新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-29=

自分の自由に出来ることから、「確かに出来る」と実感して分かっていた。

自分が出来ているように、みんなも出来る。そういう風に考えていた。

自由な中で、自由に出来るのを分かっていた。「自由に出来るのが大切」だと思っていた。

ありのまま、自分らしく生きられることから、社会の自由を分かった。

精神は、もっと足の精神を増やせば治る。上半身よりも、足の方が正常だ。足を殺すのではなく、足を増やせば良い。

作業所と農園に行ってきた。

自分のことを良い人間である、価値のある人間であると思って欲しい。それがプライドだ。

自分には、もう出来ない。みんなには勝てない。それを言うことで、昔僕らが勝ったように、みんなが勝つのを望む。

昔のテレビが、今の僕だ。

みんなを馬鹿と思うと、みんなのことが分かる。

みんなを決して馬鹿でないと思うと、昔の自分のことが分かる。

僕はみんなを許す。だから、みんなも僕を許して欲しい。

同じで治らないなら、逆をすれば良い。

自分の中の子供を殺すと楽になる。

自分は、もう一度馬鹿になって分からなくなると出来る。

現状分析をすること。自分は全て分かっている。

自分の立ち位置をしっかりと持つこと。

環境や自由を人間にしていた。愛から自由と価値観が生まれる。

昔は、共同体主義が好きだった。共同体と共有が好きだった。

自分の過去に分かったことを全部書いて、全てを悟らせる文章を書いていた。

善とは感謝されることを見返りを求めずすることだ。だから、感謝する気持ちを忘れるな。

自発的な手助けをする人間は、正しい道を進むことが出来る。

何が本当に自由なのか考えなさい。何が許されるのかを知りなさい。

おせっかいにならず、自分のことを考えること。自分のことも守れない人間に他人は守れない。ただ、教えてもらうことは悪いことではない。

心の中からその感情が生まれることを実感し、人々と共有することで、同じ問題を共有し、解決することが出来る。

地球の生物は、この文章から生まれたのだ。この文章のような、本当に緻密な構造と成長の積み重ねから生まれた。

僕は自由が好きだ。本当に、みんなが自由であること、人間的であること、自分だけではなく他人のことも見られる余裕があることが、一番大切だと思う。

言っていることが矛盾しているかもしれないが、自分のことを棚上げして他人や世界のことを見るのは、悪いことではない。それによって心が晴れるかもしれないし、この世界のことを客観的に、今まで無かったように見るための「新しい世界を知る体験」をすることが出来る。

