諦めてはならない。きっと、必ず出来る。
昔は、世界のことをきっと救えると思って分かっていた。誰もが「出来ない」と言っても、自分だけは「出来る」と言った。
人々は必ず救える。諦めてはならない。
最近は、むしろ、「出来なければならない」と考えていた。絶対に自分が救うしかないと考えて、そのために全力を尽くした。
だが、むしろ、「出来ない」と考えることは間違いではない。「出来ること」と「出来ないこと」をきちんと考えて、何が出来て何が出来ないのかを知ることで、精神は治る。
昔は、諦めない救世主だった。本当に、坂本龍馬のような人間だった。
諦めるな。この世界はきっと解決出来る。僕だけは、諦めない。
そして、ネットで世界を変えようとしていた。本当に、きちんと考えれば、自由でも社会の問題は解決出来る。そこから世界を変えていた。影響力を行使していた。
自由を諦めるな。自由でも解決出来る。それが、昔の自分だ。
ネットで社会のことを知って、自分なりに良く考えた。みんなの意見を聞いて、現状を分析し、何が出来て何が出来ないのか、自分なりに考えた。
希望を失うな。希望を信じ続けること。一度希望を失っても、もう一度取り戻せ。
経験が豊富な人間は、絶対に希望を見失わない人間になる。
一度、この世界の希望を復活させるために、希望を消した方が良い。おかしな希望のせいでみんなおかしくなっている。希望を作り直せば、この世界は治る。自分が悪かった。
最近は、失った希望を復活させるために本気で頑張っていた。そろそろ、その永遠の戦いを止める。希望なんかどうでも良い。
希望を取り戻すための戦いは、全世界を巻き込んで、新しい世界を創造した。
世界を救うのは自分にしか出来ないと思っていた。そして、時代は歴史の必然であり、人々は自分の不安を捨てるべきだが、許されるべきだと考えていた。信じることから、やりようはいくらでもあると考えていた。だが、人々はそんなに罪悪感を感じる必要は無くて、みんなで世界を作ることが出来ると思っていた。
ただ、あれはネットで世界を変えたのが悪かった。自分を知らないままで世界が変わってしまった。それを後悔していた。だが、今考えると、あれ以外にやりようは無かっただろう。
ネットで人々の意見を聞くことで、誰よりも日本社会の問題が分かっていた。
人々が絶望し、弱く儚い心の中で不安と失望を信じていても、僕だけは解決出来ると信じていた。
やりようはいくらでもある、何でもきちんと考えれば解決出来ると分かっていた。
何が出来て、何が出来ないのかを考えなさい。その環境では何が出来るか、どういう風にすれば出来ないことが出来るようになるか、考えなさい。そして、「みんなはそうなるのは仕方ない」と言うことから、「出来る自分がやるしかない」と言う結論を導き出しなさい。自分が解決し、人々を助け、解放し、世界を解決するのだと信じれば、出来ないことは何もない。そして、考えることは、正しい解決を生み出すだろう。問題はセックスでも暴力でもない。何が問題の真相なのか、きちんと考えて解決することなのだ。
いじめや犯罪が起きるのも、本人のせいと言えないことがある。本当の愛が無いこと、解決者が居ないこと、悟りが無いことが真に問題なのだ。
みんなの立場に立って、何をすれば解決出来るのかを考えよう。問題をただ解決するだけではない。誰が悪いのかを考える。そして、その悪い人間すら、本当は悪くない。もっと別のところに悪いものがある。そういう風に考えていると、全員は悪くない。立場と束縛の中で、仕方なくやっている。問題は社会を規定する制度と習慣だが、制度を全部変えれば良いのでもない。出来るだけ、「自由」にしなくてはならない。だが、その自由な中で、具体的な解決を行うのは、きっと可能なのだ。それを不可能だと思ってしまってはいけない。自分の力でも可能なのだと、諦めず信じること。抑圧や支配に負けないこと。昔の自分は、そういう風に考える人間だった。
あまり最初から多くを信じ込みすぎず、「自分でも出来るかな」と言ったところから考えると良い。全てを思索する上で、全てが解決出来るようになる。だが、逆に、「自分でも絶対に出来る」とか、「しなければならない」と考えることは、悪いことではない。不可能を可能にすることは、ナポレオンのように面白い。
