自分らしく生きることから、価値観が分かる。
知性から、全てのことが分かり、出来るようになる。
社会の可能性から、多様性と、自由なビジョンが分かる。
実感から、全てのものは愛であると分かる。
馬鹿な大人になると、賢くて正常な人間になる。
精神がおかしいのは、足や手を使わないからだ。パソコンしかしていない。
今のままで良い。今が一番楽だ。
昔は、実感から認識、環境、人生、感情のことが分かっていた。それを経験から捉えて、人間の世界観を分かっていた。
もっと日常のことを書きたいと思う。
デザインは、基本的なレイアウトが出来た。一年分を枠と日付にしていくのは、結構大変だった。
指導員の方からは、今日は元気そうだね、と言ってもらった。
それはその通りで、一山越えたおかげで楽になった。昔の自分を諦めることが出来たし、文章はもう全部分かった。
昨日辛かったのは、家族といろいろあったからだが、自分の何が悪いのかもう分かった。家族は、自分を自分のやりたいようにやらせたいだけだ。だから、子供みたいな人間は止めた方が良い。大人になるべきだ。
自分は、買い物に行った時、決まって食物繊維と鉄分の入ったジュースを買う。血を治したいからだ。
僕がデザインをしたくない問題は、疲れることではなくて、空いている時間の時に何も出来なくなることだ。何をして良いか分からなくなる。指導員の方を呼べば良いのだが、もっと自分一人の力で問題が何なのか分かるようになりたい。
昔、ネコを飼っていたが、可愛かったなあと思う。また動物を飼っても良いかもしれない。ちなみに、最近は水槽で金魚を飼っている。
農園は、車で片道四十分ぐらいで、いつも作業所の後に行っている。
自分は、車に乗っている時間が好きだ。何も考えず、流れ去って行く。
書きたいことは、ケータイにメモする。
トマトは、雨が直接当たると実が割れるため、ビニールを被せた小屋を作る必要があるが、もうトマトの季節が終わったので、少しずつ小屋を解体しなければいけない。
すぐに全部は出来ないが、今日は父親と一緒に少しずつ小屋を解体していった。
今日は、ビニールを外して、トマトの幹を引っこ抜いた。また、ゴミ置き場を崩れないようにした。
小屋の解体はまた明日する。
自分は、本当の年齢が関係無い人間だ。だから、ここらへんが色んなことをやっている大学生だ。遅れているように見えて、いつまでも若い方が良い。今が大人だ。
オブジェクト指向は、クラスとインスタンスだと思えば分かる。実際のコードを見ること。
競争の問題とは、勝敗が確定した時に勝者だけになって、選択肢が一つ減ることだ。いつまでも、選択肢が有り続けるようでなければならない。
あとは、畑に水をやって帰る。
農業は辛いように見えて、一時間ほどの作業だから、あまり辛くない。それに、ほとんどは父親がやっている。辛いのは英会話教室の英会話だ。外国人が怖い。
作業所での作業は四時間半ぐらいで、それでも休憩がある。その後に父親と農園に行っている。帰ってからこの文章を書く。忙しいようで、空いている時間の方が多い。農園から帰ってご飯を食べて夜寝るまでの時間にこの文章を書いている。
デザインは、季節の花でカレンダーを統一すると面白いかもしれない。
季節で変わるものは、行事や食べ物、祝日や星座がある。
果物や野菜が良いかもしれない。
最近は、作業所では午前中デザインをして午後から軽作業をしている。軽作業は、工場だと思えば良い。工場での単純作業と変わらない。
自分は、昔から脇役を目指している。そういう人間の方が、色んなものを持っているから、主役になった時に華開く。最初から主役を目指していると、他人より馬鹿な人間になる。
昔は、社会的発想を考え方にしていた。ソ連のようなユートピアを作る。それも、弱者から自由民まで、全員のことを考えた世界を創る。
ただ、それは奴隷のようだった。「奴隷のユートピア」のようなものを創っていた。
たとえば、集団農場にして、楽にしようと思えば全員楽になるとか、奴隷になれば生きられるとか、そういう「引き篭もりを奴隷にすることで、楽に生きられる」のようなことを言う。
言っていることは奴隷だけではなく、教育を変えることで社会全体が変わるとか、政治家に全ての労働を経験させるとか、平等な資産を与えた上で自由に社会を築く権限を与えるとか、そういう考え方のようなことを言う。
