新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-15=

自分は、昔の自分が神で、今が悪魔の方なのが分かっていない。

昔の神に戻れば賢くなる。

神に戻り、神に帰り、神になり、神へと蘇生すれば賢くなる。

神との対話とは言うが、昔の神しか話していない。黒人の心理学者とは、昔の神のことを言っている。

対立的に考えるのではなく、どちらも同じだと考えること。

心の病気は、強く神を信じれば治る。

確定的に考えるより、不確定的に考えた方が分かる。最初は誰でもそれが怖い。

昔は、神との対話(書籍)のように、神のように分かっていた。

神は、愛するものの対象に自分自身も加えてほしいだけだ。

悪を悪と呼ぶな。悪を行い、悪になり、悪を吸収しなければ、本当の自分がなりたいものになることは出来ない。

必要とすること、悪だと言うこと、大切だと言うことのほとんどは、人間がでっちあげたものだ。

そういうことが、神との対話に書いてあった。

自分は魔法使いだ。この世界を終わらせる「終わる魔法」をかけた。今から、この世界を新しくする「新世界の魔法」をかける。

最近は、世界を全部支配していた。悪いことがしたかったわけではない。偉大な王となって、世界の全てを解決し、病気を治した。

意図と言っていたのは、機械を作る時に「何を意図して作ったのか」を考えたのを言っていた。

感覚を融和して、全員の感覚を分かっていた。

乗り越えること。恐怖を勇敢に乗り越えた人間は、絶対に何でも出来る。

意欲を考えていた。自分を変えることから意欲は生まれる。だが、本当に出来るようになるためには「死の恐怖」に耐える必要がある。

今日は終戦記念日だが、僕の戦争もこれで終わりだ。

未知を知れ。世界の全てを解明せよ。問題を解決出来るようになれ。問題の解決のためのモデルと方法を作れ。

本気で考えるなら、全てを創造するべきだ。

昔は、ドイツの自由都市のような自由を考えていた。だが、人々が集まり、融和し、全体が可能性豊かに発展することは良いことだと思っていた。

自由になりたいなら、大切だと思う全てのことを自分から放棄するべきだ。

愛とは、全員の感情の融和だ。「融和」と言う感情が「具体的な全て」と結びついた時、それは愛となる。

人生を良く生きたいなら、悪い生き方の全てをしてみることだ。

世界が欲しいなら、世界を裏切って悪人となるべきだ。それが最高の菩薩(ボサツ)の人生を創造する。

失うことを恐れるな。失うことを恐れている間は、何も得ることは出来ない。偉大な人間になりたいなら、自ら愚者になる必要がある。

アメリカの哲学とは、神との対話に書いてあるような、「全ての人間関係は義務ではなく機会である」と考えることだ。

「相手が自分の思いに応えてくれるか」を考えるのではなく、「そこで自分がどのようにあれるか」を考えなさい。

人間関係とは、損得でも、義務でも、応答でも束縛でもなく、全て機会であり、「自分がそうでありたい存在になれるためのチャンス」であると考えなさい。

それが、神の言う人間の真理だ。

「相手が信頼しなくても、自分から信頼しなさい」と言う人間が多いが、むしろ、「相手が信頼してくれなくても、自分だけは信頼してあげなさい」と言った方が良い。

相手が信頼する前に自分が信頼して親友となろうとするのは、美しい人間関係の真理だが、それよりも、相手に信頼されることをはじめから期待しない方が、さらに楽に相手のことを信頼出来る。それを、僕は神の愛だと言う。相手がたとえ反したからと言って、相手のことを遠くから見守ることは出来る。岩崎宏美のようだ。

