新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-08=

社会の裏側を知れ。この世界の裏側を知って、全体を見よ。自分の今まで居た環境の意味を知れ。

新しい環境、今まで自分が居た環境とは違う環境を知って、今まで自分が居た環境の意味や理由を知れ。

高校生を永遠にやりなおせ。高校生の全員となれ。

自分が欲しかった友人関係を、もう一度、何度でも実験し直せ。

原理原則を発見し、積み重ねよ。原理やルールと自由を照らし合わせよ。

自分を、他人であるかのように客観視せよ。相手から見た、人々から見た自分の姿を知れ。

それぞれが、いつどんな風に何が出来て、自由で、権限があって、それを変えるとどうなるのか、何を変えて何が出来るのかを知れ。

人々には出来なくて、自分には出来ることが何なのか、みんなを超える自由とはどんなことが出来るのかを知れ。

焦るな。焦って失敗するくらいなら、最初からしない方がマシだ。

それだけになるのも悪いことではない。だが、出来るだけ常に全体を見て、周りを見て行動するべきだ。

今までしていた選択、人々が盲目的にしている選択を変えていけ。それはそれで悪くない選択だが、もっと他に賢い選択肢があることは知っておくべきだ。

自分や人々が無意識にその選択を取っているのだ、と言うことを自覚せよ。

子供がすぐにものごとを覚えるのは、記憶がそれだけになっているからだ。だから、それだけ、今だけになることによって、覚えることが出来るようになる。

昔は、人間の純情的なことや社会の形成的なことを、具体的な考え方とパターンで分かっていた。

日誌をつけることは悪くない。だが、今だけのみんなのこと以外、全てを忘れられるような経験をするべきだ。

社会は、どこから生まれてきて、何を目的として作られ、その結果どうなっているのか、から、考え、知ることが出来る。

歴史を、自然な経緯でありながら必然的な結露であると考えよ。全ては、歴史の必然で起きており、ある意味では間違いは無かったと言えるのだ。

行きつく先は、シェリングの哲学だ。全てのものごとは、同じ現象の現れ方の違いに過ぎない。

悪魔を否定せよ。神が教える正しいことと、悪魔が教える誘惑は、強く悪魔の方を否定すれば、すぐに賢い選択を取ることが出来る。

目的が同じで、やっていることも同じなら、それは同じだ。それを実証的に考えることで、原理を発見することが出来る。

愛とは、悟りの感情だ。そこでは、悪と善は同じ「目的意志」のものとして融和する。

経験的に、「それをその時どうするべきか」を分かることで、全ての世界を変えられるほど、全ての解決方法と変化の可能性を知ることが出来る。

自然にある全ては、同じものの現れ方の違いに過ぎない。

歴史が変わっても、起きることは変わらない。現代で正しい法則は、過去でも、未来でも、遠く離れた場所でも成り立つ。

行動や心の反応と、理性における仮定を賢く考えることで、不可能なことや未知のことを自分の洞察力で考えることが出来る。

論理の成り立ちと、それぞれが出来ることについての権限と、プロセスや経過、そして区別のない世界を考えることから、心理学、経済学、数学、生物学を作ることが出来る。

宇宙的な物理観を作ることで、宗教を考える物理的理性を作ることが出来る。

数学を作るためには、この社会のことを良く観察し、良く経験することが大切だ。経験から、必然的に数学的モデルが生まれるようになる。

歴史とは、現象とは、すなわち「意識」である。

全ては、意識の現象である。そして、変わっていく世界は「精神」である。

客観性とは、「絶対性」である。

理性とは、「経験的な本質を発見すること」である。

神をも理性的に考えるか、完全に物理的に考えるか、それとも、完全に従って反抗するか、がこの世界の解である。

自由とは、絶対的社会を理性によって作り上げることである。

そして、従いながら反抗することで、全ての秩序に勝つ戦いをすることが出来る。それは「禁断の遊び」である。

認識を最後まで考え、疑い続けることで、「普遍的な認識」を作り上げることが出来る。それが、「絶対知」である。

「善意で世界を変えること」で、世界は全てを吸収して変わらなくなる。それが、「不動の魂」である。

最終的に、神を信じて人は何も分からなくなる。それが、神による「罪と罰」である。

自分の経験から、この世界の全ての場が分かる。学校のような場所は自分だけで作れるようになる。

分からなくなっている際、起きる叫び声が誰にも聞こえられないまま終わるのは、その叫び声が求めているものが既に存在しないからだ。

無いものねだりは、神は、優しく見てみないフリをしてくれる。

求めているものは、今、自分が作っている最中だ。失ったと思っているものは、記憶の中にいつまでも壊れないままで残っている。

愛とは、自分の目でその体験を見つめることだ。

あなたが居なければ、それを見る人間が居ない。それに対処する人間が居ない。それが出来る人間が居ない。

だから、あなたは生まれつき、仕事を与えられていて、それがあなたの生きる意味であり、価値である。

望むべきものは、生きる意味ではなく、生きていく中で何をあなたがしていくべきかであり、それをするための手段があるべきだが、むしろ、今していることを続ければ、きっと良くなる。辛いことは、頑張ればそのままで楽になる。楽になりたいのは間違っている。頑張りたい方が楽だ。

