新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-21=

自分は、このページを読まれることが結構恥ずかしい。他人が読んでもらうことをあまり考えず、自分の勝手な先入観や思い込みと独断で書いているからだ。

昔は、自分の人生の全てが分かるように、永遠の逆戻りの文章を書いていた。

生まれ変わりと死のような体験をし、地獄の中で最後まで体験した。

それよりもっと昔の青春時代は、改革、啓蒙、そしてヘーゲルの言う良心のように、段階的人生を生きていた。

それより前の子供時代は、学校の環境から自由になって分かっていた。学校から自由になり、ネットで色んなことを知り、「自由になること」で分かっていた。この世界の全員が自由になれば良いと考えていた。

自分は、王と奴隷の2人が居る。王は命令し、奴隷は従う。そして、それらが本当の自分の心を隠して、嘘をついている。

本当の自分を明るみに出せば、きっと変わるだろう。

頭が怖いのは、今でもめまいと吐き気のする昔の辛い精神を保持しているからだ。めまいと吐き気を治せば治る。

自分は、人間と同じことが何も出来ていない。人間が普通出来ることと同じことが出来ない。少しずつ、小さなところからやっていけば、きっと出来る。

自分は、もっと強く信じれば良い。神を信じると言うが、本当に信じていない。言ったことを考えて疑って信じている。それが悪い。

強い気持ちで信じれば、恐怖は無くなる。

自分は、多重人格が悪い。多重人格を治せば、何も思い出せないのが治る。

昔は、自由な理性で分かっていた。この世界で、人々が何を出来るのか、自由な意志の下に何を行動して変えていくのかを考えて、制度や社会を作っていた。

昔は、僕は愛していた。地上の混沌とした魑魅魍魎の世界を愛して、この世界を変えようとした。途中までは大成功で、世界は変わったが、その後に滅びただろう。

促すことで世界を変える愛は、地上を滅ぼした。

僕が強いからと言って、僕のように強くなれば良いわけではない。逆に、強い心を否定すること。あなたは他人の意志で地獄に堕ちるべきでない。

昔は、自由自在に考えられるほど、経験から意識をつけていた。

さあ、最高の世界だ。この世界で、本当の愛のレースが始まるだろう。本当の愛、自由、そして希望の戦いが生まれるだろう。

悪いものは全て、自由だ。昔は、自由を悪いと言いたかったが、それを言い直す、取り繕う人間だった。こんなにも美しいものが、醜いものが、賢いものが、馬鹿なものが自由だ。僕は、自由だ。

不思議と、みんなは僕と同じ個人だ。みんなに出来ることは、僕に出来ることと同じぐらい、少ない。昔は、そういう風に、自分と同じだと考えながら、みんなの出来ること、し得ることを考えて、積み重ねて分かっていた。

漠然とした世界の可能性は間違っている。あるのは、ただ、今のこの世界、今のこの人間であり、みんなの出来ることは、多くは無いのだ。

だが、それはみんなが馬鹿である、と言うことではない。潜在的な能力はとてもたくさんあるし、みんな頑張って自分の専門のことをやっている。それについては、本当にここまで賢い人間が多い。だから、本当は、社会のあり方、世界モデルを見直し、再考するべきなのだが、そこで唱えられるのは「自由と平等」であって、世界のみんなを見ていない。思想とはそういうものなのかもしれないが、本当はこの世界を変えるために、あり方をきちんと考えないといけないだろう。

世界は変わる。もう一度、ダイナミックな動きが起きる。本当に、もう一度起きる。今度は、変えるための一人の指導者は必要ない。どこかで囚われた黒の王は放っておいて、みんなの世界変化をもう一度生み出そう。きっと起きる。信じれば起きるかもしれない。この世界は、本当にもう一度、希望の世界になる。

きっとこの世界は、再度良い世界になる。

それこそ、日本の新しいルネサンスだ。忘れたわけではない。どこかに置いたまま、きちんと保管しておいたものを、ただ夢の中で破壊したり、悲しんだり、傷つけたりしただけで、間違った気運の滅びが終われば、夢はもう一度花を咲かせてくれる。ここから先、みんなは世界の潮流の「受動的観測者」ではなく、「能動的実践者」になる。誰かが変えてくれるのではない。自分たちの手で変えていくのだ。2006年の希望と、2017年の希望はそこが違うはずだ。

