新・日記2に戻る | 2017年9月の日記に戻る

=2017-09-05=

作業所と農園に行ってきた。

人間には、人生で出来ることの上限がある。

あまり、たくさんやりすぎない方が良い。あとでやることを残さないと、何も出来なくなる。

潜在的に、人生で出来ることは決まっている。

昔は、認識や感情を実感的に具体例で分かっていた。

世界、人生、歴史のようなことを分かっていた。

青少年のように、世界を知りながら感情で分かった。

感情を物理的に考えながら、正しく言い表して分かった。

人間は、治りたいだけでは治らない。治るために色んなことをすれば治る。

昔は、考え方で分かっていた。社会を成り立たせる、自由な考え方で人間のことを分かった。

自由で分かるのは、子供だけだ。大人には、分からない。上を作れば分かる人間が多い。ある意味、自分の神を作れば分かる。

全てを経験し、高い立場で世界を見よ。

平静を保つのを止めよ。自分の本性を出して、楽にすれば良い。

自分を客観的に見つめることは大切で、他人は自分も含めて我々を我々だと思っている。自分だけ違うと思うのは思い込みだ。本当の自分のことは自分しか知らないのに、自分だけが自分のことを知らない。

社会に参加出来ることを、義務ではなく機会や権利であると考えなさい。人間は、自分の自由意志で不自由を選ぶことも出来る。

このホームページを有名にするために出来ることは何だろうか。宣伝をみんなにしてもらうことかもしれない。

他人を間違った方向に陥れるな。

良く反省し、良く悔め。

悪いことを言うな。

人の間違いを責めるな。

常に自分を責め、常に他人を許せ。

そして、思い上がらず、常に自分を客観的に見ながら、傲慢な姿勢を常に反省せよ。

昔の自分は、この世界の全ての「生起」を書いていた。太陽や植物の葉や葉緑素から自由な社会まで、あらゆることを生み出す「原理原則」や「源泉」のようなものを書いていた。

その時その時、全てを生み出していた。完全にこの宇宙の全パターンとヒストリー(歴史)を分かっていた。

無心になってそのことだけに取り組め。

間違ったことはすぐに止めよ。

いつでも自分だけは全て分かっているようであれ。

他人を責めるな。

他人にとって必要とされる存在であれ。

無償の愛に気付け。

人々は、自分に出来ることがあるのに、それに気づいていない。人生は誰かに与えてもらうものではなく、自分で創り出すものだ。

あとは、社会や人生や科学のような、「基本的考え方の網羅」のような文章が多かった。構造的に、論理的に成り立つ宇宙の真理のようなことを言っていた。

そして、自由な人生、自由な世界を切り開いて開拓していた。そういう、自由だけが羅針盤(AAA)のような文章だった。

人間の人生なんか、波長が違うだけで、ほとんど同じだ。誰もが、全てを知った後で地獄になる。そのなり方とスピードが違うだけだ。遺伝子なんてそんなものだ。

生物の参考書を読んでいる。今、遺伝子のところを読んでいる。

昔は、高校に行かずにネットを見ていたが、「学校以外の手段で知識を知ることに意味がある」と考えていた。完全に、自分なりに興味を持ったところから知っていくことで、不思議と、全て知った。知らないことなんか、今よりも少なかった。

もう全く覚えていないが、自分なりの人生で全てを完全に知った人間だった。

自分独自の哲学は、理性的な因果性、論理性、作用、適用、状態、関係から分かっていた。何が何を決め、何が何を意味しているのかを考えた。

最近は、文章に書いて、「正しいはずのことを自分の言葉にして確かめる」と言うことをやっている。それがそのまま、神との対話になった。

自分は良く神と言うが、それは神が「運命の人」だからだ。本当の愛は、恋人ではなく神である。トゥルー・ラブとは、そういうものだ。

昔は、本当にたくさんの経験をしていた。完全に分かるまで、繰り返し経験し、段階的な宇宙の「道」と「レベル」を知っていた。

良く考えると、そういう「自由な中で自分なりに知っていく経緯」のようなことを書いている。

世界を知り、未知を知り、創造性を知り、仲間との協調を知り、システムを作り、世界を改善し、世界の可能性を知り、世界で全てのことが出来るようになる。

そういう、「夢物語のような人生の段階」を書いている。本当にそういう文章だった。

あとは、歴史や社会のことを良く分かっていた。「どの社会がどの感情になるか」のようなことから、「どの社会がどの社会へと移り変わっていくか」のようなことを考えて分かっていた。

出来ることなら、色んな人の言っていることを聞こう。色んな人の意見を聞き、自分でも、他の人間の立場や目線に立って、客観的かつ視点を変えて視野を広げて考えることを目指そう。さまざまな人の意見を聞いていると、同じことを言っていることもあれば、違うことを言っていることもある。そのどちらが正しいわけでもなく、それぞれの相対的な自由があり、その中にモデルと原理が存在するのか、あるいは、社会がそうなっているだけなのか、などと言うことがきちんと分かる。

昔は、法則なのか現象なのか、と言ったことを良く考えていた。それは絶対に成り立つ法則なのか、それとも、ただその場合に成り立つ現象なのか。そこから、光や原子のようなものまで、あらゆることを現象的法則として考えられる、と言ったことを良く考えていた。

放送大学の生物学の講義を少し聞いている。講義の概略だけを見ると、高校の参考書の内容と良く似ている。先に参考書を読んだ方が良いだろう。

昔は、社会の実例を良く分かっていた。さまざまな社会の具体例を考えていた。

昔は、環境や社会の変化の可能性だけで分かっていた。最初から最後まで、それだけを考えている。

共有を信じていた。会社を作るとか、論理を作るとか、そういうことを言っていた。

そして、昔から僕は縁起(仏教で言う宇宙の因果性)のようなことを全て分かっている。何がいつ、どのように起きるのか、既に分かっている。

それは、ネットでの経験が多かった。

最近は、僕は縁起によって何でも起こせるようになった。そこまで強く信じていると、この宇宙はそういう風になる。

もう、縁起を止めた方が良い。世界を自分と同化させるのはおかしい。

あまり意味がないが、魚や鳥が大群で行動を共にするのは、きっとどれか一匹が親分になっている。そう考えると納得出来る。

他には、地域性とか、オープンとか、そういうことを言っていた。

昔は、学習と体験から、この世界で「起こり得ること」を全て予測して分かっていた。そういう風に分かるあり得ない人間だった。

今日はこれで終わりだ。またいつか、会う日まで、さようなら。

僕は、データセンターのように、最初から一つのパソコンに他の全てのパソコンが繋がって、その環境を操作するようにするとか、そういう未来のコンピュータを作れないかと思う。

さようなら。ありがとう。