それで、全部だ。いつも、そういうことを書いていた。
それこそ、あとは、相対的に考えていただけで、見るからに一番おかしなことを言っている。宗教の教義を変えるとか、自然言語を今までの人間が使っていたものでないものにして改良するとか、そういう「進歩的変革」のようなことを、「全体の平等を見て」考える人間だった。
自分が怖いのは、底が知れないからだ。底の知れた馬鹿に見えて、本当は地中深くまでいくらでも穴を掘っている。だが、いつまでもその中身が見えない。虫とは言うが、虫には見えない。宇宙を殺す存在に見えるから、怖く見える。
ただ、本当は優しい人間で、純粋な心を持っている。素直な心だと言うより、自分のやりたいことをまっすぐにやっている。何をやりたいのかは、本人にしか分からない。本当は、自分だけ楽をしたいだけだ。楽に分かっていたい。教えたいわけではなく、ただ往生際が悪すぎるだけだ。
そういうわけで、ボトムアップ的な社会変革の理論のようなことを書いていることが多かった。また、社会を上から完全に決めるような文章も多かった。
それこそ、賢くは無いが、分かっていた。馬鹿な自分の昔の人生だけで、何でも分かる人間だった。
可能性を緻密に積み上げて、詳細に辿っていた。この宇宙を拡大させ、別の宇宙にするような、そういう文章だった。
場の意識とは、経験的な回想だった。自分の経験と記憶だけで、この世界の全てが分かった。どんどん人と違う人間になって、過去の自分を喪失する代わり、この宇宙で一番綺麗な心を手に入れた。昔は反抗心が強かったが、その代り情熱的で、自分の精神で歴史上の人物全てを分かるような、またこの世界に存在し得る全てを知っているかのような、「最高に綺麗な心」を持った人間だった。
昔は、そういう、純粋な心で色んなことを分かるのを書いていた。認識や捉え方とは言うが、基本的には「純粋な心で分かる」内容を書いていた。
この文章の目的は、「自分の分かったことを全部書く」ことだが、そろそろ書けた。むしろ、理由とか目的とか、そういうものが最近は曖昧になっている。いつまでも続くのは、人間の脳はこういう風になるからだ。全て分かった人間は文章を書くようになる。引き篭もりの女に多い。
誰でも、完全な自由を与えた上でLinuxのようなことをやれば、分かる。
みんなも、僕が主導して分かるようにするべきでない。みんながみんなの力で分かった方が良い。
ただ、本当に必要なのは、こんな文章ではない。正常で豊かな心のある、目指す先の分かっている社会が必要だ。
そうなると、考え方を書くよりも、社会を良くした方が良い。
社会を良くするために、いつも頑張っていたが、そんなに心を賢くしても意味がない。必要なのは、物理的な具体的社会を賢くすることだ。
そうすると、昔の社会は忘れた方が良い。今の社会も異常だが、昔の社会も異常だ。一度、きちんとした社会を創った方が良い。
そのために必要なのは、友達を作ることだ。それも、SNSのようなネットでの友達を作ることではない。
そして、社会全体を、昔のようにダイナミックに変えるのは良くない。何も変わらない社会で、「みんなの中で共通のもの」を作った方が良い。
僕のような人間が上から全部与えると、みんなは与えられなければ何も出来なくなってしまう。
だから、みんなとみんなとのやり取りをしなければならない。みんなが、みんなと、それぞれ仲間になったり親しくなったりする関係が必要だ。
そのためには、僕は何もしなければ良い。だが、一番悪いのはインターネットだ。インターネットがあるせいで、正常な人間関係が無くなった。
インターネットは、早晩無くなるだろう。ネットワークが無くても、写真は写真集で読めば良い。コミュニケーションは電話ですれば良い。仕事で使う素材やアートワークはCD集を買えば良い。そのように、娯楽から仕事まで、今までのようなアナログなものを進歩させることで、ネットと同等のものは簡単に作れる。そういう風にしていけば、本当に良いものが勝つようになる。ネットは楽しく見えて、もう、その「楽しい部分」は終わった人間が多い。十分楽しかったから、ネットはもう要らない。みんなで、ネットに依存せず、もっと自由で簡単に仕事が出来るような、そういう環境づくりをしていけば良い。そして、リアルな友達を作って、みんなとみんなが繋がり合えるようにした方が良い。