自由な発想で、この世界のことを自由に考えなさい。やりたいことを思う存分やって、考えたいことをどんどん作っていきなさい。

最後に、あなたは勝利して、世界を救う。だが、それは逆に世界を滅ぼし、地獄へと堕ちるのだ。後悔の涙は、そこに一滴も存在しない。

文章は、あとは、人生経験のようなことを言っていた。僕の書いた詩集のようだ。楽しさから社会の導きまで、あらゆることを全て書いていた。

まるでソクラテスやハイデガーのように、自分の人生から宇宙の真理を分かっていた。

弱者の気持ちに立つことで、本当の強者になれる。

差別しないことが、結果的に自分の力を強くする。

踏みにじるようなことをしなければ、きっと自分の心は純粋でいられる。

平和とは、強者と弱者の両方の協力がなければ、成り立たない。

人を足蹴にするな。相手の権利を尊重する気持ちを持て。

善をするなら、ただの善ではなく、相手に対して自分の理想を与え、そして自分と同じ理想を持って、同じように努力し、同じになれるような、平等な善を為せ。

過去のことを問題にするな。問題は常に今である。

きちんと理性的に考えれば、道徳や善悪はその後についてくる。

経験を与えることが、逆に自分の経験を増やす。

相手を賢くさせることが、そのまま自分の知性を創り出す。知性とは、数学ではない。知性とは宇宙の概念であり、自分で創り出す宝である。

人々を自分の勝手な意見で決めつける前に、相手の意見を聞くこと。それも、相手の意志を尊重して、こちらが返すことだ。

世界を全否定するよりも大切なことは、自分と相手のことを愛することだ。

善をしていれば、仲間や協力者は自然とついてくる。

自分勝手なことをする前に、周りと協力し、相談せよ。

間違った考え方とは、「世界を滅ぼすこと」と「自分にしか分からなくすること」と「相手の気持ちを考えないこと」と「自分を全否定すること」だ。

世界を繁栄させ、自分と意志の繋がる協力者を得、相手の気持ちを聞き、自分を全肯定すれば、すぐに涅槃へと根差して永久の幸福を実現することが出来る。

願うだけでは夢は叶わない。望むだけでは相手には伝わらない。相手にお願いし、それをするためにどんな方法があるのかを良く考えれば、無明の地獄から脱出出来る。

無明の地獄の問題とは、「間違ったことを信じること」と「常に自分が間違っていると思うのにそれをしてしまうこと」だ。

その理由とは、全て、この世界の時代全体が間違っていることにある。特に、みんなの理想が間違っている。

ただ、そんなにぶっ飛んだことを言わなくても分かるのは、「それを出来ると思う自分の立ち位置や立場そのものが間違っていること」だ。

だから、立場を変えて考えれば良い。無明の地獄は、自分がおかしく上に居るように見えて、そこが一番宇宙で低い場所なのが分かっていない。

高い、低い、とは、単に出来ることや権力の問題ではない。自分をどういう人間にさせるか、と言う、創造の問題なのだ。

だから、もっと違った自分へ創造の方向を向けたい、と願いなさい。もっと違ったことがやりたかったと悔やみなさい。

最初から、そうした間違った自由な理想を信じているから、そういう風になるのだ。自由は決して間違いではないが、自由の行き着く先は、どうしても権力である。

自らの権力や権利を抑え、自分から捨てることも、悪いことではない。だが、無明の地獄はそれでは治らない。権力の中で最高のことをしたいなら、自分に対して「絶対にやらなければならない義務や責務」を感じることになる。だが、そもそもそんな責務を感じながらその仕事をやる必要は無かったはずだ。

きっと、彼は宇宙における良い方法を知らないのだ。彼は、諦めることを知らない。負けることを知らない。本当は、宇宙に対して「僕はこういう人間になる」と宣言すれば良い。

だが、それも無明の地獄を打ち消すことは出来ない。そもそも、無明の地獄になることは最初から決まっているのだ。どんな対処療法も、彼の頭や心を治すことは出来ないだろう。

相手の言葉を聞くことを忘れた人間が、もう一度光を見ることは無い。

暗闇の中を彷徨い続けていれば、いつか誰かの言葉でそこから帰ることが出来る。希望を忘れなければ、いつかはきっとその世界は治るだろう。

みんなの意見を知ることで、自然に自分の意見を言えるようになる。聞くことに長けた人間は、同時に言うことにも長けるようになる。

だが、自分の意見を誇張する人間は、基本的な言語すら分からなくなる。数学的な考え方を忘れ、自分の過去のことを思い出せなくなり、自由を失い、他人との協力が出来なくなる。そのうち、何も出来なくなる。それが、最終的な人間の到達する境地だ。だが、その境地は悪いことばかりではない。むしろ、素晴らしい最高の境地になるだろう。自分の望んでいたことが自分の望むように、自分の成したことだけで叶う。分からなくなることを受け入れることで、一般的な普通の人間よりも多くを知る人間になる。地獄の苦しみの経験が、未来を楽にする。人々を愛する気持ちは、完全に「無償の愛」によって世界の全てを変えられるような存在になる。それが、神の用意したあなたへのプレゼントだ。

本当は、昔の方が普通の人生だった。誠(まこと)の心を持って、菩薩(ぼさつ)のように世界を愛していた。あれが一般的な普通の人間だ。いきなり大人の中に入って、何でも自分なりに分かって、全てを知ったようで何も知らなかった。だが、キリストのように分かっていた。神はそういう人間が好きだ。だが、そういう人間は、すぐに馬鹿になって地獄になる。分かる人間ほど、人間は分からない人間になる。楽を目指せば目指すほど辛くなる。だが、その中でこの世界を全て愛したいと思った、救いたいと思った、絶対にやってやると思った、その気持ちと情熱は、人生の中で二度と同じように味わうことの出来ない、最高の人生の愛を感じることが出来るだろう。それも、神の秘密の暗号のようなものだ。神の暗号を解読出来る人間は少ない。解読した人間ほど、地獄に陥る。本当は、悪い人間にしか解読出来ないようにしているだけだ。

