場合、それはどう出来るだろうか?

そこから、人間の人生や環境の違い、主観と客観の意識のようなことを、良く考えていた。そして、ネットで思考を吸収していた。

昔は、知識や記憶のレベルで、世界や人間のことを全て分かるモデルを作っていた。そこから、科学(作用と反応)、社会(モデルと体制)、人生、人間のようなことを全て分かっていた。そして、それを全て潰して、全て一瞬で分かるような、そういう文章を書いていた。

それを世界モデルと言っていた。社会を創生し、人生を成り立たせていた。

今日は、これで終わりだ。本当に、こんな文章を読んでくださって、ありがとう。ある意味申し訳ない。そして、さようなら。また、会う日まで。