新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-28=

昔は、社会のことを知った上で、救世主のように分かっていた。

アニメーターやプログラマのような職業を分かって、資本主義の裏側のようなものを知った。

ネットで社会のことを知りながら、色んなことを経験し、全てが解決出来るようになった。

論理的なモデルのようなことを作って考えていた。

モデルは、認識、言語、関係、目的、手段、基盤、環境、ルール、秩序のように考える。

特に、ルールや秩序を作って、それと現実の社会を照らし合わせて考えることが多かった。

生きながら少しずつ死んでいくと、もう一度子供から人生が出来る。

永遠に生きても、それなら楽しい。

昔は、(政治的な内容になるかもしれないが)ありえない国家のようなことを良く考えていた。

ツバルのような太平洋の島国の連邦とか、都会的なロシアとか、ロシアから独立するシベリア王国とか、そういうことを考えた。

昔は、仮定と成立のような発想法の考え方を良く書いていた。

まず、仮定。

それは、そうだとしたらどうなるか?

それは、そうだとしたら何が言えるか?

これは、純粋に数学である。抽象的な原理と条件、成立と具体的な実例や事実を考えられる。

次に、結論。

それは、何を持ってそうなるか?

それは、何を持ってそうだと言えるか?

これは、物理学や心理学になってくる。証明し、推論し、人に説明出来るようにし、実際の環境を分析し、知を一つ一つ正しいものか検証する。

そういう、発想法のようなことを良く考えていた。

むしろ、自由の方が良い。ネットを自由だと思わないと、自由が良く見える。

自由とは、自由な中で勝つことでもあるが、本当は、全員を平等に自由にし、相手の自由を自分が奪わないことのはずだ。

昔は、相対的な自由のような、青い思想の文章を書いていたが、本当は、相対的な平等が正しい。

相対的な自由と言ってしまうと、みんなの中で勝ちあがるようになってしまう。

相対的な平等を信じて、自分から自由を捨て、相手を自由にしてあげることで、結果的には自分も自由になる。

そういう、相対的な平等が良い。平等には互いに愛する精神がある。

自由も悪くは無い。支配したりせず、互いに必要なものを与えあい、所有を誰にも許し、個性と多様性を尊重するのは美しい。

ロシアのような国も、自由の無い平等をしたから、結果的に不平等になった。自由も含めて相対的な平等とすれば、良い国になるだろう。

僕は、自由が好きだ。日本には、相手のことを自分と同じように愛した上での、相対的な平等を実現してほしい。

それぞれが出来ることを許すことは、決して悪いことではない。だが、必要なのは、相手の自由を阻害しない範囲で、平等に全員の自由を認めることだ。

仮定と結論を良く考えると、数学が出来る。中学校二年ぐらいの証明と計算だと思えば良い。そこから、この世界と人生の全ては分かる。

あなたがやりたいことをやりなさい。

そのように、相手の人格と意志を尊重し、当たり前に考えていると、脳が「分かる脳」になる。それで、きちんと賢くなる。

あなたがやりたいようにやれば良い。

みんなにもそれを尊重してほしい。

人々に、攻撃すること以外での攻撃の方法を取ってほしい。

みんなで同じものを信じることから、自由と平等は生まれる。

自分の所有権を否定してほしい。

権利を放棄し、国民に委ねてほしい。

全員の意見を尊重してほしい。

自分の自由意志は、常に全員に対するものであってほしい。

相対的な事実は、万人に共通するものから、自由で平等な結論を導き出してほしい。

自由でないもの、平等でないものは、間違っていると断じてほしい。

あなたが自由であるように、誰もが自由であることを、全員に平等に保障するような国の体制を作ってほしい。

所有すると言う権利を、もっと違った高度な所有の形態に置き換えてほしい。