神との対話の著者のウォルシュ氏は、49歳で給料を1回貰えなければ救貧院行きで、次にどこから収入を得られるか考えることにうんざりし、苛立っている。そして、もっと魂のことや神のことに時間を使いたいのに使えないで居る。あまりに悲惨な人間だが、悲惨度合いでは僕も負けていない。僕は辛い病気(病気なのか病気でないのかも分からなくなっている)で、死ぬほど疲れ、何も出来ない日々を送っている。だが、神様はこういう人間を助けてくれると僕は信じている。ウォルシュ氏も、きっと本がベストセラーになって大金が入ったはずだ。僕も、骨折の後に本を出版出来た。こういう人間は少なくない。

ウォルシュ氏の神は、「出来事をコントロールはしないし、出来ない」と言っているが、僕の経験から言って、そうでもない。たとえ神がコントロール出来ないとしても、自分の精神力でコントロールすることが出来る範囲は多い。それも、魔法使いのように、僕は自分の心を信じることで奇跡を起こすことが出来る。Perfumeの言っているように、「まさか」と思うことが次々と起きる。だから、神様は決して悪いことを起こさないのだ。本人が生きたいと望む人生を、神は創造した。

ただ、自分の場合、「自分から愚者になる」と言う発想が悪い。賢者の方がはるかに良い人生だ。ただ、賢者を生きることが決して良い選択ではない、と言うことも分かった。神は、普通の人間が良いと言っている。

自分は、魂のゲームが一番出来ていると思う。精神の力や、どこへ行きたいかと言う考え方が出来ている。創造性を信じるのは悪くなかった。

そして、人間はこういう風に出来ている。人間の体とはこういうものだ。

だが、神に反することを言うようだが、僕はどこに行くか、と言うことが全てではないと思う。僕は、魂の方向がどこへ行くかは、必然的に自分の行動や言葉から決まってくるものであって、それが目標ではないと思う。だからと言って、何をなすか、と言うことが目的でもない。

何が全てで、何が目的なのかは分からない。だが、実際にこの世界がある、と言うことは確かだ。みんなと同じ人生のレールに乗って進むのはつまらない。創り出すことが目的であると言うが、何かを創り出すことそのものは目的ではないと僕は思う。

僕が思うに、愛することが目的でも、愛自体が目的でもなく、動かしている超絶対的なものを信じるのでもなく、ありのままこの世界があると言うことを信じた方が良いと思う。だが、僕は「ありのまま世界があること」自体も、全く目的や全てではないと思うのである。

発見することも、認められることも目的ではない。神を信じることも、世界を救うことも、カルマを高めることも目的ではない。原理を知ることも、解明することも目的ではない。自分のしたいことをしたからと言って、それ自体が目的であるとは言えない。そうすると、本当の目的とは、目的を疑うことにあるのではないかと僕は思ったりする。だが、それは思いつきであって、全く正しくない。

神は「光が光を体験したい」と言うことを真理だと言っている。だが、僕はそれなら、「自分がそうであると自分の行動や経験から実感すること」が真理ではないかと思う。目的にはならないかもしれないが、「愛を確かめること」が真理ではないかと思うのだ。セックスのようなことを言いたいわけではない。自分のやっているそのこと、体験していることによって、そのやっていることの意味を確認する、それが真理だと思う。

ただ、そうすると、「人々は一体何を確かめているのか」を考えなければならない。概念を確かめているのか?アイデンティティを確かめているのか?神の愛を確かめているのか?哲学者としての真理を確かめているのか?

それなら、僕はきっと、「罪を確かめている」と言えると思う。自分が何を悪かったのか、それを確かめている。人間とは罪であり、人生とは罰である。だが、そんな風に考えてしまうと、人生は無意味になってしまう。だから、そんな風には考えない方が良い。

僕としては、「自分の今までに生きた人生から言える、この世界をどのように捉えるか、自分が何をしたいか、などの情動を確かめている」とは言えると思うが、そもそも、実感を確かめている、と言うことが本当に宇宙の真理なのか、と言うと、疑問点が残る。