神が存在しないからと言って、信じる意味が無いわけではない。

自分にしか解決出来ないと思って支配者になるのなら、地獄の主催者になることも許される。

本当の首謀者は誰か?そんなことは、どうでも良い。

考えている最中の言っていることがコロコロ変わる人間の方が、人間は何も変わらない絶対的王者となることが出来る。

最後まで経験し、この世界を全て分かった人間は、心が馬鹿でも賢い人間だ。

自分の頭で考えて分かる人間が男であり、自分の頭で頑張って分かる人間が女だ。

未熟な人間は、人の愛し方を知らない。

未熟な人間は、自分を変えることを知らない。

未熟な人間は、何が本当に意味があるのかを知らない。

未熟な人間は、愛とは何なのかを知らない。

未熟な人間は、悪と善がどのように進歩していくのかを知らない。

未熟な人間は、自分が今まで居たことのない、違う環境を知らない。

未熟な人間は、他人を自分より下だと思うばかりで、同じや上だと思わない。

未熟な人間は、チャンスを成功に導くことよりも、チャンスがあっても失敗して、チャンスが最初からないことを望む。

未熟な人間は、今の自分を受け入れることが出来ない。

未熟な人間は、過去のことを全て消え去ったものだと思う。

未熟な人間は、全てを終わったこととして、もう一度再考し、認識し直そうとしない。

正しく学習し、この世界のありようを知ることで、未熟な人間を脱することが出来る。

そのためには、仏教で言う解脱が必要だ。無明を克服しなければならない。

謙虚な姿勢を持って、人を尊敬せよ。

歴史を考えなさい。

他人が許す前に、自分が許しなさい。

他人を許す前に、自分を許しなさい。

人間関係から、社会の構築の方法、実践的成功論、そして歴史の成り立ちと意味を知りなさい。

昔は、経験的な知性の段階のようなものを書いていた。

まず、それがそうすると出来ることを知り、推論的な知性から、それがそうであることが何を意味しているのかを知る。

経験的に、価値観、社会問題、発想、人生の発見を知る。

一つ一つの仮想的世界モデルを作ることと、経験を照らし合わせることから、「応用的思考モデル」を作る。

そして、自由の拡大と、「変化の可能性」がいつ成り立つかを考えることで、社会的権限を知る。

発想と因果性から、全てのことは出来るようになり、自分で作り上げた数学的モデルと、感情の実証から、あらゆる全てのことが分かるようになる。

理想は運命を作り上げ、人々を変える影響力を持ち、実践的理性から世界は変えられる。

変わることを許すことで、人を救うことが出来る。

ありのままの世界の現象と自分との連鎖性を知ることで、世界と一体になれる。

経験し、知性をつけ、社会を変えられるようになる。

手段を想定することで、あらゆる発想がその時可能であることを分かる。

物理的法則も応用的に構築出来る。

心の存在する意味が分かる。

啓蒙と改革から、資本主義で出来る全てのことが分かる。そして、実践的な行動から、分かったことを実現することが出来るようになる。

繰り返しの中で、変わらぬ愛を知り、普遍的な宇宙の法則を知ることが出来る。

実感から、「全ては良い方向に変わっていく」あるいは「変えられる」と言うことが分かる。

潜在的可能性を知ることで、この世界に対する見方が変わってくる。

影響力の高みに立つことで、相手の自由を許しながら世界は変えられる。

助け合いを成り立たせることで、環境を作ることから自由を生み出すことが出来る。

支配者となる前に、人々に自分のことをきちんと教えておくべきだ。

生命の根源的本質は、仏の慈悲である、と言うことが分かる。

洞察し、人々の理由を知ることから、世界をどのように変えるべきかを知ることが出来る。

システムを知ることから、創造性と許すことが世界を変える、と言うことが分かる。

知性を付け、洞察力を発揮することで、世界は可能性であると言うことが分かる。

分析の力をつけることで、あらゆることを正しい方向に導くことが出来る。