共同体は、それぞれが独立出来るようにしてほしい。

助け合いは、自由な自発的努力から、それぞれのやりたいように出来るようにしてほしい。

そして、平等を信じてほしい。それによって、自由を勝ち取ってほしい。

互いに許し合い、認め合い、助け合うことで、戦いは無くなり、思いやりの世界が築けて、一歩でも理想の社会へと近づける。

平和とは、自由な中で権利を放棄することだ。

弱者や障害者も個性であると認めることで、逆に教えてもらうことの多い存在になる。

失敗したものに、もう一度チャンスを与えよ。

成功して終わるのではなく、何度でもスタートラインに立て。

苦しいことを乗り越えた人間には、苦しいことの無かった人間よりも充実した人生と言う幸福を手にすることが出来る。

思いやりとは、平和、平等、助け合い、自然、自由、友愛、そして互いのことを愛し、愛されることである。

むしろ、綺麗事で良い。平等を信じないと、人々は地獄に堕ち、苦しみに陥り、何も分からなくなり、解決の見えない迷宮に迷ってしまう。

迷いのない人間になるためには、善を信じて善を行い、善悪と言う名の知識を知って、無知を克服することである。

最初から良い人間ではなくても良い。人間は、経験的に分かって気付いていくことから、自然に善良な人間へと変わっていく。

悪い人間は、経験をきちんと見ていない。自らの経験をきちんと見直す気持ちを持てば、それだけで地獄は無くなり、無知や無明も無くなる。

自らの経験をきちんと見て、反省しなさい。自分を偉大だと思う人間ほど、本当の自分のことを知らない。

善悪を知り、社会の常識を知り、その常識の意味を知り、それがそうである本当の理由を知るために、たくさんの人間と交流し、健全な形で交わることの出来るような、そうした場所を与え、作り、得、そして大切にしなさい。

人々の居る環境を破壊するな。人々のことを本当に思いやった上で、環境を自身の力で良いものに出来るような、そうした「愛の機会」を大切にしなさい。

全ての環境は、結果であると同時に機会であり、みんなで変えることが出来る。

だが、独りでは他人をコントロールすることは出来ない。究極的には、自分は自分独りしかコントロール出来ない。それなら、絶対に悪いことをせず、自分の中で一番正しいことを常に思い、行動し、実践するような、そういう人間になりなさい。

宗教を信じるなと言うわけではない。逆に、宗教的な神や仏は、今頑張っている自分のことをきちんと見ていてくれている。逆に、悪い人間には悪いことしか起きない。

何を頑張っていて、何を分かってほしいのか、何をしたくて伝えたいのか、神はきちんと分かっている。最初から、神はそういう存在だ。自分が神だと言ってもそんなにおかしくはない。全ては、自分がしているように思えるものだ。

全ては、自分にとって良いものばかりが集まってくる。人間は磁石のようなもので、賢い人間は、最初から磁石の使い方が上手いのだ。

ただ、最初から人間が全て決まっている、と言うわけではなく、だからと言って自由なわけでもなく、良い人間は自然にどんどん賢い人間になっていく。賢いものを良い人間だと思わない人間は、逆にどんどん辛くなっていくだろう。それは自由だと言うが、自由ではなく、不自由でもなく、最終的にはこの世の全てが善悪だと言えるはずだ。

本当に分かった人間は、暗闇の中に自らの光り輝く道を創り出す。だから、何も得るものや得られるものが無い場合でも、善人なら、この世界の全てを知ることが出来る。

本当のこの宇宙の宝とは、物質でも、幸福でも、金銭でも、欲でも恋愛でもない。本当に正しい宝は、唯一、「思考」である。

そして、思考の正しい使い方は二つに一つであって、一つは、数学的に、客観視したり、主観視したり、完全に絶対的に考えるようにすること。もう一つは、神や阿弥陀仏のようなものに、思考を委ねること。どちらかが出来る人間が、この宇宙の全てが分かる。基本的にはそれだけだが、本当はそれをするためにこの世界のあらゆる存在や経験がある。

