新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-27=

農園と英会話教室に行ってきた。

自分は、もう書かない、もう書かない、と思うのだが、書く以外何も頑張っていないので、また書くことに戻ってしまう。

ただ、そろそろ本当に終わりにしないといけないと思う。書くことによって、疲れすぎて、作業所でのデザインの仕事が出来ないからだ。

僕の作ったロボットを、すでにQiitaで批判されているように、ランダムだからロボットではない、と思う人が居るかもしれない。

だが、あれはランダムに思考するロボットだ。だから、ランダムに思考する「思考だけのロボット」を作ったと思えば、それで良いのではないか、と僕は思っている。

ただし、本当はランダムにはしたくない。経験から善悪を判断して学習し、思考を覚えて論理的に考え、見たものや聞いたものを判断するようなロボットを作りたい。

ただ、僕の今の技術レベルでは、それを簡単に作ることは難しい。

ロボットの肉体には、ドローンを採用したい。空を飛ぶ新しい生命だ。飛ぶ肉体にすることで、面倒な二足歩行のようなことは実現しなくても自由に動くことが出来る。

小説は、最初からあらすじや展開を作家が知っていれば、書ける。すぐに書くことは難しいが、明らかに誰でも書ける。

僕の小説に新しい展開を書こうかと思ったが、すぐには思いつかなかった。

僕の哲学者のページが寂しいので、哲学者の著作の引用を載せようかと思ったのだが、僕はデカルトぐらいしか原著をまともに読んだ哲学者が居ないので、それは出来ない。

もっと別の入門本なら、引用出来るかもしれないが、それはする意味がない。

僕は、多重人格にはなっていないものの、場所や環境によって自分の性格が変わる。作業所がガブリエル、文章がミカエル、家族と接する時がラファエルだ。

文章を書くと、辛い人格になる。

環境が変わったりした時に、視点がどのように変わるのか、のようなことを成り立たせて分かっていた。社会がその時どんな社会からどんな社会になるかを考えた。

そして、何もない、何もしないを経験することは、悪いことではない。人間は、何もしないだけをたくさん経験していると、社会や世界の変化から分かるようになる。

発想のようなことを書いていた。森羅万象について因果性と変化と基盤とプロセスを考えた文章を書いていた。

人間は、一通り全体的なことを知ってしまえば分かる。この世界を一通り分かってしまうと、辛い状況になったとしても、諦めずに希望を持つことが出来る。

少しずつ死んでいくこと。人間とは、少しずつ死んで成長していく生命だ。

それで、予定調和が起きると賢い。

少しずつ死んでいくと、子供が大人になって、辛い精神の病気が治る。怖くない、楽な心になる。

学校は悪い。学校は、死んでいくと馬鹿になるのが分かっていない。

ハイデガーも、人生を死んでいくだけだと言っている。

昔は、物理的探究のような文章を書いていた。

原子、次元、エネルギーなど、宇宙の現象を物理的に把握し、考えて分かる。

そういう、物理的探究で、宇宙のことを分かっていた。また、創造していた。

そういうわけで、今日でもうこの文章は終わりだ。

簡単にお別れを言う。ありがとう。そして、さようなら。もう、僕には会えないだろう。

僕は、これでも、みんなのことを賢くしたつもりだ。

本当にお別れだ。さようなら。

昔の自分は、人生で分かっていた。神のように、慈愛があって、全て分かっていて、全て出来る人間だった。

これで、もうみんなも治るだろう。もう一つステップを作れば治る。それで、お別れだ。

昔の自分は、頭脳と人生を実際的に分かる、ロボットのような人間だ。

さようなら。これ以降、僕は存在するだけで影響を与えているだろう。だが、本当の僕は別の人間になっているはずだ。いつもの僕と同じだ。では、さようなら。

昔は、論理学と意識と実感で、宇宙の全体意識や人生の全部の経験のようなことを分かっていた。

今、きっと世界が治る。それで、僕の役目は終わりだ。

宇宙と社会の、全意識と全経験を知っていた。

脳が辛いのは、精神がねじれているだけだから、ひも解いて解きほぐせばすぐに治る。腹も同じだ。

心が楽になったから、僕はもう生きる。みんなも、楽になってから生きてほしい。生きることによって、楽になる。

人間の頭脳は、分かってしまえば分かる。ロボットを作りたいなら、そこを作らなければならないだろう。

みんな、生きよ。生きて、少しずつ死んでいけ。

人生を考えると、再考にも段階があって、まず、新しい世界を知ることによる再考、次に、成長し、理想を実現することによる再考、そして、辛くなって何も出来なくなってからの再考、最後に、あらゆる全てを知って絶対知を知った上での再考がある。

子供時代のことを再考することで、この世界が見えてくる。

実践し、高みから見下ろせば、社会の全ては実現出来る。夢を追いかけて、努力し、振り返れば、虹はもうそこにある。

あとは、ネットを書いていない。社会のことを知って、自分なりの「自我」が芽生える「真実の体験」をしていた。そして、実践とシステムの理解から、理性ある人間になった。友人を楽しませることの出来る、自由な友愛のある人間だった。

そろそろ、本当に書いていないことが無い。もう終わりにする。楽しかった。本当にさようなら。

昔は、独りで自分のやりたいことを好きにやりたかった代わり、Linuxのことを本気でやっていた。最近も、文章を書いているが、これは逆に絶対にしなければならないとしてやっている。自由は、そこが間違っている。自由が無い人間の方が、本当に偉大なことが出来る。

終わりにする。永久に、さようならだ。僕の文章は残っても、それはもう僕ではない。この人間は、僕ではなく、在導万創だ。では、さようなら。

あとは、制度は経験であり、みんなで変えるべきだとか、積み重ねは上からすることも出来るとか、パソコンのようなこととか、色々と言っていたが、そんなことが溢れだす代わり、本当のことが何も書けていない。みんなも、これを読んで、色んな言いたいことが溢れだすかもしれないが、本当の僕のことは誰にも分からないだろう。何を考えているのか気になるかもしれないが、暗闇の中で暗中模索をして、ときたま悟って分かっているだけであって、あとの日常は、いつも切迫していて、頭は休まず動く、そんな地獄を生きている。それが、僕の人生だった。終わりにしよう。

変化の可能性を高めるべきだとか、色んな自由なことを言っていたが、僕は今、自由と言う思想はそんなに好きじゃない。だから、いつも一番自分の逆をしている。この文章を信じると、昔の僕のような人間になるが、今の僕にはならない。それどころか、今の僕の逆になって、今の僕のようなまともなことが分からなくなる。そこがおかしいのが、この「自分の分かりたくないものを分かる文章」だ。

今の僕は、神とは言うが、虚言しか話していない。全部虚言を言って、頭の中で嘘の答えを探り出して信じている。そのせいで、何も分からない。

どうでも良いから、終わりにしよう。本当に、愛をこめて、さようなら。