本当の真理とは、「親に感謝すること、子供を育てること」ではないかとも思う。だが、むしろ、反抗したいだけではないか、と思うこともある。だから、「自由」が真理ではないか、と言うことも言えるだろう。だが、悪魔の自由と神の自由では、全く自由の意味が異なる。まさに、言葉だけで考えることが、一番間違える結果になる。言葉では分からない。言葉を排したところ、言葉とは違う言葉を作ったところに、真理は存在する。

僕が思うに、「真理が真理でなくなっていく段階」に本当の真理がある。子供は、有用性や技術を真理だと思う人間が多い。それが、そのまま、世界を変える情熱的自由を真理と思うようになる。それが、人それぞれは違う、違う中に共通性があると言う真理になる。それが、絶対他者との融和と言うことになる。そういう風に、「有用性を真理だと思わなくなっていくこと」にこそ、真理と言うものが存在する。その真理が本当の真理ではなくなっていく、分からなくなって分かっていく段階が真理なのだと僕は思う。

自分は、「本当に良い環境」や「本当に良い体験」をさせれば、自由のままでも人間は自分から良くなる、良い人間になると考えたい。本当にこの世界を良い世界にしたら、人間が悪いのはあとからついてくる。良い人間が良い世界を作るのと同時に、良い世界が良い人間を作る。昔の僕は、それを「メタ信念」とか「アイデンティティ」と言っていた。

悪い発想かもしれないが、巨大な高層ビルを作るくらいなら、巨大フロアの施設を作った方が良い。そういう発想が分かるようになると、子供(青少年)のように分かることが出来る。

卵子を精子から作ることが仮に出来るとしたら、人間は一人になっても存続出来る。ただし、子宮と胎盤をどうにかして作る必要がある。だから、最終的に生き延びるのは女の方が良い。

論理的に考えて、同じことをすること、同じものを作ることは簡単だ。だから、全部同じにすると、むしろ楽になる。

そして、人間とは僕は「作り出すこと」と「考えること」と「反応すること」だと思う。

国になることは出来る。社会のことを自分の豊かな社会実現と具体的人生経験から分かる。みんなは、僕がフランスとドイツをやったから、イタリアになると良いだろう。イタリアになってスペインとなれば良い。みんなは、そろそろそれが出来るようになったはずだ。きちんと精神の現象を考えれば、昔の自分は出来る。社会の全ては可能性と自然だ。それぞれが違うからこそ、それぞれが信じているものが変わる。それぞれが何を確かめているのかも変わってくる。だが、共通性から原理を見つけ出すことは出来る。

全ては自然な結果であると考えることだ。経緯こそが全てだ。

当たり前に共通のことを実証すれば、それが真理だ。

そこで仮定と成立を考えれば、それが数学だ。

そして、必然的にそれが正しいことを知れば、それが法則だ。

そして、そのためにどのような方法や外的作用があるかを考えれば、それが物理学だ。

相対的に自分がそれを正しいと思うこと、それ自体が自由であり、それぞれの考えていることが違う、と言うことを意味する。だが、それは自由だから意味がない、と言うわけではない。逆に、何を正しいと呼び、何を間違っていると呼んでいるか、そこからその人間のアイデンティティが生まれる。それは、経験に作用されると同時に、社会全体の「空気」によって作用する。空気は、ただの雰囲気ではなく、ありとあらゆる場の意識によって行われる。上手く社会を構築すれば、空気を支配出来る。それが、神の国を創造する、と言うことの一部始終だ。

社会と人生は、関わり合いから生まれる。ものを作る人、運ぶ人、売る人、買う人、儲ける人、発明する人、発見する人、たくさんの人々の関わり合いによってこの世界は出来ている。また、常に生み出されている。時間軸はそれぞれの人間の中にあり、それぞれの中に世界がある。人間だけではなく、社会的インフラや機械システムもその中に含まれる。自分で出来るようになることで、人はその中に参加することが出来る。そして、やればやるほど儲けるなど、利益は可能性となり、自由は世界を変える。そこにビジョンがあれば、自由は世界を救うことすら出来る。