僕は、数学よりも宗教の方が正しいと言いたいわけではない。数学も、本当に賢い人間の本来の理性であって、昔の僕は積み重ねと「全ての場合を包括する命題」を作って分かっていた。メタ思考と言っていた。だが、必ずしも宗教が間違っているわけでもない。宗教は、全て分かった数学的な精神理性を「己の神」として、その己の神に「導かれる」と言う体験をする。その中で、数学のせいで地獄になっている部分が徐々に明らかになり、神によって人間は救われる。だから、ある意味「数学は地獄であると同時に神を創り出して己を救う」と言うものであると言える。数学は人格的理性を救う。それが、神が人間を救う、と言うことの意味だ。

20代で賢い人間なら、きっと分かるだろう。ティーンエイジャー(10代の子供)には分からない。

本当に賢い人間は、神を創り出す。その時、神は奇跡を起こしてくれる。全く不可能に思えるものが、本当に可能となるのだ。絶対精神は、宇宙の法則を捻じ曲げる。偉大な神は、偉大な人生を最初から創造している。全知全能の絶対知は、人々全員を救い、全員を天国に導く。

ただ考えることだけでは、人間は分からない。経験すること。それも、他人には出来ないような経験をすること。どんなに不純で悪い体験でも良い。その悪い体験を、最後まで経験しなさい。そこに、神は愛を見出す。地獄に堕ちるとは言うが、地獄もきちんと存在する。地獄と言うよりは、餓鬼だ。餓鬼をきちんと経験することで、人間は自分なりの自我を持って生きることが出来る。それを、人は青春と言う。青春時代に他人に経験出来ないようなことを経験すると、その後の人生は全く良いことが何一つ起こらなくても、その青春時代の経験だけで、楽しく生きることが出来る。

だが、青春時代と同じことは二度は出来ない。健全であると同時に、他人に出来ないことをしなさい。そして、たくさんの人と交わり、たくさんのことを考えなさい。

このまま、相対的な平等と神を信じると、ハイデガーやサルトルのような哲学者が出来るようになる。

昔、もう既にやった、とは言うが、もう一度ヒュームのように考えれば、すぐにきちんと分かる。きちんと自然法則や習慣から因果性を考えれば良い。

昔は、哲学者、と言うよりは、人生科学者だ。

あとは、神は信じなくて良い。神は、自分と同じことを自分にやっているだけだから、神に任せていると何も分からなくなって何も無くなってしまう。ただ、神の言うことは信じた方が良い。自分と同じように、神も人生の中で絶対に一番正しいことを言っている。分からなくても、いつまでも付き合ってくれる。だから、信じるなら信じるのも悪くは無い。

自分の問題は、宗教は善ではないのが分かっていない。時に、宗教は悪となることも多い。

友愛や助け合いを信じることで、人間としてどのように生きるべきなのかが分かる。経験から、何が良いことなのかを実感で考えられる。理性で、人間が何を思い込んでいるのか、どうすれば正しいことが分かるのか、洞察力や想像力や判断力はどのように使うべきなのかが分かる。

そういう風に分かってしまうと、むしろ、既存の宗教を信じる意味は無い。自分から自分の宗教を作って、自らの哲学を作れば良い。それは自由で、制限が全くない。だが、良いことばかりではなく、他人とは違う道を歩むことになる。そこには、聡明さや知性はあるかもしれないが、他人と同じ楽な人生は送れなくなるだろう。それも受け入れることで、逆に他人がどのように生きていて、何が間違っているのか、自分の力で考えて、どこをどうすれば良い社会になるのか、と言う理想は、自らの力で導き出した推論的道徳の考え方で、分かって知っていくことが出来ると思う。(何を言っているのか、あやふやで良く分からない文章になった。)

要は、他人より分かることも時に優れているが、みんな同じであることも時に優れている。他人と違うことから、理想の実現は分かるかもしれない。どうすれば良い社会になるかは、道徳を推論で導くことによって、きっとそうなるだろう信念を持つことが出来る。

