新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-20=

農園と英会話教室に行ってきた。

怖いのは、頑張らないからだ。常に頑張っていると、もう歩き回らなくなる。

昔の自分は、みんなに希望と愛を与えて、みんなも愛してくれるのに、それを自分から壊して、破壊した人間だった。

滅ぼした後で、自分で「嘘の希望」を言って取り繕ったが、それが悪かった。みんな分からなくなった。

一度、「滅び」に戻した方が良い。滅びに戻すと、すぐにまた愛することが出来るようになる。

みんな、人を愛するとか、信じるとか、信頼するとか、そういうことが出来なくなっている。

一度、滅びに戻す。そうすると良くなる。

昔は、認め合えば自由になれるとか、ルールをそれぞれが決めるとか、そういう自由なことを考えていた。

自然を認めて、「自然に起きている」と考えれば、分かることが分かった。全ては自然に起きている。それで、説明がつくと考えていた。

日本はおかしい。最悪の馬鹿がみんなを支配して、その馬鹿をみんなでいじめるだけになっている。自民党のことを言っているわけではない。自分のことを言っている。最悪の馬鹿が最悪の馬鹿を増やす。

その最悪の馬鹿が、不思議と賢い。みんなが絶対に勝てないぐらい賢いのが、そういう最悪の馬鹿な自分だ。

この世界の目的、この世界の意味は、みんながそれぞれ自由にすることであって、決して僕が支配したり、右翼が滅亡させたりすることではない。

みんな、頑張って生きている。簡単に「死んだ方が良い」とか、そういうことを言ってはならない。

良い言葉が、良いことを起こす。ネガティブなことばかり言っていると、ネガティブなことしか起きない。良い言葉を言った方が良い。

愛することから、自由が生まれるのだ。高貴な言葉が栄光を生み、優しい心が強い気持ちを生む。

もっと、本当の意味で自由になってほしい。インターネットにも、僕にも、支配されないでほしい。それぞれが、本当に過ごしやすい環境で生きられるようになってほしい。間違った政治家や抑圧者の下で支配されるのはもう終わりにしたい。

自由の定義が曖昧になっているが、ネットが自由なわけではない。言ってしまえば、この世界を本当に良いと思えること、それを防げる支配者の干渉を受けないこと、それが自由だ。

家は、普通、休む場所だ。家にばかり居ると、馬鹿になる。そういう人間は、家が怖くなる。だが、それは異常ではない。家が怖くなれば、家でも頑張れる。だから、家が怖くなったのを治さない方が良い。