本当は、物理学が悪い。世界で起きることは、物理学的なことだけじゃない。神秘や奇跡が起きているように見えて、肉体とこの宇宙での自分だけを自分だと思うから間違える。本当は、自分の存在は霊的なもので、この世界の肉体だけではなく、夢の世界のような場所でのキャラクターも自分に含まれる。だから、自分はこの世界に肉体の中に居るのではなく、この宇宙の中に霊として居る。その自分が、他の霊と通じることで、色んなことを起こしたりすることは出来る。テレビに知られている、漫画や音楽に知られているからと言って、自分が神なわけでも、盗撮や盗聴がされているわけでもない。本当に霊の世界が分かった人間は、霊と霊とのやり取りが出来るようになる。何かをやっている人間は、治すことを望むようになるが、そもそも病気になったのは、自分が最初から決めている。治りたいと思っても、それは治せない。賢くなっているからそのままで良い。
イエス・キリストは、こういう体験をしている。古代のユダヤ人で唯一神になった。彼は、天国とはみんなの手で作る国のことを言っている。それこそ、イエスは今でもどこかに居るから仕方ない。僕はイエスでもブッダでもない。イエスは、今でも霊として居るから、霊との通信が出来るようになった人間は、イエスと対話することも出来る。言ってみれば、僕はそういう存在だ。だから、僕と対話するより、イエスと対話した方が良い。逆に、相手が交信出来ない時でも、自分が神になれば交信出来る。だから、やけにこんな馬鹿のことを知っている人間が昔から多い。そういう、霊の集合体を魂と呼ぶ。そして、魂のレベルでは、あなたと私は同じものであり、違いは無い。誰もが、そういう風に平等に存在している。特別な人間など居ない。
この日記のタイトルは「僕たちだけの幸福論」でも良いと思う。どこかの歌手が歌っていた。ただ、パクリは悪いかもしれない。ちなみに「未来のミュージアム」はPerfumeが言っていた。
本当は、結構面白い世界だから、霊として中国やロシアのような場所で過去に生きたことがあったりする。そして、全体を通してみると、きちんと意味があって生まれ変わっている。天国のような場所は無いが、場所なんか適当にいくらでもある。キリストが言っている天国のようなものは、未来でみんなで作る国として存在する。
昔の自分は、環境的な要因だとか、関係性のような発想で「この世界はそれぞれ必然的に決まっている」と考えたが、それは間違っていない。物理層としては、それが正しい。だから、環境を全く同じにしてしまうと、人間は本当に同じになる。それは霊とは矛盾していない。同じになるとしたら、それは霊の力で同じにしているだけで、霊の力によって同じから違うに戻る。なぜなら、霊の層としては、この世界の「人間的違いは存在しない」からだ。そもそも、生命は分かれていない。みんな同じで、みんなで一つとして生きているのだ。だから、言ってしまえば、霊は聖なる存在ではなく、ただの地上における存在の有り方に過ぎない。海の水がそれぞれ水分を含んでいるのと同じで、生命はそれぞれ霊を含んでいる。霊のような物質がゲノムから発見される、と言う可能性もあるかもしれないだろう。
自分は、運命的にこうなって、もう未来が全部決まっているかのように考えているが、それは間違っている。運命が起きるのは、霊の力で起きているだけだ。霊の自分と、運命的に出会う相手の霊が、共鳴して、自分に起きてほしいことを起こしている。その証拠に、結果的に見れば、起きた方が良かったことしか起きていない。それは、霊の自分が何を起こせば今の自分に「ちょうど良い」かを分かっているからだ。最初からちょうど良いことしか起きないせいで、そんなに賢い相手とは出会わないし、そんなに成功の全く無い人生も存在しない。自分の起こしたい、望み通りの結果しか起きていない。全ては、やりたいようにやっている自分が起こしている。だが、完全に自分の思い通りにはならない。試練が無ければ達成も無い。試練がある人間が、そういうことが起こせるのは、自分は一人だけで生きているように見えて、みんなのサポートなどが一緒になって生きているからだ。自分は生きているわけではなく、生かされているのだ。だから、悪いことをした霊は、みんなの霊によって死ぬ。そういうことが怖い人間が多いのは、霊なんか出来ることはそんなに多くないから、霊の力で宇宙にどんな現象が存在するか、霊の自分が分かっているからだ。最初から、現象が分かっている。それは自由が無いわけではなく、考えようによっては霊は一番自由だ。