相手のことを自由に出来る。

ありのままの世界観をすることで、全ては常に任されていて、常に自由である、常に変わらない、常に変わっていく、と言うことが分かる。

理想とは、ただ変えられることではなく、変えやすく、作りやすく、差異を認めやすくすることだ。

そして、全ての発想から、人類全員の全世界を知ることが出来る。

知性を吸収することで、全員を理解出来る。全世界を作り出せるようになる。そうした、「超人」となることが出来る。

人間社会は、どこへと向かっていくのか?

きっと、多様性の違いと、普遍性の同じのバランスを取りながら、弁証法的に世界は進歩していく。

進歩したからと言って、後の方が前の方より良くなった、と言うわけではない。

だが、後の方が、前よりも分かっている、とは言えるはずだ。

自由化し、権利を高めても、同時に格差や争いが起きるなら、それは理想の社会とは言えない。

腐敗させないために競争するのは、ある意味全員を奴隷にすることと同じだ。

だから、きっとユートピアのようにはならない。絶えず進歩し、絶えず変わっていく。その中で、発展があるだろう。

社会が変わる、と言うことは、この世界の全て、全部が変わることを意味する。だが、同時に、そこでも変わらない法則がある。

変わるものは、人間の出来ることや、機械の発展、豊かさ、楽、平等、自由、文化、新しいものや捨てられていくものである。

本当に正しい発展とは、それぞれの自由と自尊心を尊重し、少しの差異を尊重し、支配せず、押し付けず、それぞれがそれぞれの「自分らしさ」を持って生きる、と言うことだ。

だが、本当にそれが正しい発展か、と言うとそうでもない。本当は、ソ連のような全体主義国家になることも、理想の一つとして言えるだろう。それは、イデオロギーの問題ではなく、「社会の形態のあり方」としての、一つの経済と社会の形態である、と言えるだろう。検討することで、あらゆることを平等に選択肢や「制度の発明」として考えられる。昔は、そうした「制度の発明」を1つ1つ、着実に積み重ねて、原理原則を全て知って分かる人間だった。

全員が幸せになるまで、発展は続く。

完全に全てが変わる、具体的なものが全て変わる中で、何が変わらないのか、何が同じものとして成り立つのかを、制度、目的、方法、成り立ちの点で考えれば、昔の僕と同じようにこの世界の全てを経験的に考えて知っていくことも、誰にでも出来ることだと思う。

例えば、モンゴルのようになることも、サモアのようになることも、中東のようになることも、本当は自由に可能なのだ。それが、自由な世界だ。だが、真理や概念はどこでも同じであり、生活をしていること、文化を持っていること、言語を話すこと、経済活動をしていることなどは、同じである。具体的にそれが何なのかは、全く変わってくる。だが、その具体的なものも、何かの意味をそれぞれが違う表し方で表していると言う意味では、同じなのである。発想として、吸収することも出来るだろう。

古代ペルシャ帝国のように、それぞれの民族の自由を尊重し、そのそれぞれの文化を守ることによって大帝国を作る、と言った発想も、同じように可能である。

だが、統一することも悪いことではない。同じ文化としきたりを統一することで、「そのしきたりを必ず誰もがその際にしなければならない」と言う規範を作ることが出来る。規範とルールを統一することで、文化は自然にそれに応じて生まれてくる。文化とは統一であり、逆に文化とは自由なのである。

まず、原始人の行動までレベルを下げて、立ち止まってイチから考えよう。そうすることで、論理的に自分の思考が考えることから、この世界の全ての創生的なものを知ることが出来る。時代の文化や、芸術の発想と意味を、自分の経験と発想と自然な思いつきや可能性から知ることが出来る。自分に吸収し、自分で作り出すことが出来る。人々の違いは、環境の多様性を知ることで、自分の手で作り出せるほど、自分の心を融和することで理解することが出来るだろう。