人間は、「何も分からない暗闇の中でも、一定の指針を持って確かに分かる手段を持つ」ことで分かることが出来る。昔は、それはネットと自由だった。今は、それが神と文章になった。何かを分かるために、たくさんのことは必要ではない。自分の確かに信じられる、「分かる手段」を持てば良い。その実際的なものとして、「自由」と言う考え方は良いものになるだろう。だが、本当は「あわれみ」や「平等」や「所有」からも分かることが出来る。それらは、それぞれ違うように見えて、神が見ると、どれも全く同じだ。

自由を信じると、ありもしない何もない場所や状態に意味を見出し、可能でないことをどのようにすれば可能となるかが分かるようになる。また、公開性を信じることで、自由は拡大していく。そして、それぞれが出来るようにすることから、価値観の実現が分かる。最終的には、自由な社会を完全に自分の中で創り出す、「創造する」ことが出来るようになる。

だが、むしろ、みんなは「あわれみ」を信じると良いだろう。こんな人間を、本当にかわいそうだと思ってしまえば良い。可哀想と思うことは、悪いことではない。だが、その時その人間に対する、愛やこみあげてくる感情を信じることは出来る。「希望」を信じても良いだろう。希望は、絶対に無くならない、永遠の概念だ。

僕が思うに、自由の考え方の矛盾とは、本当に自由でないものを自由だと思っていることだ。テレビを自由だと言うが、テレビを見たくない人のことを考えていない。ネットを自由だと言うが、ネットのことを知りたくない人間のことを考えていない。いつも多数派で、少数派を顧みず全員を統一してしまう。自由の悪はそこにある。ネットやテレビに支配されたくない人間たちのことを考えていない。だから、個人の自由を完全に認めるようにするか、あるいは、みんなを同じにすることでしか、自由は解決しない。テレビを完全にスマホで見るようにすれば、みんなで見なくても良いことになるだろう。だが、それはある意味、人間の社会性と言うものを真っ向から完全に全否定している。だから、社会性を望むのであれば、自由は制限しなければならない。「ルールをみんなで作れば良い」と言うかもしれないが、そこにも多数決の魔物が存在して、少数派は否定されてしまう。少数派の住む世界は無くなり、世界は分裂したのちにたった一つの普通のものに統一されてしまうのだ。それが悪いと言いたいわけではないが。

ある意味、共同体や社会を出来るだけ自由にすることは、何も悪いことではない。社会を自由にしながら多数決で決めるのは当たり前だ。それも、正しい。

この世界で、完全な自由を実現することは不可能だ。だから、きっと選択肢を金で選び、社会を多数決で決めるのは、悪いことではない。逆に、誰か一人の思い込みで、支配されたり、必要な変化が起きないことよりは、ずっと良い。だから、僕は自由は好きだが、自由を自由と思わない。ネットは自由でない。パソコンによる人間社会の独占的支配を行っているのがネットであって、人々は間違った世界観に支配され、パソコンから逃げ出したくても逃げ出せないようにされている。

ただ、パソコンが悪いわけでもない。だが、パソコンは自由の間違った例としては、最たるものだ。

ただ、パソコンが悪いからと言って、良い解決策があるわけでもない。パソコンはもう普及してしまった。今更インターネットの無い世界は考えられない。嫌でも使うしかない。

僕は、そんなにパソコンが嫌いなわけでもない。イラレは好きだし、Linuxも好きだ。Windowsも毎日使っている。だから、そんなに批判しても良いことは無い。むしろ、昔から僕はパソコンが得意で、他人よりも色んな高度なことが分かっている。パソコンは魅力的で可能性のある機械だが、まだきちんと社会へ責任もって定着しているかと言えば、まだまだだと言える。特に、サイバー攻撃がどうにかしてやむためには、誰かがマイクロソフトに入って、本当にバグの無いOSにするしかないだろう。そのために、今のマイクロソフトが頑張ることは出来る。セキュリティの本当に高いOSにするために、MSには本当に頑張ってほしい。そうでなければ、金を儲ける意味は無いだろう。

書くのを止める止めると言っても止めないように、最近の僕は書いた方が楽な人間になっている。だから、明日もきっと書くだろう。

そういうわけで、今日はこれで終わりにする。ありがとう、そして、さようなら。