虫は、人間にすれば治る。

自分は、狂ったこちらを治しているだけなのが分かっていない。それを治すとすぐに楽になる。

Linuxに悪いことはしたが、自分のおかげで発展した。良いOSに進歩している。

学校の勉強はしなくて良い。数学から歴史まで、賢い学問は存在しない。

もっと、仕事のようなことを考えれば分かる。ものを作る前提のようなことを考えれば良い。

出来ることを増やすことによって、能力がつき、自由になる。

ものを作るためには、必ず前提条件がある。ものからものを作り、手段から出来るようになる。応用や制度もその一つだと言うことが出来る。

学校は賢くない。歴史や哲学は意味がないし、数学や英語も意味がない。パソコンも、経済学も、心理学も意味がない。

学校の良い点は、学校に行くとすぐに賢い人間になる。馬鹿な心が治る。

ただ、それは学校でなくても良い。もっと別の場所の方が良い。

他人から聞くだけではなく、自分で経験することで、「実地的に」そのことを知ることが出来る。

社会についてなら、社会を変えることが出来るようになる。

本当に全てのことを経験した人間は、何をしても、どんな状況に陥っても、動じずに冷静にものごとを見つめることが出来るようになる。

恐怖は愛を運んでくる。人間は、今まで経験したことを経験するのが怖いだけで、一度経験してしまえば、恐怖は安心へと変わるだろう。

可能性をそれぞれの人間の本質だとすることで、人間と言うものの全てが可能性の発揮なのである、と知ることが出来る。

あなたは、あなたがなりえるところ、取り得るところの全ての可能性である。

この世界は可能性であり、常に生み出されている。そして、それぞれが意見を集積することで、この世界はいつでも作り出すことが出来るし、常にされている。

認識の方法を知ることで、正しい認識とは何なのか、学習することが出来る。

世界はシステムである。人生は世界観である。存在は意識である。認識はものを見るための見方を変えることである。

要は、そういう、「社会の設計図」を書いていたのが、自分だ。

社会とは、共有と手段による共同体の発生である。

それぞれが違うことをし、信念を信じ、愛することから、自由な多様性のある自由な社会が生まれる。

永遠とは、思考を記録することである。

宇宙とは、それぞれの意識である。

全ては、愛を信じることであり、存在する全ては愛である。この世界には愛しかない(欅坂46)。

そういうことを書いていたのが自分だ。

愛の裏返しは、未来に対する不安である。愛とは、確かなものに対する信頼であり、いつか消えてなくなる。だが、その時の自分の魂は永遠に残るだろう。

哲学とは、「自分がどこから来たのか」と「この世界がどこから来たのか」を考えることである。

宗教とは、永遠の地獄の中で希望を信じることである。

なぜか、正しく書いてしまうと、つまらない。世界の設計図しか書いていないからだ。それを、プロセスやメソッドのように書いていただけだ。

だから、あれは方法と環境のことしか書いていない。

もっと、この世界を見た方が良い。この世界には、賢いものがたくさんある。みんなも、僕を見るよりも、この世界を見ることだ。

あるのは、この世界だけだ。

戦って分かるのは、ゲームや漫画にそういうものが多いからであって、最近の僕は書いて分かるようになった。みんなも書けば分かるだろう。

ものごとを、「あるかもしれない」と考えなさい。それはそれであるかもしれない。あれはあれであるかもしれない。

そして、一つそのことが出来たら、もっと別のことも同じやり方で出来ないか、と考えなさい。

戦いと自由の中で、世界の理想が分かる。そこから、世界の全員が自分と同じであり、そこには「全員に対する一番上の存在からの愛」と言うものがあると分かる。

創造者の愛であり、天使の導きの愛である。

人生とは、創造することであり、全て、思考すれば分かる範囲で、今の自分が未来の自分を創り出しているのだ。

前提のモデルを作ることで、どんな場合にもそれに応じて思考すれば発想出来るような発想モデルを創り出すことが出来る。

場合とは基礎の部分である。基礎のモデルを作ることで、自由から社会、想像力から芸術、個人から集団、システムからアーキテクチャを創り出すことが出来る。

ユダヤ人の文化とは、神を恐れる愛の概念である。

創造性とは、自分でもやってみたいと言う羨望の感情である。

手段とは、自分が出来ることが他人にも出来るだろうと考える、他者への愛の感情である。

羨望と他者への愛は、社会を進歩させる。

最近は、羨望と他者への愛の少ない社会になった。昔のように、憧れや興味、未来に対する希望があった時代は良かった。