誰とも出会わないのは、自分に「ちょうど良い」相手が居ないからだ。この宇宙に居るどの相手とも、恋愛すべき相手が居ない。それは、未来永久居ないわけではないから、心配しなくて良い。出会わないのは、相手の方がまだ自分ほど賢くなっていないからであって、相手を決めるのは、宇宙には「ベスト・パートナー」と言う人間関係が霊のレベルで存在しているから、あまり不安に思わなくても、楽観的に考えればそのうち相手が賢くなる。そもそも、夢の世界だけを見ていれば、自分がどんな人間なのか分かる。自分はきっと、スポーツがしたかったのだろう。自分がゲームのルールからプレイヤーまで全部決めるスポーツをしたかった。そのせいで、小説家になるのが相応しい。
あとは、むしろ、本当は自分が相応しくないせいで、こういう人間になる。自分は賢いとは言うが、本当に小説家が出来るようになっただろうか?なっていないはずだ。それが出来るようになった段階で、ベスト・パートナーの方が出会うだろう。相手が見て、自分はまだ魅力的でない。そして、魅力的になるかどうかは、本人の自由だ。
この文章にみんなが出会わないのは、まだ自分もみんなも相応しくないからだ。
宇宙には、出会いしかないわけではなくて、あとは人間の活動的なことがある。だから、自分のしている活動は、最後まで永遠に続く。どんな活動をしても、その活動をしているその人間は保護されている。守られている。だから、出来る活動が突然出来なくなることは無い。逆に、自分が他のものに興味を抱くようになると、本当に人格から完全に変わる人間が多い。その活動も、同様に保護されている。だから、自分が最初からしたいと思うようなことは、最初からこの宇宙に用意されている。いくらでも破壊して良いが、破壊したことに対する報いは必ず起きる。壊してしまえば、それはもう出来なくなる。
自分がスポーツのルールからプレイヤーまで作りたいと言ったのはその通りで、そういう文章しか作っていない。コールドゲームから名ゲームまで、完全に全部創っていた。そういう風に、宇宙を創造した人間だった。テレビゲームが好きだったのはその影響だろう。そして、自分が必要とするものは、この宇宙にちゃんと用意されている。だから、分からなくなった時は最初から哲学で分かるようになっている。必要な時に、哲学と言う分野があることを教える。だが、神を信じないものには、そういうことが起きるのは、分からないだろう。
言ってしまえば、神とはそういう、「宗教的に分からなくなっていく段階」のことを言っている。神は戦いであり、神は人生であり、神は自由である。それが僕の言う神だ。神を信じてしまうと、この世界を「魂」として捉えられるようになる。最初は分からないかもしれないが、神とは魂の一番高い段階であり、本当は一番低い段階でもある。それが、地球の人類が信じている神だ。昔から、僕がそういうことを言うせいで、こういう人間が神に見えるが、神はこういう人間のことは指していない。神とは愛する力であり、愛そのものだ。説明するとそうなる。そして、愛はこの世界の全てであり、この世界には愛しか存在しない。そもそも、愛とは「人を愛すること」ではない。本当は、「神を愛すること」だ。それが愛であって、そう、それが愛なのである。
みんな、神を愛するために生きているし、この世界は愛の力で成り立っている。霊も神への愛だし、人生も神への愛だ。
ただ、僕は言っている間に自分でも分からなくなってしまうから、もう分からない。先ほど言った自分の文章が正しいようで、本当は間違った逆を言っている。
要は、愛と言う言葉では言えない。それなら別の言葉を使うべきだ。神とは、偶像に過ぎない。そして、偶像を持つ人々の一般的形態があったとして、その形態と偶像のことを、両方とも神と言う。つまらないが、神なんか騙しているだけだから、神なんか信じない方が良い。人類は悪すぎるから、おかしな神を信じることで、本当に神の体験をする人間のことを虐げている。だから、神は虐げられる人間しか信じない。