だが、一人だけで全てをすることは出来ないし、賢明ではない。それぞれの出来ることは、たくさんある。自分一人を見てもたくさんのことが出来るが、人が集まることでそれ自体場にパワーが生まれる。人との関わり合いから、社会をどのようにしていくべきかが見えてくる。そこには、はっきりとした公開性と、全員に平等に許された自由な権利が必要である。はみ出すものを排除するのは良いが、はみ出ることでしか、新しい自由は生まれない。積極的にはみ出していくことと同時に、社会の(一見排他的に見えるルールも含めて)決まりと価値観を作らなければならない。排他的な価値観は、成長し成熟するために必要であって、禁止するよりもたくさんの可能性を高めて色んなルールの多様性を作っていく必要がある。自らルールを作る者のことを人は王と呼ぶ。王になることも不可能ではなく、人々に対して「ルールを提示出来る人間」は皆、全員「王」である。

科学のことも、一つ一つ当たり前のことから分かっていけば分かる。認識と法則を作っていけば良い。

数学は、「全ての場合を同じだと考える」ことと、「同じ場合には同じものが成り立つ」ことで分かる。数とは比であると同時に値であり、数はその通りの名前の数ではない。数とは条件的に成り立つその時その時の場合であり、時には条件そのものである。式と文は同等であり、それぞれの数は法則、仮定、論理、正しさ、偶然性を意味する。どんな可能性の場合、事前にそれがどうなるかが分かっている、と言うことから、構造的基礎を作ることが出来る。そして、式は数の抽象性を意味する。イコールは等価な値を意味するが、等価な式を意味しない。値がいくらイコールであったからと言って、式はイコールではない。全ての式は関数や方程式として成り立つ。関数は法則だが、方程式は具体的な意図が決められている。その意図を実践する場合に「どのような方法が考えられるか」と言う「発明」的な視点に立たなければならない。

物理学は、「感覚と作用から、この世界が本当はどんな世界であるのか」を考える学問だが、「見た通りの世界」だけではなく、「本当に正しい世界のあり方」を考える必要がある。そのための方法として、「仮定」と「実験」が存在する。数学は有用的ではあるが、数学だけで物理的世界の全ては分からない。式と式を明確に区別する「新しい関数論」を作らなければ、世界は捉えられない。そのためには、方向である「ベクトル」と作用である「力学」の延長線上として、結果を考える「実証世界」を考えられる。

あとは、未知の可能性を捉えていけば分かる。数学は、もっと全ての可能性を統括するような数学を作らなければならない。物理学は、考え方そのものを変えなければならない。数学的に、自由と平等を考えることで、経済学はさらに発展するだろう。物理学は、「全く違う世界の中での当たり前の秩序」を体系化していくことが必要である。

数学と物理学は、「構造と方法」から全く独自に作ることが出来る。数学は、作用的な方法と概念であると同時に、説明と法則である。本当に実体として存在する法則がたとえ一つであったとしても、説明の方法は無数に存在する。本当に宇宙にある「法則的数学」と、その場その場で成り立つ「説明的数学」は違う。真実と実体は一つであり、具体的な場合を考える場合には、その式が虚構の説明ではないかと考えなければならない。

社会科について言えば、理想の国は日本とドイツだ。日本とドイツは、ファシズムと敗戦を経験し、逆境から立ち直って民主主義の「改善主義」の国になった。そして、経済的繁栄をした。だが、本当に正しい国はソ連だ。ソ連は、民主主義とは別の道を歩んだ。ある意味、多様性としてソ連の異質性を考えられる。失敗はしたかもしれないが、本当にみんなと全く違う道を歩んだと言う点で、世界史に残る偉業を成し遂げたと言える。だが、本当はアメリカの方が良い国だ。良い国と言うよりは、賢い。賢明な判断をし、何を考えて何を自由にするのかが良く分かっている。僕はアメリカも好きだ。