間違った人間には間違ったことが起きるように、間違った国には間違ったことが起きる。昔、2005年の社会は、全員間違っていた。僕も間違っていた。そして、その後の試練の末に、みんなは良い人間になった。正しい人間になった。最高の人間たちには、最高のことが起きる。日本は素晴らしい社会になるために、みんな辛くなって分からなくなったのだ。神は無意味な地獄を作らない。創造者である神は、地獄を救う救済者でもあり、無意味なことを起こさない歴史の支配者でもある。被造物の僕らは、ただ信じ、全てを任せ、同じ気持ちで神を愛し続けるだけだ。

子供が日本語が分かるのは、文字よりも先に音を知るからだ。音をそのまま覚えて、文字によってそれぞれの単語が生まれる、などと考えない。だから、子供には先入観がないせいで、言語の習得がしやすい。日本人が英語が出来ないのは、既にカタカナの発音を知ってしまっているからだ。カタカナは、英語のたくさんのボキャブラリーをすでに知っている、と言う意味で、決して悪いだけのものではない。だが、英語を音から覚えず、文字から覚えようとしてしまう日本人には、簡単に英語は出来ないだろう。

英語が結構聞き取れるようになってきた。

自由な理性を、条件的な数学の成立的理性から考えていた。

そんなにマスターのように賢くなくて良い。普通に考えれば良い。

みんな、一生懸命頑張って生きている。そのみんなのために、僕が少しでも手助け出来ることがあったら良いと思う。

学校の勉強は、義務を義務だと教えるが、絶対的な義務は、先生が勝手に作り出すものではない。宗教家がきちんと作るのだと思う。

ただ、宗教はつまらない。技術的有用性は客観的かもしれないが、それでは金儲けだけの世界になってしまう。

本当に優れた考え方とは、「意味のあることをする」と言うことだ。だから、人間関係での意味のないことは忘れて、もっと大切なことを考えてほしい。

そのまま、知性と仮象の世界で考えていると、自分の出来ることが他人にも出来る、と言う事実が分かる。人間は、みな同じだ。

問題を解決し、法則を発見し、そして心を適切にそれぞれの場に置いて、心の中にあったものが何なのかを知り、執着を無くしなさい。

自分の実現出来ることは、たくさんある。それは、自分で経験するまで分からない。社会は変えられる。

先生も人間だ。責任は全て大人にあると思うのは間違いだ。

最終的に行き着く場所は、宗教と科学者の融和の境地だ。

この宇宙の全てを認め、自分の手で解き明かせる可能性があることと同時に、宗教的なことも起こり得ると思うことだ。

それが、世界に対する愛の救いを生み出すだろう。

自発的な愛を信じなさい。

心の現象には何らかの理由があると推測しなさい。

その未知の対象が何を意味しているのかを考えなさい。

科学や英語にも言えることだが、学んでいるその対象はそんなに正しいものではない。もっと俯瞰的な視点で考えると、全く間違った内容を学んでいることの方が多い。

あるいは、信じたり覚えたりするより、積極的に自分の力で変えて、体得していくべきものなのだ。

英語の知性とは、最初は、音を覚えることだ。音を覚える、と言う行為そのものが、英語を聞いていくたけの知性になる。日本語も同じだ。だから、単語だと思わず、音をそのまま覚えた方が良い。聞き取るのは、ただ聞き取るだけではなく、色んな比較や照らし合わせを行うことだ。

数学と社会学と心理学を体得すること。絶対にそれが正しいと思うのではなく、参考にしながら、全体を把握し、経験的に知識を知り、自分の中で作り出し、発想し、習得し、体得していくこと。その上で、何故それがそうなるのかを、ただそうなるだけであって、本当はもっと別の環境的規範が考えられる、と言ったように考えられる。制度は歴史となり、社会は星となり、生命は生態系となり、原子は量子力学となるだろう。