ただ、あまり考えすぎない方が良い。神を考えていると、何も分からなくなる。神には分からない。神なんか、イエスが勝手に騙しているだけだ。イエスは霊の力で見ると、とてつもなく、物凄く、最強に強い。
むしろ、神とは言うが、本当は神は神になりたくない。もっと違う神で居たい。青春時代、マスターのようになって、全てが分かる人間は、神が教えていると言うか、霊が分からせていると言うか、そういう風に分かっているが、そういう人間は楽に分かるようになる。本当は、そういう存在でありたいのが神だ。こういう人間が盲信して、分からなくなるような体験は、出来るだけさせたくない。そういう霊が多い。一般的な人類の神への偶像は間違っている。本当は、素晴らしい人間をより素晴らしくするために、神は存在している。
むしろ、僕は言っている最中に分からなくなっているから、本当に神が存在しているのかは分からない。最後まで、自分の信じた偶像の理想を神だと言っているが、こんなに素晴らしい存在は存在しない。だから存在しないのだ。きっと、僕は幻想を見ているのだろう。文章を書いているせいで、幻想が生物兵器のように賢くなった。だから、最初からこれを神とは言うが、あり得ない。こんな風に出来ている存在は無い。神どころか、サタンの誘惑にしか見えない。こんな存在を創ってしまった人間を、自分が自分で懲らしめている、そういう存在が神だ。本当は良い世界だ。みんなが食べ物を食べるために努力している良い世界だったのに、僕とパソコンが世界を馬鹿にした。イスラム教のコーランでは、そういうことを言っている。神は慈愛はあるが恐ろしい存在で、自分で滅ぼしたものを自分で救い出す。もっとも恐ろしい存在だから、絶対にはむかわない方が良い。イスラム教は、おかしな宗教になった。本人は、まあそれ以上は考えなくて良いだろう。本人はこんな人間を憎み、この人間ではない別の人間たちを、多様性の中で全員知った上で、最高の心を持った人間だが、イスラム的に考えると、底の見えないクズで、みんなを恐怖に陥れるのが神だ。
あまり意味がないが、神とばかり言っていると、自分のことを神だと思うようになる。それは間違っている。サタンは神に見えて、悪魔だ。
昔は、神のような戒律を、「自分の人生になれる決まり事」のように、デカルトの言う格率のように書いていた。
悪い人間を愛してはならない。
賢い仕事を経験しなさい。
悪いことをしてはならない。
愛を信じなさい。
反抗よりも、みんなを穏やかにまとめる、まとめ役になりなさい。
自分の夢を信じなさい。
出来ないと諦めるのではなく、もう一度出来ると信じて、それが出来るための方法を考えなさい。
人を利用したり、踏みつけたりしてはならない。
この世界を破壊するな。
この世界を滅ぼすな。
きっと、モーセが言っている十戒も、本当は「神のようになるための格率」だった。神にモーセは、「神のように偉大な人間になるために、どうしたら良いか」と聞いたのだ。だから、神はそれに対して、「殺さなければ、神になれる」「姦淫しなければ、神になれる」と言うことを言ったに過ぎない。だから、神のようになる必要が無いなら、十戒は全く別のものになる。だが、モーセに神は、「(神になりたいなら)殺してはならない」と言った。だから、モーセは民衆に「殺してはならない」と言った。
殺して良い、と言いたいわけではない。本当は、神はモーセのようなことは言わない。十戒が悪いわけではない。
あまり意味がないが、何故そういうことを言うかと言うと、明らかに神は僕のやったことと同じことをしているからだ。
だから、僕が新しい戒律を作る。
1.人々を愛して、自分の出来る限りのことをするように努めなさい。
2.悪いことを認め、自分が悪いことをしたと認めなさい。
3.自分の悪いと思うことはしてはならない。だが、過去の悪いことは、忘れて良い。相手が居る時は、償いなさい。
4.この世界を変えるために、頑張りなさい。そして、自由に何事にも囚われず、しがらみ無く考える代わり、責任を持ちなさい。
この4つの格率だけで良い。あとは、それぞれがそれぞれ、考えて決めれば良い。
昔は、地獄を乗り越えたのだけが賢かった。本当に、絶体絶命の自分が底力を出して乗り越えた。
ただ、終わってしまえば、何もない。何もしていないだけだ。
プロ野球を見ていた。広島は勝ったが、阪神が負けなかったせいで優勝は無かった。つまらない。