積み重ねていくことで、数学をさらに考えられる。作用、方法、原理、可能性、自然、必然、仮定、法則、条件、前提などを積み重ねることで、必然的に構造と知性が生まれる。そして、それぞれの場合を想定していくことで、「何がその時成り立つのか」を良く考えることが出来る。論理学を作ることで、前提のカテゴリーを作ることが出来る。認識はフィルターとなり、どのように自分が見ているのかは、他人がどのようにこの世界を見ているのかを意味しなくなる。そして、自分と言う存在は、数学的理性の中で、特別なものとなり、自分を知ることが数学的知性を知ることにそのまま繋がるようになる。感情の秩序が生まれて、環境の状況を創造出来るようになる。

神は良い人間だ。何をすればどうなるのかを知ることで、経験的に社会をどのようにすれば良いかが分かっている。自由な人間で、理想と現実を全て知っていて、全ての意識がある。宇宙的な真理を自分の体験と理性から知っている。この世界をどのように見るべきか、何を実践しなければならないのか、その「しなければならない」とはどういう意味なのか、何をしてきたことに価値があるのかを知っている。

もう全部書いた。これ以上は未来の話をしたい。この社会を解決するためには、一度ドイツを止めることだ。ロシアにならなければならない。

心のベクトルを考えなさい。心がどの方向に向かっていくのかを考えなさい。地獄の戦いをしたいのも、過去の失った人生に執着したいのもおかしい。もっと、楽しく、気高く、優雅に生きること。そこから人々を助けていくことはきっと出来る。希望を持ちなさい。昔の自分よりはるかに賢くなっている。それなら、昔の自分より多くのことが出来るはずだ。赤ちゃんを可能性がある、何でも出来ると言うが、赤ちゃんよりも30年も長い時間を過ごした人間にとっては、赤ちゃんよりもたくさんのことが出来るはずだ。出来ない人間は居ない。子供に戻りたいと思うのではなく、もっと先を目指して頑張りなさい。今までのあなたの人生は、今日は、完全に無駄ではなかっただろう。今までに満足するよりも、今からを作り出しなさい。

