新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-23=

作業所に行ってきた。今日はピアノがある。

ルネサンスのような歴史を書いていた。

繁栄し、栄えた国が、滅び、またルネサンスのように復活して、偉大な国になる。

ギリシャのような知性の集結や、ローマのような知識の拡散を、環境的に考えていた。

国と国がどのように関わるか、考えていた。鎖国など。

アメリカの言う、戦争を終わらせるために原爆を落としたとは、日本のインパール戦のようなことを言っている。

ユダヤ人の聖書は、悪い王を倒したいだけだ。だから、あんなに神を信じない人間を懲らしめる。

間違った理由を信じていると、分からなくなる。

文章を書くのは間違っていないし、自分も悪くない。

メタは賢い。昔は、全てを包括するメタ思考をしていた。

止まった世界を見ていると、頭の中の機械が壊れて、見たものが怖いものになるのが治る。意識が高まって、精神分裂が治る。

常に動いているのは、テレビが悪い。

自分から考え、自分から行動せよ。

知識は力だ。知れば自由になる。知ると、知らない時よりも新しく知ったことが分かる。そこを良く考えると人間の学習が分かる。

資本主義の問題とは搾取と生産様式だが、搾取を容認して商売が拡大するのと、搾取を否定して商売が縮小するのでは、前者の方が良かった。それだけだ。

搾取が悪いのは、不平等だからだ。頑張っている労働者階級に対して、搾取している生産決定者階級が何もしていない。

ただ、マルクスは賢くない。それぞれが能動的にする意欲とベネフィットが無ければ、積極的にそれをさせることは出来ない。

ここで言う、意欲はさまざまなことに言える。労働者が労働して対価を得られることが意欲になることもあれば、生産者が積極的に投資して儲けられることも意欲であり、ヤフオクでものを売るのも、競争の中で値下げをするのも、全てが意欲である。

僕は、金銭的意欲だけではなく、制度的意欲や環境的意欲と言うのも考えられると思う。

意欲は活動であると同時に、環境や必然的因果性に支配される。そこを考えると、それは既に心理学の領域になっていくだろう。

昔はただ、どんな社会が成り立つかを考えていただけだ。

子供たちの環境を良くしたかった。いじめのない世界になってほしかった。

ある意味考えすぎのようなところまで考えて、経済学を作っていた。

価値観とアイデンティティや自分らしさを得られるように、どのような社会にしていくべきかを考えて、ネットで経験して分かっていた。

自分のその何かが成り立つためには、他人に与えるためにはどのようにする必要があるか、逆に他人が成り立つために自分が何を出来るかを考えていた。

自由にすれば、正しいと思っていた。民衆に委ねることで平和となり、賢い人間に任せることで自由な良さが生まれると考えていた。

ただ、自由は安易なところがあった。そのうち、過去の自由を裏切りながら本当に大切なものに執着するようになった。

自由な中でどのような社会が成り立つか、モデルにして考えた。時間軸をベースに時間交換的な労働形態にする(説明は難しい)とか、そういうことを考えていた。

ただし、子供のようなところがあった。実現するために、現実ではどうなるか考えて、実地的に成り立つ社会モデルを作っていた。

生産活動を行うためには、知識、経験、それを行うための手段が必要だ。

自由が無ければ、最初から何かすることは出来ない。

社会的に決まっていることは、制度や法律を変えることで変えることが出来る。

良い制度でなければ、決める意味は無い。

平等にすると、実際の環境で不備が出た時に、柔軟に対応出来なくなる。

自由にすると、柔軟に対応出来るかもしれないが、何も考えず、過失のようなものが増える。

考える人間を平等にすると、決められない政治になる。それぞれの間に対立関係が生まれる。一人で決定することも必要だ。

労働の目的とは、「金を得ること」だろうか?僕は、金は手段であって、労働や生産して人々に貢献することが目的だと思う。

それなら、金儲けを絶対に自由にしなくても、出来ることがあれば、今の資本主義体制を固持し続ける必要はない。

いつ何が出来るかを考えると、上からトップダウンにするより、ボトムアップにした方が出来ることは多い。

把握出来る世界が制限されると、人は何も出来なくなる。だが、全てが把握出来たとしても、何も生まれない社会では、多様性が無くなる。

自分の自由意志や自由選択で出来ると言うことは、強制的にやらされる場合と、やる内容が同じでも全く違う。

自由を制限して秩序を作ることは、最初から価値を生まない。

それが明らかに出来ることであって、許されていて、価値を生むことが分かっていれば、積極的にやる人間は増える。

視野を広げることで、出来る潜在能力を知り、現象の何が何を意味しているかを把握的に知ることが出来る。

自由があるところにチャンスがある。

ただ、僕は自由だけが良いとは思わない。そのことが出来るだろう可能性があり、それを可能にするために、自由にすることは良いことかもしれないが、本来は自由は要らない。

自由は、「まだそれが良いか悪いか分かっていない場合」に有用であって、良いか悪いかが分かってしまえば、自由よりも継続や安定の方が必要だ。

自由は、子供のような何もまだ分かっていない年齢の人間に対しては、優れた考え方だ。

社会を自由にすることで、誰かがその社会を改善出来る可能性を生み出すことが出来る。

人間と言うのは、自由にすると出来る。自由にしないと出来ない。

そういう、出来る・出来ないを考えれば良い。

いつ何が出来るのかを考えていると、人々に経験させることすら、出来ることだと考えることが出来る。経験を可能にする、と言う哲学だ。

自由にするだけでは出来ないこともある。自由にした上で、手段や機会など、さまざまなものがあると出来る。

その「出来る・出来ない」は積み重なっていき、新しいことを知る中で、「高く全てのことが出来る」ようになる。

それは数学的な「積み重ね」の考え方と一緒になって、この世界の全てを説明し、可能にし、意味を考え、社会的な可能性を高めることで、「自由」として考え方を創造出来るだろう。

未知のものを「かもしれない」と考えると同時に、すでに分かっていることをもう一度検討し直すことで、「百試千改」のように全てを「書きながら」知ることが出来る。

成功者になることは誰にでも可能である。成功者は自由であり、同じ条件で同じだけの努力をすれば、誰でも同じように成功するだろう。偶然は存在しない。

ピアノに行ってきた。

今日は知性がついた。ピアノでは、新しい音符を覚えるのが楽になってきた。

みんなは、パソコン病になっている。日本は、パソコン病になっていると思う。パソコンのせいで、基本的なことが分からなくなっている。

自分の人生は、本当にたくさんのことがあった。さまざまなことがあって、本当に良かった。完全に満足している。僕はこの人生が好きだ。

最近、「聞き流すだけで英語が出来る」と言う教材が増えているが、僕は言語とはそういう部分で聞けるようになることが必要なのだと思う。日本語も、あまり積極的に聞かなくても、耳に入ってくるところがある。そういう部分を作れば、英語が聞こえるようになる。

僕は、何か分かっているようで、何も出来ていない。今までやった中で、何一つ出来ていない。デザインは下手だし、英語もピアノも全く出来ないし、プログラミングも出来なかった。何か、一つ、良いことを出来るようになりたい。

高校の数学の教科書を見ても、数学は出来そうに無い。哲学なら出来るかもしれない。僕は、哲学のことを中心にやっていくと良いと思う。

ヘーゲルの言う弁証法は、僕は「統合的解決」だと思う。ある種の「バランス」かもしれない。

両者の意見、両者の概念を上手く取り持って、どちらの主張も解決出来るように統合的に解決する。それが、弁証法的な歴史の進歩だと思う。