あるものを効果的に利用しなさい。そして、みんながやっていないことを、自分から率先してやるようにしなさい。

世界を知りながら、人間のことを考えることで、自由な思弁哲学者となることが出来る。

終わりだ。最近の文章は賢くないし、昔はネットしかしていない子供だ。

全ては、人間の意識である。

場とは、意識の変化である。

考え方とは、この世界を意識で捉えた場合の、実像の設計図である。

平和とは、他人を思いやることであり、思いやりを常に努力して維持し続けなければ、平和は実現出来ない。

その時その言葉が出てくること、それが全てであり、それが神であり、それが全て分かった脳の力であり、それらには全て理由がある。それは環境的学習である。

神とは学習である。自分のした学習の全てが神である。

今までした全ての学習が神であると同時に、神のような学習をすること自体が神である。学習することで、人は神になれる。

人間とは、理想的な目標を実現するために努力する生命だが、賢い人間は、最初から無意味で無駄な目標を立てない。間違った目標を立てない方が良い。

だが、経験しなければ、正しいとも間違っているとも言えない。諦めることを他人が強要することは出来ない。

みんなが同じである、と信じると同時に、みんなが自由である、と信じること。

人間は、生まれながらにして同じであり、自由である。

自由に決められる、と言うことは聖なる考え方だが、一人の自由に任せ、その人を信じると言う考え方は大人の考え方だ。

パソコンは、もっと互いのプロセスにアクセス出来るような、「アクセス可能性」を考えても良いかもしれない。ただのプロセス間通信ではなく、アプリケーションに対するアプリケーションのアクセスを可能にする。APIとも言えるかもしれないが、少し意味合いが違う。それぞれのアプリケーションの自主性や単独性を、もっとOSや他のアプリケーションから干渉出来るようにしても良い。そういうOSを作ってほしい。

最近は、アメリカのトランプ支持者のように、テレビと戦いたい人間が多いが、それは間違っていない。テレビは、戦後世界を導いてきたが、最近はあまりに悪い表現が増えている。テレビを倒したいのもおかしくは無い。

昔、戦争のような体験をしていたが、正義の戦争だったから、許してほしい。最後まで、倒れるまで頑張って戦っていた。世界のために、絶対に心を変えなかった。

悲しいのは、自分はもう終わりだからだ。これ以上、意味がない。昔の自分なんか、賢くない。ネットの経験と学校への回想で分かっただけだ。

人間は、過去の自分のことを許してあげれば、他人のことを許すことが出来る。

過去の自分を悪いとか悪かったとか思え、と言いたいわけではない。逆に、過去の自分のことを本当に愛してあげること。

過去の自分は、何も悪い人間ではない。分からなかったとは言うが、分からない方が分かっている。

子供は賢い。子供が馬鹿なのは、大人より賢いからだ。子供の頃の自分を愛してあげることで、本当に愛とは何なのか、涅槃とは何なのかを知ることが出来る。

自分のことを完全に愛すれば、涅槃に存在することが出来る。

経験、戦い、推論で分かっていたのは、今も続いている。さまざまな経験をした。

理性より経験だ。考えるより、行動し、体験することだ。

世界の進歩は全て経験的だが、一つ、「大切なことを少しずつ見失っていく」と言うことは言える。その時のその人にしか分からないこともある。だから世界は滅びるのだ。

自分が辛いのは、小学生の頃に親友を失った体験をし、中学生に入る時に、たくさんの小学生時代の友達を失った体験をしたことだ。それが、トラウマになっている。

昔は、世界の設計図のように、社会がどのように生まれ、段階を経ていくかを書いていた。

自由な影響力によってそれぞれがそれぞれの社会を作り、変えていくと言っていた。

昔は、本当にたくさんの経験をしていた。最高の経験から最悪の経験まで、全てを知っていた。僕は、今の自分を悪いとか怖いと思うせいで、全てが怖くなっている。こんな恐怖は、全く怖くない。昔の方が、はるかに怖い経験が多かった。怖い経験をしないから怖いだけだ。

自分は、最近の2・3年が賢いのが分かっていない。最近の分かったことだけで、ほとんど全てのことが分かる。だから、昔の部分は積極的に消して行った方が良い。人生の経験を分かっていたのは、あるだけ分からない。人生のことを一度、何も分からなくなってしまえば良い。なぜか、昔の自分も、それはそれで完全に全部分かっている。それも悪くは無い。神のように完全に経験と理性で分かっているが、子供だ。だから、それをそのまま残して消すしかない。悪くは無いが、僕は普通のことが分からなくなっている。