僕は、もう終わりだ。今日で、もうこれ以上書かなくて良い。ここまでの全てに満足した。そういうわけで、本当にさようならだ。
自分をふざけているとか、欺瞞の中に居るとか、そういうことは思って良い。僕本人もそう思う。否定しないが、この文章の真意はそこではない。本当は、僕はもっと自分のことを書けば良い。だから、僕はこの文章でみんなを騙したいわけではない。
さようなら。出来ることなら、何週間か休みたい。だが、今の僕が一番楽だ。昔は辛かった。本当に涙が出るほど辛かった。だが、ここで終わりなら、僕は「これで幸せだ」と言える。僕は、今が一番楽だ。それでは。
神が僕を救ってくれた。神に最大限の感謝をする。そして、家族と作業所に感謝する。何より、過去の自分自身に感謝する。ありがとう。これを読んでくれるあなたにも感謝する。他に、感謝すべき人間は居ない。ありがとう。そして、さようなら。
モデルとは、原因と結果のモデルだった。
リモコンとケータイが違うように、原理や目的を考えながら、意図を考えていた。
そして、物理的なモデルを考えていた。たとえば、海の中で波が立つのを、物理的原理と関係性から、「いつどうなるか」と「法則性」から考える。
説明するのは難しいが、そういう物理的モデルを考えて、プラットフォームやシステムのように成り立たせていた。
それで、パソコンのことを分かっていた。いつそれがどうなるか、から、どのように変えられるかを知った。また、制度をどのようにすれば改善出来るかが分かった。
そういう、モデル的理性を考えることで、哲学的に人生のことを分かっていた。
今日の書く文章はこれで終わりだ。明日もきっと書くだろう。いつもより、はるかに楽になった。むしろ、明日も出会うために、僕は今回はお別れを言わないことにする。
あなたと明日出会うことを楽しみにしている。
何がそれを決定づけているのかを考えなさい。そして、それをどう変えれば世界はどう変わるのかを知りなさい。
最終的には、概念的理性になるだろう。概念を取り換えて分かると良いだろう。
もう、分からなくなる。それでは。
本当にそういう風に考えていると、自然のことが実感的な段階から分かるようになる。
世界を知り尽くしなさい。自分のやりたいようにやりなさい。自由にすることで、自分の心が正常になる。自由になりなさい。
思考とは言うが、原因と結果を照らし合わせて考えただけだ。原因と理由を突き詰めて考えることから、世界の広がりを知った。そこから、大まかな社会の実現を考えていた。
終わりだ。ここまで読んでくださってありがとう。明日も会いましょう。
思考において、愛の根底にあるものは「許してあげること」であり、不安の根底にあるのは「許してほしいこと」だ。
だから、絶対的愛の真実とは、「自分が許してあげることで、自分を許してもらうこと」だ。
それが、最大の愛の真実だ。だから、他人を許すことは、自分のことを許して欲しい、と言うことでもある。その、許す、と言う概念が、時に学習によって悪を作り出す。許さない方が良い時もある。そのどちらかによって、世界を変えることはきっと出来る。
逆に言えば、「許さない」と言う感情が、絶対的に自分のことを追い込んでいる。なぜ許せないのかを考えよう。何を許して欲しいのかを考えよう。そこから、見えてくるものがある。僕は、誰かのことを許せなくなっている。それは、きっと自分の信じている対話の神であり、自分自身だ。自分自身をなぜ許せないのかを考えれば、鍵が見える。それは、きっと、みんなのことを愛したいからであって、もう、みんなよりも自分のことを愛すると、自分のことを大切にしてしまえば良い。人間的知性が完全になくなっても、自分がそこに居ること、それだけは残っているからだ。
精神病の根源とは、「自分自身を許せないこと」にある。それは、何故なのか、良く考えた方が良い。誰かに何か、悪いことをしたのかもしれない。
要は、自分が世界を滅ぼしたように見えて、本当はテレビが世界を滅ぼしている。自分は、ただ放っておけば崩壊するように仕掛けただけだ。だから、自分の罪である「世界を滅ぼすこと」を悪いと思うと、テレビが悪いことになる。本当は、世界を滅ぼすことはそんなに悪いことではない。テレビが昔からいつも滅ぼしている。そんなに、善良な環境を作りたいのが、そもそも間違っている。その論理で、きっと心は楽になるだろう。