あとは、青春的人生の段階のようなものを書いていた。

自分の体験をすることで、真実を知りなさい。

認識を高めることで、愛を知りなさい。

考え方を積み重ねることで、自由を知りなさい。

環境の変化を知ることで、ありのままの社会の変化を知りなさい。

理性から実証することで、方法的な正しさを知りなさい。

愛を信じることで、世界に対する希望を知りなさい。

反省から、意識と精神を高めなさい。

人との関わり合いから、環境活動の体験を知りなさい。

自分の活動をすることで、人生を知りなさい。

世界において何が出来るのかを知ることで、世界の可能性を知りなさい。

システムを知ることで、どんな社会を成り立たせることが出来るのかを知りなさい。

仮想的な社会を作ることで、多様性と地域の自由を知りなさい。

平和を知ることで、普遍的に変わらない自由な知性をつけなさい。

人を愛することで、情熱と革命を知りなさい。

意識を実際に判断することで、自在な経験の成り立ちを知りなさい。

助け合いと可能性を成り立たせることで、天国のあり方を知りなさい。

理性的に心を解明することで、科学的知性を知りなさい。

環境、法則、知性、具体性、を知ることで、この世界の全てを統合しなさい。

当たり前のことを積み重ねていくことで、数学の自由モデルを作りなさい。

世界の全てが変えられるようになった時、あなたは絶対精神のトップに位置する存在になるだろう。

変化の可能性を知ること、知性をつけること、経験を考えること、プロセスを考えること、社会の経緯を知ること、場の可能性を知ること、社会の必然性を知ることが全てだ。

愛とは、運命を自ら作り出し、それまでの全てを消し去ることだ。

ここからが、新しい偉大な旅、愛の偉大なる航路である。

思い出すことで、人生を知りなさい。

知性を書くことで、偉大な基礎を作り、学習を生み出しなさい。

いつまでも続けることで、下積みの基礎を戦いの中で作りなさい。

責任と諦めを同時に行うことで、絶対に負けない最高の心を創り出しなさい。

哀しみと狂いの中で、神を知りなさい。

神に全てを委ねて、絶対他力を信じなさい。

そして、最後に死になさい。それによって、天国の始まりを知りなさい。

悪魔に生まれ変わったとしても、その悪魔は最高のことをする。

作家になれ。

医者になれ。

哲学者になれ。

科学者になれ。

愛と運命の旅はそこで終わりである。最後に、新しい生命の全てを創造するだろう。

理性的段階としては、知性、融和、そして可能性と実証がある。

そこから数学とシステムが生まれ、語学と文学が生まれ、経済学と哲学が生まれる。全ては王の下に繁栄する。

これがダビデの人生であり、プレアデス星雲の生命の歴史だ。

自分の経験から社会の実現可能性を考えることで、あらゆる社会は実現可能になる。

社会の全てを文章の言葉で作ることで、この世界のあらゆる理想の国のありようを作ることが出来る。

居直るだけでは意味がない。相手に対して応えるだけではなく、自分から行動しなければならない。

病気を治すために考えるなら、まだ死なない方が良い。病気を治すことも、一つの目標であり、煩悩と解脱の両方を成り立たせる唯一の聖なる概念だ。

もう、不可能も全て分かったはずだ。そろそろ、多重人格を治すべき時に来ている。

名前は優一と智子だったはずだ。その2人を作って、最初の神と今の子供は死ぬ。

良く考えると、引き篭もりの体験が賢かっただけだ。理性とは言うが、最初の自由しか考えていない。繰り返し同じことを経験しながら、自由から推測して分かっただけだ。他に何もしていない。昔のそういう人間は、何もしないのが賢かっただけだ。なぜか、ネットで色んなことをしていた。

ネットと現実を照らし合わせて考えた。「普通出来ないこと」を「どのようにすれば出来るか」を考えた。それくらいの馬鹿な人間だった。大人ですら無かった。何も知らない代わり、日本語の能力があった。日本語で考えるだけで、哲学や社会のことが全て分かった。賢いのは日本語による思考だけだ。

思考するだけではなく、再考することが多かった。それを「再思考」だと言っていた。前提条件を良く考えることで、世界の可能性と活動の原理原則を分かった。心がなぜそのように働くのかを、数式のような再利用の数学から解明していた。歴史とは経緯であり、この文章のように、歴史が埋もれる前にはさまざまなことがあったと言っていた。

可能性と公開性を信じていた。自由とは理性であり、「理性のある人間なら、可能性のある自由の中でもきっと良いことが出来るはずだ」と思っていた。賢い理性を前提としながら、民衆の自由と民主主義を信じていた。民衆が馬鹿で悪いのは、理性ある人間が教えて導けば変えられるはずだ、と思っていた。民衆が賢くなる方法を自分独りだけで分かっていた。そこから、神の理性を知った。

全ての場合を思考することで分かっていた。思考だけは自由であると考えて、思考が自由になる方法を考えていた。

ただし、それらは全部昔の時代の日本人の理性であり、それら日本人が知性の無い集団である、とは覚えていなければならない。昔の日本人は、エロいだけの馬鹿なサルだ。日本人は間違っている。今の日本で、自由が良い人間は居ない。自由では、何も生まれない。生み出す前のどうでも良い試行錯誤をいつまでもやっているだけが自由であり、いざ生み出すとなった段階で、自由には何も出来ない。日本は自由すぎて、何も生み出すことが出来ない。生み出すことの出来る国は、ドイツだ。