自分は、「分かる義務と言うものは無い」のが分かっていない。分かることを義務にする必要はない。もっと自由に色んなことを経験した方が楽しい。

考え方や興味が、全ての文章を書くと言うことになったが、昔のそういう地獄は、完全に分かっているから馬鹿になっている。完全に全て分かっているせいで、分からないものが無い。そのせいで普通のことが分からなくなった。辛いように見えて、今の自分よりは辛くない。あれは賢かった。宇宙の全てを構造と具体例で完全に予測出来る人間だった。

意識と人生経験、そして思考で全て分かっていた。

もう、忘れた方が良い。自分は、もっと具体的なことを知るべきだ。学問の常識を構造的に知ったとしても、ただ自分のでっちあげたその学問がどういうものかが適当に分かるだけだ。そうではなく、もっと具体的にたくさんのことを知った方が良い。昔のLinuxだと思えば良い。あの「何も知らないのに知っているオタクの馬鹿」よりも、賢い人間になれば良い。この世界の全てを既に知っているのがおかしい。もっと忘れて、馬鹿になって、子供になれば出来る。

人間は、本当に大人よりも子供の方が賢い。大人は今の現状を改善していくことしか分からない。子供は最初から現状の全てを否定する。子供の方がはるかに賢い。

友達に意味が無かっただけではなく、学校の試験勉強を頑張っていたせいで、勉強にも意味がないのが分かった。

親が教師だったのも無意味さに拍車をかけた。

ただ、僕は学校に意味がないとは思わない。むしろ、科学者になりたいと思った。科学のことを、自分だけの力で分かりたい。そういうおかしな人間だった。

だから、この世界を自分の力で分析し、自分の知った知識から何か出来ないかと考えた。

あとは、高校の友達なんかほしくなかったし、Windowsも嫌いだった。僕は、そういうものが一番嫌いな、「世界を呪う人間」になった。

自分は、誰よりも一番強く神を信じている。その理由で、賢くなった。

自分は、過去の自分を愛しながら、何が問題だったのかを考えて、反省すれば分かる。

昔の自分は、信じないのが悪かった。全部、友達から家族まで、全員信じていない。誰も信じたくなかった。

それは、間違っていない。あれは賢い人間だが、自分自身が分からなかった。この世界のことがきちんと分かる代わり、自分がおかしいのが分かっていない。

最近の自分が賢すぎるだけで、あれは普通の人間だ。むしろ、本当は今よりはるかに理性的で情熱的な人間だ。今の方がさらに悪くなっている。

要は、そんなに極端に良い人間になるのも悪い人間になるのも悪い。

自分は、未来のことが分かるのがありえないように見えて、神の言葉を信じているから分かるだけだ。最初から、これくらいしか起きないのが分かっている。

良く考えると、神に聞けばすぐに分かる。そろそろ、たぶん自分のホームページが大ヒットサイトになる。

それから、ロシアの大統領になるはずだ。神はそれくらいしか言っていない。

神の言葉は、歌手の言葉だと思えば良い。最高の恋が8月に始まると、どこの歌でも同じことを言う。たぶんそれが起きるだろう。

キリストが、終末の世界がどうなるかを既に言っている。善人だけが救われ、悪人は地獄に堕ちる。人々は自分勝手になり、何も信じなくなる。それが終末だ。

ただ、僕が思うに、終末は悪い世界ではないと思う。なぜなら、バッハが「神の時代こそ良い時代」と言っている。

そういう風に、色んな人間の言っていることを考えると、未来のことは神が既に全部教えている。だが、見ても聞いても分からない。起きない限り分からない。

みんなへのアドバイスを言うとしたら、「絶対に諦めてはならない」と「いつでも神の目を見ていなさい」だけだ。

昔をやりたいなら、「愚者は賢者である」と言える。「自分で考え、経験しなければ何も分からない」と言えるかもしれない。