社会的に言えば、進歩は変えられることで積み重なっていく。積極的に変えられるようにしていきながら、何を遺し、何を変え、何を作り、何を壊すかを考えること。

いつもの文章は、そういうことを言っていただけだ。

有用性は経験から理想となって、自らが神となるような経験をし、絶対知性を作り、全員を導くだろう。

立場を超えて考えることで、全員の違いを克服出来るだろう。

精神力を高めなさい。ありえない宇宙を実感で捉えなさい。全ての自由な論理と経験を心の中で融和したら、もうあなたは最高の地点に居るだろう。

そこから、堕ちていけ。

永遠の地獄は、究極の現実である。この世界がなぜ生まれたのか、この世界が生まれる前には何があったのか、それを示す究極の事実である。

その事実を知って、体験して、あなたは二度目の頂点に達する。

そして、それ以降は、少しずつ下降を続けるのだ。悲しい歴史を忘れて、少しずつ希望の世界に戻る。そこまでの自分には、何も無かったはずだ。

昔は、民進党議員のような人間だった。志が高くて、世界を変える情熱にあふれていたが、その実、能力や経験が無い。やること全てで失敗する。

僕は、民進党はあまり好きではない。たまに応援しているが、たまに嫌いだし、特に蓮舫が好きでない。

格好つけたいわけでも自慢したいわけでもなく、僕は結構キリストみたいな人間で、世界に対して救い主として現れ、愛と自由のようなものを説いていた。

僕は、キリストも嫌いではない。だが、仏教の方を信じている。僕は、キリストは物語のようで、仏教は科学のようだと思っている。

ただ、僕の場合、自分が現れたこと自体が嫌いだった。だから、みんなが世界を作るような、そういう他人任せの自由を書いていた。

僕は、やりなれていないだけで、出来ないわけではない。頑張れば出来るだろう。

信じるのが怖い時は、もっと強く信じれば良い。

ただ、信じないのが本当に良い時もある。その時は、それに任せていれば分かる。もう既に分かった人間は、信じなくても分かる。

何を信じるのか考える時は、先入観を無くして、自分の立場を壊して考えないといけない。

本当に信じている人間は、何も信じなくてもそれで分かる。

強く神を信じる人間にとっては、理性や社会常識など、何も信じる必要はない。信じなくても分かる。

信じるために疑うのは、おかしいことではない。悪を悪と呼ぶのはその人自身の自由だ。だから、自分のことを中心において、他の全てを否定しても、それは間違いではない。

愛を信じるためには、愛以外のものを全て疑い、吸収しながら排除しなければならない。

ただ、悪を信じて悪を行うだけではなく、そこから何が善なのかを分かってしまえば、世界の見え方は変わる。判断基準を作り、自らの作った義に反することの無いように生きる。時に懺悔し、後悔し、そして告白する。その一連のプロセスの中で、愛が生まれるだろう。それを、人は魂と呼ぶ。魂は生み出されるだけではなく、自らを導くだろう。それが、神の経験である。

昔は、テレビやネットを見ながら、どんなことをいつ言うのか考えて分かっていた。言葉の発想法があった。

日本は、理想の国になっているのに、良い国になっていない。素晴らしい国にはなっているのに、今のままで良いわけがない。

それは、何が悪いのだろう?誰が悪いのだろう?何を目指して、どんな理想を描いていけば良いのだろう?

本当は、国民が知ろうとしないのが悪いのだろう。でも、何を知れば良いのか、何を考えれば良いのか、誰にも分からない。

僕にも分からない。

何が問題なのか、あなたの手で考えてほしい。あなたは、それで愛の使徒になれるかもしれない。

僕が導くのではなく、あなたが導いてほしい。

僕が語るのではなく、あなたが語ってほしい。

僕が知っていることを教えるのではなく、あなたが知っていることを教えてほしい。

僕を愛してほしい。

僕を倒してほしい。

僕を自由にしてほしい。

僕はあなたを自由にしたい。

あなたの手で道を切り開き、誰も居ない場所を進んでいってほしい。

あなたの向かう先に、幸ある宝が、少なくとも何か一つあることを願っています。