自分の経験と人の行動・学習から、人がなぜそれをするのかを考えなさい。何が何を呼び、何を生み出し、何を思わせ、どんな価値観を作るのかを考えることで、人間がそれをなぜやっているのか、なぜそうやっているのかを、完全に掌握することが出来る。

歴史は繰り返す。昔は、ルネサンスが終わって、近代へと突入しようとする時代だった。今は、フランス革命が起きる時代だと思う。

昔は、みんなで共有して、一緒に作って楽しむことが好きだった。誰でも翻訳や返信が出来るネットを作るとか、そういう発想をしていた。あとは、学校にはオープンソースソフトウェアを使わせるべきだと考えていた。教育上の観点から言って、ソースコードが読めて自分で作れることは良いことだと思っていた。そういう、「明らかに当たり前のようにそのことが出来る社会を生み出すこと」や、ストールマンが言うような「自分のコンピュータが自由に使えること」のような、フリーソフトウェアの精神と、オープンソースの共有モデルは、いつでも変わらない普遍的な価値を生み出すレベルの思想に値するのだと思っていた。また、日本的文化と共通点が多いと思っていた。当たり前のように全てが楽に手に入り、全員が良い人間である日本は、オープンソースの目指す社会の理想像と良く似ている。また、そうした観点から、資本主義と社会主義の経済のモデルを考え方を成り立たせながら、良く考えていた。成り立ちから応用的に発想した。

自分の人生は、静と動だ。世界を完全に冷徹に止まったままで見る女と、ハリケーンのような嵐を起こす男だ。だが、最近はもう一つ、静と動でないものがある。それは、天であると僕は思う。ある意味、宇宙にほかに宇宙人の惑星がかつてあったとするならば、それは天に居る神である、と言えるだろう。最近はそういう存在だ。だから、静と動の地の営みから、天を創造した、それが僕の今までの人生だ。

僕は、全てが分かっているようで、一つ分かっていないことがある。それは、未来の自分だ。未来の自分がどうなるのかが分かっていない。そういうわけで、僕は自分のことだけを知らない。自分が何になるのかだけが、今でも分かっていない。それを神が教えている。

昔は、誰もがそうするだろう基盤や環境やルールを作れば、誰もがそうするだろうとしていた。それから、人間関係の自由の中でも、相手を導くことが出来ると考えていた。さらには、社会すらも支配出来ると考えていた。そういう風に、ある意味「世界を用意することで支配する」と言うありえない支配の方法を実践的に考えていた。発想や認識もそのように支配出来ると考えていた。