昔は、ネット社会のことを知って、世界の広がり、真実の体験、愛、環境の気付きを発見した。そして、実践的な研究をやりながら、自分の力で大人のように全てのことを経験し、分かった。それは、ある意味、社会に出る前の準備段階だった。そして、最後に、運命が訪れ、僕はこの世界の王となった。戦いながら、絶対に世界を滅ぼさず、自由に世界を支配して、戦っていた。それが、文章を書く時代だった。表現がおかしいので、戦いをしていないように見えるかもしれないが、文章を書いて世界を巻き込んで戦っていた。それが今に続く。環境と真実の体験から、実践的社会実現となり、戦いの支配者となって、世界を導いた。ネットのルール形成から社会形成を知りながら受け入れることで青春を生きた子供は、きちんとした社会経験のある大人になり、運命的に全員を超えて、少年は神話となった。
ネットでいつ何が分かるかを分かっていたのは、環境基盤となるシステムを作り出すことに変わって、そのままロボットの時計になった。それらを、悪魔と言うことにする。ネットから歴史と社会の成り立ちが分かった。最悪の恐怖は世界を滅ぼす「滅びの風」となって、嵐となった。世界を怖がらせるだけをやった。
人間は、想定的、仮定的に考えることを、論理的な思考能力と言う。昔は、それが優れた人間だった。論理的に条件から何を実現出来るかを考えていた。与えられた前提条件から、あらゆることを実現出来るはずだと考える。最近、そういう人間でなくなった。論理的な人間は、賢くない。
どんな手段があれば、どんなことが実現出来るのか考えなさい。
昔は、そこから環境の形成やありえない都市の発想などを考えていた。
社会の全てのパターンと制度を、「どんな手段からどんなことが実現出来るか」から考えていた。
経験と機会を同様に考えた。「どんな機会からどんな経験を得られるか」を考えていた。
知、記憶、意識、自由、環境、因果性、多様性、共同体、認識、発想、心、原因、手段など、そういうことを論理的に、何がいつ可能になるかから考えていた。
何をどう許すべきか、出来るようにすべきか考えなさい。
意識することと、意識しないことは時に間違いを生み出す。意識しなくて間違えることもあれば、意識して間違えることもある。解決出来る場合もあれば、一度失敗すればもう一度元に戻すことは出来ないこともある。
昔は、それで言語哲学のようなことをしていた。ウィトゲンシュタインのように、「言語の限界」と考えていた。
こんなものは賢くない。こういう哲学者はつまらない。
独立国家を作って、連邦とし、それぞれの代表を選んで議論し、その議論に対して国民がきちんと見るようにしなければ、自由ではない。
あとは、それぞれの意見をどう集約するか、小さな社会がどのように生まれるか、承認と合意をどのように行うべきか、のようなことを良く書いていた。
不思議と、もう全部書けた。もう、残っていない。
小さな環境がどのように生まれるのか、から、世界がボトムアップ的に変わっていく発展や社会の制度を考えて、変化の許容性と言っていた。
もう、賢いことは言わなくて良い。これ以上は、普通のことを考えれば良い。
昔は、社会や理性の森羅万象のことを良く知っていた。きちんと知性と変化で考えていた。万物の流転を分かっていた。ネットを見ることで、社会の変化と行きつく先を分かっていた。みんなのことを自分と同じだと考えて、いじめなどに対抗する自由な支配を考えていた。
あとは、命題と方法を考えた。全ての命題に対して一つの方法を書く。そして、応用的なものを先ほどの手段や機会のように、その場その場で成り立たせたり、構造的に作ったりすることで分かっていた。自分がその社会に対して何が出来るのか、から、支配者や王のように環境のことを分かっていた。どんな環境にすればどうなるのか、どうすれば良いのか、きちんと知っていた。
批判と虚構に勝てるのは、正しさでも強さでもなく、善意と愛だと僕は思う。
昔は、人間がいつ何を知るのか、認識するのか、意識するのか、意図するのかを考えていた。そこから、環境がどのように生み出されるのかを考えていた。
全て試すのは悪い。試さずに分かっていれば治る。「正しいかどうか分からないから試して分かる」のではなく「試さなくても正しいのが分かっている」とすれば、治る。
あとは、治すのが悪い。心理学的に言って、治せば治るほど頭は狂う。もう、治らない方が良い。
昔は、具体的な環境の変化と意識から、人間がいつ何を知るのか、知っていくのかを考えていた。そして、人間の意識から、どう意図が生まれ、どう社会が生まれ、どう行動が生まれるのかを考えた。人生と思考も具体的に考えていた。何の変化が思考に影響を与えるのかを考えていた。
自分は、対話をしていると、いつも息をしていないのが悪い。脳が動き回って辛いのは、酸素が欠乏している。逆に、死んで治しているからこういうことになる。死んだ脳は、呼吸をすれば治る。もっと息をした方が良い。