そして、この先の世界は、漫画のようになる。ワンピースのような世界だと思えば良い。偉大なる航路の先に新世界が始まるだろう。

僕は、自分がクズに見えるのは、みんなを地獄に道連れにして、苦しみの中に陥れたいように見えるからだ。

みんなは、もう僕と同じ地獄にならなくて良い。こちらに来なくて良い。

それから、昔のような廃人の自分を肯定出来ない人間になるのはやめてほしい。自分のことを肯定して、自分を愛してほしい。

だから、僕が悪いだけではなく、世界も悪い。世界は、そういう、ネット廃人にしかなっていない。

僕のやるべきことは、自分にすることでも、それを止めることでもない。もっとこの世界を良く導いていくべきなのだ。

だから、神を盲信するよりも、神にこの世界をどうすれば良いか聞けば良い。

神は、「自由が悪い」と言っている。2ちゃんねるのような自由が悪い。自由を否定する右翼は間違っていない。

要は、ルールを作り出せば良い。ルールのある自由にすれば良い。

人を陥れるな。

悪いことはしても良いが、あまりに悪すぎることはしてはならない。

裏切ってはならない。

自分の義を忘れるな。

自分の信じているものを、助けよ。

ただ、そういう、ただの決まりごとを作っても意味は無い。

もっと良く考えれば良い。普通は、人間はそれを考える。支配者となったつもりで、この世界をどのようにすれば良いか、考えれば良い。

堕落するのが悪い。

自分も怖いことを他人にするのが悪い。

後先を見ないのが悪い。

自分だけが分かっていると、すぐに滅びてしまう。人工的なものだけになって、人間は機械になってしまう。

想いがあっても、相手に届かなければ、意味がない。

本当のことを話す勇気を持て。

きっとみんなは、間違った人間を信じている。その人間は、良いことは言うかもしれないが、偽善者で、本当は不純な気持ちを持っている。その人間は、この世界を愛さず、みんなを虫けらだと思いながら、自分勝手な欲望のままに進む。だが、見た目は良い人間で、周りから見ているだけでは問題に気付かない。みんなは知らず知らずのうちに、その人間に騙され、良いものではないものを良いものだと信じ込んでいる。そして、その人間は孤独で、何も覚えていない。過去のことを覚えていないから、みんなもそこに気付かない。その人間の過去は最悪で、世界を滅ぼし、自分勝手に支配し、居ないのに世界全体を欺瞞と嘘の自由すぎる世界にしている。その人間は、僕だ。

自然にそれぞれがやっていること、自分が本当は何をしたいのかから、社会を知れ。

ネットから、価値観と独立を知れ。

社会が、ありのまま、いつでも同じように存在していることを知れ。

価値観の創造から、世界を変えられるようになれ。

全てを知って、人生経験をつめ。そして、この世界の全てを知って、死ね。

死とは、生命の終わりではない。全てをやり終えて、消え去って、誰にも知られなくなったものは、死んでいる。そのように死ねば、次の人生が偉大な人生になる。

一つのやり方が全てではない。色んなやり方をしなさい。全てを統一したやり方をすることも、自由にその場で選ぶことも、期間や時代で変えることも出来るだろう。

終わりだ。僕はまた死んだ。次の人生を生きる。そういう、死と言う意味でのさようならだ。

本当は、自由意志と所有を考えれば良い。昔は、自由意志と所有を考えただけだ。

そこから、「自分から所有を放棄する」ことが分かる。それが共有であり、オープンソースの理想だ。そういう発想が、昔の時代から人間に多い。所有は、良く見えて、悪い。所有は劣っている。所有は原始的な考え方だ。だが、所有は上手く行く。所有は自分勝手だが、不自由な支配よりはマシだ。

良く考えると、あれは世界の設計図を書いているだけだ。所有や共有も、多様性や統一もそういうものだった。世界の設計図からパターンと具体例を作る。何が何から生まれるかを書く。それだけの、痴呆のような人間だった。