決して、悪人が賢いわけではない。悪人とは言うが、悪人も普通の人間であって、色んな悪を何度かした方が人間は善を為すことが出来るようになる。恥ずかしいことを経験することで、愛を知るのと良く似ている。悪いことを一度経験することで、悪いことが何であるかを知った上で、大人の知性で悪をコントロールすることが出来る。だから、本当は何もしない善人には意味がない。それはただの子供だ。だが、宇宙的な側面から見て、絶対に悪い人間が賢いわけではなく、ただ時代そのものが全部馬鹿である時には、悪人の方が賢いこともある、と言った程度の意味なのだ。

神は宇宙の何かの構成要素であって、神に聞くとそれが良いものなのか悪いものなのかが分かる。0と1で成功と失敗を判断するC言語の関数のようなものだと考えれば良い。神は生きていないが、対話することは出来る。むしろ、時には人間として現れることもある。それが、神だ。

そういうわけで、悪をしてはならないのはむしろ、正しい。悪の極みを尽くした人間は、たとえ賢くても、それは馬鹿だ。それは本当に、あとで後悔する事態を引き起こす。

仏教が必ずしも正しいわけではない。輪廻転生が存在しないように、縁起や因果応報は存在しない。悪い人間が支配し、贅沢の極みを行うことはある。だが、それは本当に悪人だけが悪いのではなく、時代や世界全体も低いレベルにある。低いレベルの世界の現状の結果、そうした悪人がのさばっている。すべきことは悪人を殺すことではなく、時代をもっと進歩させることだ。そのために、誰かが救世主となること、それが本当の神の教えるメシアの考え方なのだと、僕は思っている。メシアは本来は一人ではなく、誰でもなれる存在なのだ。だから、キリストはメシアになっているが、そういう理由でキリストは終末が分かっている。世界の最後に訪れる終末とは、自分の過去のことを言っているのがイエスだ。それがそのまま、世界の終末にも成り立つことをイエスは言っている。

もう一度言っておくが、悪人を良いとは言っていない。むしろ、本当に善人でなければ、日本語すら分からなくなるのが人間だ。善を行うことでしか、人は記憶や人格を維持することすら出来ないのだ。善を行えば、身分や職業や年齢に関係なく、誰でも本当に正しい自分だけの道を生きることが出来るだろう。それを一生懸命生きること、そして全てを肯定し、受け入れる気持ちを持つことによって、あらゆるものに対する仏の慈悲が生まれ、自分の行う可能性の中での善の行いが、自分の人格としての善を証明し、確かな「価値」を一つ一つの「一瞬の可能性」の中で生み出すことが出来る。それは、きっと算数のドリルを以前より早いスピードで解くのと同じであり、プラモデルを作るだけではなく設計図を自分で書いてみたりすることと同じだ。自分の出来ることを証明し、実感し、確かめることで、人は可能性を常に作り出している。そこから、本当の善の行いが生まれるのである。そこから、正しい思考を積み上げることで、人間は神の方角に向かうことが出来る。

昔は、経験的に分かることを良く書いていた。僕がこの前書いた、「ロシアは最後に民主主義を経験したから、最高の民主主義国家になる」と言うのがそうだ。すでに、たくさんの民主主義国家が生まれたし、帝国主義と共産主義を経験した上で、最後に民主主義を実現した。色んなことを既に実例として知っているから、本当は素晴らしい国になれるだけの潜在的可能性がある。昔から、僕はそういうことを言っていた。だから、きっとアメリカやイギリスが社会主義を経験すれば、良い国にはなるだろう。むしろ、ロシアとアメリカには、民主主義でも社会主義でもない、本当に未来の主義を実現してほしいと思う。それをトランプが出来る可能性は無くは無い。

国家だけではなく、環境や経験に対してもそういうことを言う。環境は、モデルを作ってさまざまな実例を経験的に実現していた。

あとは、ヘーゲルの書いているような段階的な本質のようなことを言う。いつもの文章は、それくらいしか書いていない。本質と言うが、ただの学習の本質を段階的に追って書いているだけだ。学習と段階だけを全部書いていた。社会的自由のようなことを言って、詳細まで宇宙を創っていた。

社会構造のような文章を書いていた。経験的で抽象的で相対的な、世界の構造的モデルのような文章から、環境、自由、科学、自由な社会、そして考え方とプロセスを書いていた。

人間に、普通趣味ぐらいある。僕は「趣味大学」と言うものを作って、趣味をする大学のような学校があっても良いと思う。

ヘーゲルの精神現象学のような、「自己意識の成長」と言った文章を良く書いていた。自我が成長し、環境を経験し、人と関わり合い、社会の実現を目指していく、そういう意識の文章を書いていた。