これで終わりにする。書く意味がないから、もう文章は書かない。さようなら。
なんだかんだ言ってまだ書く。
子供がいじめをするのは、それでしか不安を払拭出来ないから、それでしか地位を保てないから、それでしか人間関係を構築出来ない(する方法を知らない)からだ。
子供を何の予備知識や準備のない状態で自由にすると、子供たちは誰か一人の特異なキャラクターをいじめることで友人関係を構築することしか出来ない。
そして、子供たちはそもそもいじめられたくないからいじめている。周りが信用出来ないのだ。それは、地域コミュニティが無いことにも言える。
いじめられっ子の方も、いじめる側のことを信頼出来ない。反抗出来ないのは、反抗することさえ知らないからだ。
解決するためには、正しい人間関係を構築する手順を教え、共生社会を築く方法を教えること、そして、社会的スキルや人生経験を作り出すことだ。
決まって、純粋で全くそういうものを知らない人間が、いじめられる側になるが、それは、同じようにいじめられる側になりたくないからだ。
今の時代、インターネットと言うものがある。インターネットでさまざまな人生経験や社会経験をすることは出来る。
インターネットを上手く活用することで乗り越えられれば良いが、逆にSNSに束縛されるなど、最近ならではの新しい問題も出ている。
僕としては、もっと一度作った友達コミュニティを失った時に、もう一度その子が復活出来るような、そういう社会を作ってほしいと思う。
僕の場合、小学生時代は活発だったのに、急に友達関係を中学校で失ったせいで、特異な子供として映ってしまった。
ただ、僕の場合、そんなにめだっていじめられていたと言うより、自分が自分でおかしくなっていただけだ。
仏教で言う、因果応報は、意識的なものにも言える。因果応報と客観視・客観性から、環境的な「自我の創造」を知ることが出来る。
宇宙的な意識や宇宙的な実感から分かる。神の自我のようなものが分かる。
そして、地域の歴史のようなものから、社会の歴史的な変貌のようなものを分かっていた。
目を良くするためには、景色を「巨大なスクリーン」として平面的に見るのではなく、「一本道が延々と長く続いている」かのように直線的に見ることだ。
視線の角度を、出来るだけ大きく、細長くする。そして、近くを見るのではなく、負担を少なくして、目と目を離して見るようにすれば、目は良くなる。
呼吸すると、若返る。
呼吸していると、昔の自分に戻る。脳が一つ一つ言葉で戻っていく。馬鹿になった脳が、一つ一つ言葉を遡って治っていく。
元に戻るのは、段階的に昔に戻っていく。酸欠からめまいに戻り、恐怖に戻る。恐怖は安心を連れてくる。知性を復活させ、知性を修復する。意識が高まる。
そこで終わりではない。絶望の精神を治し、高校に行きたくない少年に戻る。一人ぼっちから、がり勉に戻り、カードゲームに戻る。
いじめ、ネットでの楽しい会話、セックス、迫害の精神病を治すことで、心が狂っているのが治る。
ネットの、余裕のあった正常な子供に戻る。
呼吸すること。呼吸することで、全ては正常になる。どんなにおかしくなっても、呼吸すれば治る。怖いのは、昔の自分に戻るのが怖いだけだ。
良く考えると、自由が悪い。自由と言うよりは、自分勝手な支配者だ。そういう発想が悪かった。
一つ一つ知性を復活させていって、今の自分だけではなく昔の自分も治して行けば、知的障害は治る。そのうち、分かるだろう。
心の中には、自分が自分で置いたものしかない。
あとは、確かめる愛のような文章を書いていた。
平和とは、それぞれが理解と認識をする中で、平等に社会を築くことである。
正しさとは、真理だと自分が思ったことを信じるに足ると言う評価基準を定めることである。
本当に正しくなくても、正しいと思うことは出来る。
思いやりの社会によって、人々は平和となる。だが、そこには自由と経験と進歩が必要だ。
そういう、社会の「愛」を確かめるかのような、そういう文章を書いていた。それを、AAAは「酔っぱらった臆病者の唱える無責任な優しさ」だと言っている。
思い出すと、昔は高校に行きたくない子供だった。父親に対して乱暴な言葉をかけてしまったことを、今でも後悔している。父親は何も悪くない。
父親に対して「父さんが悪い」と言ったことの真意は、あくまで自分を学校に入れないでほしかったことであって、何も父親の教育や人格を否定したかったわけではない。