あとは、意志を考えれば良い。

それぞれに応じた環境を、その価値観の創造として与えなさい。

それぞれが、何をすれば上手く行き、何をすれば上手く行かないか、考えさせなさい。

知を与えなさい。

権力を与えなさい。

社会を作れるようにしなさい。

愛によって幸福になれるようにしなさい。

あとは、まあ、何かから何かが生まれるぞ、と言ったことが言いたかった。

共有から文化が生まれる。

価値観からルールが生まれる。

視点から場が生まれる。

多様性から融和と独立が生まれる。

そういう、なんというか、適当な自由な対応関係のようなものから、社会の「レベル的発展」を書いていたのが、昔の僕だ。

あとは、そうだなあ。地球とか、宇宙とか、仏教で言う人間の五蘊とか、そういうものを良く考えて書いていたと思っている。

ただ、僕はうろ覚えとあいまいな知識だけで、適当でいい加減な昔のことを書く傾向がある。

出来たら、そういう、昔のことだけじゃなくて、今のことを書いていきたいと思っている。

言葉遣いを、もっとカジュアルにしたい。好かれるだけではなく、嫌われても良いようにしたいと思う。

色んな適応をして、いつその適応になるか、適応がどのように決まるのかを考えることで、世界の全てを変えられる。

考えられないことを考えるために、分からない発想で分かることは出来る。たとえば、宇宙人とは何かを考える時、具体的な分からない発想をすると分かる。

学問は、具体的なものを先にやって、そこから根源的なことをやった方が良い。その方が悟るようになる。

環境は、自由な環境を先に与えて、自分が指導者として社会をまとめられるようになってから、一体的な精神を学ばせた方が良い。

世界はきっと変えられる。

自分が賢く見えるのは、この世界の人間的なことを全て分かってしまってから、本を読んでいるからだ。それで文章をほぼ毎日書いている。やっていることも時間も多い。

もう、書くことは特にない。だから、ここでもう一度さようならだ。本当にありがとう。

昔は、相対性、場、実感、機械、思い出す、チャンス、功利主義(有用性)、社会実現など、色んな観念を信じて、想起して分かっていた。そういうことを文章に書いていた。

文章は、社会の段階のようなことを書いていた。

権力者の社会、民主主義の社会、ファシズムの社会、など、色んな社会のあり方があるだろう。だが、最終的には、共存共栄の社会になっていく。争いは反省される。平和となっていくだろう。そこまでの段階として、自由や平等の争い、モジュラー型共同体、一人による支配、多民族の連合、民族独立、グローバル競争などが考えられるだろう。

あとは、学習や習慣のようなことを体験的に予測して、サルトルやヒュームのように人生を考えることが多かった。それらは努力によって後でも変えられる。

学習を良く考えることで、人は全てを完全に解明出来る。そして、人生の全ては予測出来、あらゆることを全部分かることが出来る。

日本は、個人の自由よりも良いものを目指す島だ。

ドイツは、王を個人主義にしたかっただけだ。

フランスは、まともに見えて狂っている。

イギリスは、功利主義的な自分勝手な自由だ。

そういう、差別と言うよりは、民族や国家、世界全体を自分の手で創造するような、そういう文章が多かった。

全ては、愛のために。この世界を本当の意味で愛するために、僕は存在した。

引き篭もり時代の自分は、環境が変わるのしか分かっていない。色んなことを実現したくて、色んな職業のことを分かっていた。

家族の知らないところで、色んな経験をしていた。家族と疎遠になったのは、悲しいようで悲しくなかった。

自分独りで、感情を耐えて生きた。孤独を紛らわすためにネットがあった。辛いようで、何も辛くなかった。

地上の全ての人間を経験した人間だった。全ての場と認識を吸収していた。全員の知性があった。場を変えられると思っていた。

友愛の精神、自発的な自由、積極的な手助け、教え合いと助け合いを信じていた。

最近辛いのは、その昔の引き篭もりが辛い。精神がおかしく辛くなっている。心が腐っているように辛い。

最近の子供世代にまともな人間が多いのは、子供は最近の何もない世界を普通の世界だと思うからだ。そこがまともだ。それが、大人に居ない。大人は、昔の色んなことがあった馬鹿な世界を普通だと思っている人間が多い。間違っているのは両方だ。昔も今も、どちらもおかしい。その理由で、狂っている人間が多い。どちらも拒否する人間が多いからだ。だから、出来れば今の世界を普通だと思った方が良い。

小池百合子が都民ファーストの議長を都議会で選出したり、仲間が日本ファーストの会を作ったりしているが、僕は自由党の小沢とつるむのが良いと思う。

景気が悪化している。特に、深刻な人手不足になっている。僕は、あまりに社会が多様化しすぎて、簡単に好循環を社会において作ることが出来なくなってきたのだと思っている。それから、働きたくない人間がどんどん増えている。ブラック企業だけではなく、ネットなども増えたし、何かがあった時のために家計の出費を抑えたりする人間が増えた。それこそ、アベノミクスの言っているような景気の好循環はもう起きない。そんなに単純な社会ではなくなっている。そして、漠然とした不安感のようなものもある。社会全体が馬鹿になっているようなそういう不安感だ。それは、誰かが悪いのだと思う。

僕は、今、この世界に変わってほしい。

僕の間違いは、何も起きない世界にしたことだ。

きちんと起きる世界にすれば良くなる。

そして、みんなを分からなくしたのが悪い。みんな、何も分からなくなった。

一度、世界を大きく変える。小さなところから大きなところまで、ダイナミックな動きを作りながら、流動的な世界にする。たくさんのことが起きるようにする。

滅びても仕方ない。世界には大きく変わってほしい。梅田望夫が言っていたように、本当の大変化はこれから始まるのだ。

従いながら反抗するのは止めるべきだ。従うな。悪魔のように世界に勝つのはおかしい。

悪魔を怖がるな。従いながら反抗しているものを倒せ。

もう、この世界は怖くない。自分が反抗しながら従うのが、一番怖い人間が多かった。もう世界は自由だ。