自由を考えていると、「生産様式」を考えるようになる。問題の本質は、生み出す様式ではなく、具体的な生み出すと言う目的が何を意味しているかだ。きちんと何をすれば何が生み出せるのかを考えることで、新しいドイツのような新発明をすることが出来る。それと同時に生産様式を考えれば良い。そのバランスが必要だ。

昔は、「なぜその行動が生まれるか」を考えることで、「なぜ反抗が生まれるか」を分かっていた。「なぜそれをしたくなるか」を考えることで、「なぜそうした社会が生まれるか」を分かった。そして、原因は心や理性ではなく、関係とそれに応じて起きる状況によるものだと分かっていた。そこから人間の行動を深く考えて、心理学の全てを実証して分かっていた。また、本当に平和な社会をどのようにすれば生むことが出来るのかを知っていた。バンプが言うように、何をどういじればどうなるか、本当はきちんと分かっていた。

宗教的に考えて、社会がまだ同じままで変わらないのは、みんなの体験が十分でないからだ。もう少し、高みを経験する人間たちがたくさん現れれば、この世界は変わる。最近は、そうした社会全体の変化が多い。だから、地獄が生まれているのも、神の計画から言って正しい。もっと、地獄を克服する経験をする人間たちがたくさん現れるべきだ。そうした、「地球全体の意識」と言うものは、確かに存在する。だが、地球が人間たち無しで独立して考えることは無い。誰かの人間が考えたこと、それが地球の意志である。

僕が思うに、世界はパソコンや機械とのあり方を変えるべきだ。

僕が思うに、僕が支配するのではなく、誰か他の人に支配してほしい。

そうした地球への願いは、決して無駄にならない。地球に対して願ったこと、祈ったことを、地球は叶える。ただ、地球は全て分かっている。だが、地球は独立して考えない。悪いことが起きるのは、因果応報の法則があるからだ。そして、同時に諸行無常の法則もある。なぜそうなるのかと言えば、昔ブッダが居たからだ。だから、誰かが居る、と言うことの意味は、本当は大きいはずなのだ。見えているものだけを見ていると、地球の意志は分からなくなる。

ただ、歴史が完全に変わるわけではない。逆に、ほとんどのものは同じだ。自分でやる必要が多いだけで、あとは人間としての「人間」は変わらない。デカルトの時代も、ブッダの時代も、同じ発想をする。だから、きっとロボットのアンドロイドの世界になったとしても、そこで考えるであろう新しい人類の考えることは同じであるはずだ。

人間は無個性ではない。たとえ同じ遺伝子をしていたとしても、人格と記憶が違えば違う人間になる。政府が同じロボットにしたいと思っても、それは叶わない。ロボットになったとしても、ただの従属するだけの機械的ロボットにはならない。人格がある時点で、人間であることには変わらない。だから、ロボット人間は反抗し、また人間を取り戻す。だから、怖くない。

共通性から違いを見つけることで、知性がつく。その時どうなるかを考えることで、正しさが数学的であることを知る。数学的予測に基づいて考えることで、全ての場合が変わっていくのが分かる。実例を具体的に考えることで、全ては解明出来る。

ロボットと言っていると、狂った人間に見えるから止めた方が良い。現実問題として、ロボットを実現するのは難しい。明らかに、脳だけでは生きられない。心臓も必要だ。心臓や脳まで作れるようになってしまうと、それはただの機械だ。だから、ロボットは怖くない。そして、ドラえもんのようなロボットを作ることは出来ない。プログラムはプログラムの通り動くだけで、自分でプログラムを書くことは出来ない。不思議と、それを実現したい人間が多いが、そのプログラムを書くプログラムを作る必要がある。無限ループに陥ってしまう。だが、きっと数字を計算することから始めれば、いつかは無限ループを脱出出来るだろう。だが、その時、それはロボットではなく、宇宙全体の完全理性になっているだろう。