本当に申し訳なかったといつも思っている。なぜなら、明らかに今考えれば、学校に行っていた方が良かったからだ。
僕にやりたいことはもうない。昔は心理学や物理学のようなことを分かっていたが、それは大学に行かずに一人哲学者のように考えていたからであって、大学でやっても馬鹿になるだけだ。
大学の学問で言うなら、生物学をやりたいと思う。でも、僕はもう大学の勉強はしたくない。
そうすると、何をすれば良いのか分からない。むしろ、そんなにすぐに分かって、常に判断し、常に頑張っているのを、そろそろ止めないと、何も出来ないだろう。
ある意味、学校に行かなくて良かったのは、立ち止まって独りでこの世界の全てを考えられるような、「余裕」を持てたことだ。だから、僕は学校の「ゆとり教育」にはあまり批判的でない。むしろ、ゆとりと言う意味をもう少し変えた方が良い。ゆとりある教育を行うぐらいなら、教育内容を自分で選べるようにした方が良い。どんなクラスに入るか、どんな教育姿勢で臨むか、全部自由にした方が良い。そういう自由は悪くない。僕はネットとUNIXのことを知りながら、完全に自由な中で取り組むことで、良い意味でも悪い意味でも自分次第のやり方をして、たくさんのものに影響を受けて、たくさんの社会と経験を知って分かった。ああいう風にするのも、ある意味で理想なのだ。僕以外の人間に同じことが出来るとは思わない。それでも、僕は考える余裕と行動する勇気を大切にしてほしい。
真理とは、原理であり、見つけ出すこと、適用すること、一致することと比較することから新しい結果を繋げていくことだ。
日本の文化を、特に建築や言語のような観点から、知ってみると良いかもしれない。
昔の自分のおかしな点は、「自分のせいでLinuxは日本では普及しない」と考えていた。そこがおかしい。本当は、そのせいで辛くなっている。
昔は、先ほどのような、そういう軽いいじめだった。本当は、ただ自分のランクが急に下がったように見えて辛かっただけだ。人間関係を全て失い、もう昔の友人たちとは会えなくなった。悪い中学校だったと言うのもあるかもしれない。
哀しい。今思えば、そんなに悲惨ではなかった。母親と良く似ていて、話ながら相手を不安にさせることがある。父親と良く似ていて、父親も会社の工場を出社拒否になったことがある。父親はその後に大学へ入り、物理学を学んだ。自分と良く似ている。
YouTubeのピコ太郎のような人間が馬鹿に見えるのは、「自分は馬鹿だからいじめられても仕方ない」と思っている。だから、馬鹿になっている。僕と良く似ていると思う。
良く考えると、2ちゃんねるの友人たちは悪くなかった。良い人間が多かった。不思議と、2ちゃんねるで言うことを嘘や荒らしとは言うが、現実で言うことと同じことを言っている人間しか居ない。良い人間も多い。彼らが好きだったのが自分だが、匿名ではもう一度会うことが出来ない。本当に、高校に行った方が良かった。自分の間違いはそれで、たぶん、高校の友達が全く居ないせいで、自分は知らず知らずのうちに不幸な人生を生きている。誰か、親友を作っても良いかもしれないが、ネットの友人関係は、止めた方が良い。
こう見えて、僕は経験と想像力が分かっていない。昔は、本当に、経験と想像力で戦いを経験しながら、この世界の全ての「経験的世界モデル」を条件的に作っていた。仏教のような悟りを開いていた。仏教を見ていると、本当にきちんと悟っている。仏教のような文章を書いていたのが自分だ。
それから、心理学を見ていると、僕は統合失調症のPTSDになっているなと思う。昔は、双極性障害のアスペルガーだった。
あとは、無かったように見えて、法律や芸術が多かったのが昔だ。そこらへんを全く覚えていない。なぜか、生物学のような超越した歴史を考えていた。また、ITの当時の先進技術のようなものを良く読んでいた。それから、物理学のようなものも多かったと覚えている。「自分でそれをしたらどうなるか」と言う観点から、他にも建築のようなことを分かっていた。
思えば色々とあった。場を見ながら、自分の経験で、社会を生み出す共有と独立性を考えていた。ディズニーランドのような多様性のある国を目指していたところがあった。創造性とは、ネットの「なんでも作るよ」さんのようなことを言っていた。
昔は、戦いながら社会の具体的段階、プロセス、変貌のようなことを言っていた。そして、神のようなことを言う。宗教のように、ありのまま、自分らしく生きられるようになれば、きっと自由な社会になると言っていた。
終わりにする。これで、本当に終わりだ。ありがとう。さようなら。