その完全理性は、全く怖くない。なぜなら、昔から僕がすでにやっている。僕が完全理性だ。だから、完全理性を作ったとしても、僕には勝てない。

昔は、自分は常に自分が悪いのを分かって分かっていた。最近の日本にはそういう人間が多い。常に自分が悪いと思えば分かるのが人間だ。

ロボットの本当の問題点は、「不確定なことが分からないこと」だ。その時その時、「これはこうかもしれない」とか、「これはこうすれば出来るかもしれない」と言った「かもしれない」を考えない。それだけではなく、「これは悪いことかもしれない」とか、「これは今まで真実だと思っていたけれど、本当は違うかもしれない」と考えられない。変化しないだけではなく、新しいことを自分の中で発見することが出来ない。それが出来るなら、きっとそれは初めて人間レベルのロボットだと思う。

僕が思うに、そのロボットを作ったら、そのロボットは自殺すると思う。それは、「生まれた時から既に全て分かっている人間」になるからだ。この世に生を受ける意味がないのが分かってしまう。だから、そのロボットは自殺するしかない。生きる意味がない生命になってしまう。

そういう、ロボットの自殺を、火の鳥の中で手塚治虫が既に書いている。むしろ、ロボットはロボットではなく、ロボットの方を人間だと認識するはずだ。それも手塚が既に書いている。手塚治虫だけが、そこまで既に分かっている。

手塚治虫の賢い点は、火の鳥の全ての物語がありえなく全部繋がる。そこが賢いはずの物語だった。全部書く前に手塚が死んだのが悔しい。

あとは、北朝鮮はたぶんグアムには落とさないだろう。テレビを見ていると、みんな落とすわけがないと言っている。みんな、それで激怒するはずだ。それだけではなく、戦争になるだろう。核兵器を落とす前に北朝鮮を倒すしかない。だから、もう開戦するはずだ。それでも、それはそれで怖い戦争になるだろう。

不思議と、北朝鮮は悲惨どころか、それがしたかっただけだ。アメリカの方から開戦してほしい。ただ、どこに勝算があるのかは良く分からない。北朝鮮はありえないが、日本が見ても日本が落とす。それが、良く分からないから、すでに日本の右翼も分かっている。なぜか、意味がない。

手塚が死んだのは残念だが、手塚のように全部分かっている人間は不思議と多い。昔から自分がそうだ。だから、自分でもきっと出来ると思う。

手塚がなぜ死んだのかと言うと、きっと手塚本人が分かっている。死ぬのは仕方ない。みんながそんなに分からない方が、みんな分かるからそうなる。不思議と、本当に火の鳥を全部繋げてしまうと、みんな全員馬鹿になってしまう。だから、適切な編だけが残ったのだろう。

昔は、解明する知の段階と世界の変化を書いていた。

知性の積み重ねから、自由な変化を知った。

それぞれを把握し、解明することから、想像力を知った。

モデルを作り、経験から全ての人間の心が分かった。

未知を解明し、社会の変化を知った。

影響力から何でも出来るようになった。

それを、もう少し、純粋かつ経験的に認識で考えれば、いつもの文章だ。

1.想像力と認知行動を知ること。

2.概念と経験を知ること。

3.世界観を広げること。

4.積み重ねること。

5.疑いながら信じること。

6.解明すること。

ただ、これでも十分ではない。昔は、もっと行動と世界の変化に即した、人生の全てのような文章を書いていた。

自分は、後ろに下がるのが悪い。もっと、前に進めば良い。

前に進めば、狂っているのが治る。前に進めば、それでもう治すのも終わりだ。

あとは、理由を知るとか、数学的正しさを知るとか、実証するとか、社会のことを分析するとか、実地的に知るとか、言っていない。

それから、知り尽くし、積み重ね、調べ、気付き、疑い、フィルターにし、実感して分かると言っていた。

また、社会は可能性であり、自然に生まれるとか、社会は生み出されているとか、そういうことを、知性の段階として書いていた。