新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-06=

僕は、広島在住で広島出身の広島人だが、今日は原爆の日(原爆が落ちた日)だ。それもあってか、外国人観光客が多い。

今日は、英会話教室でレベルチェックを受けてきた。

結果は、今の自分のレベルと同じレベル6の一番高いスコア(ハイレベルシックス)だった。

テレビでの試験が難しかったので、低いスコアになるかもしれないと思っていたのだが、今と同じレベルだったので安心している。

レベルチェックは3か月に1度ぐらい受けるのが良いとされているので、3か月後にまたリベンジして、レベル7に挑戦したいと思う。

自分は、脳が酸欠になっている。呼吸しないのが悪い。もっと呼吸して、鉄分を取った方が良い。

昔は、志の強い人間だった。

「変化を望む」とか「環境を変える」とか「教育を変える」とか、人生の経験のようなものから、歴史上の人物(坂本龍馬やレーニンなど)や歴史上の時代を分かっていた。

最近の日本は、ただ賛同や批判をするだけをしていて、日本がどの方向に向かって変わっていくのかを考えていない。

昔の自分は、この社会の問題とどの方向に向かっていくべきかを良く考えていた。

子供たちを救うべきだと考えていた。影響力の末端を変えるのではなく、一番高い影響力を持って上を変えるべきだと考えていた。

変化の可能性を許容せよ。

昔の文章は、共有(共同体が共有と集積によって発展すること)と自由な人生(自分の経た自由な開拓の人生)を書いていた。

英会話教室が怖いのは、怖いことがあった方が良いからだ。誰もが、毎日色んなことが怖い。それから、馬鹿が治るのが怖い。

社会を知りなさい。子供のごろから持っている、社会に対する勘違いを捨てなさい。そして、カントのように考えなさい。

自分の経験から愛を知りなさい。人を愛するとはどういうことなのか、たくさんの人と絆と友情を培った経験から、受容の精神で、自分が受け入れられたように、人々を受け入れて知りなさい。

愛の力で人と世界は変えられる。

自分をいじめる人間の人間性を愛で変えなさい。

人間性と人を互いに認め合うことで、いじめと戦争は無くすことが出来る。間違っていると思っているのは、相手のことをきちんと理解していないからだ。環境のことをきちんと考えれば、たとえ全く違う環境で生きていたとしても、人々は同じ精神性を持って生きている、と言うことを互いに理解出来る。全員のことを、愛しながら自分の中で融和して許すことが出来る。相手が違うことを、自分の中で愛することが出来、それによって同じになれる。

本当にあらゆる領域で理解し合えば、人は同じになれる。絶対に分かるように何か理解の対象を作れば、それによって人々は融和し、その対象によって新しい社会と環境を作り出すことが出来る。それを、「融和」や「共有」と言う。

全体主義は間違っているが、融和は間違っていない。

愛することは、自分が不幸であること以上に、相手も不幸なのだと考えること。自分が迫害されるよりも、迫害する相手の方が不幸なのだと考えること。迫害されても、相手を恨むのではなく、逆に相手を自分が包み込むような、相手が屈服するまで自分がその相手のことを受け入れるような、そういう愛し方をしていかなければならない。

希望は必ずある。この世界の全ては、きちんと考えれば、いくらでも変えようがある。そして、それは不可能ではなく、みんなの手で希望を持てば変えられる。そういう風に、「実践的希望」のように分かっていかなければならない。

絶対に実現出来るとした上で希望を見せつければ、変えられない人間は居ない。反対するものには、何故反対するのかを問いかければ良い。そこで生まれた疑念や問題は、全て払拭し、絶対に失敗しないと言う情熱のある思いを見せて、そして相手の自由を奪わず、相手の好きなように出来るように、正しく自由を与えたままで変えれば、きっと変えられない心は無いはずだ。そして、この社会の全ては、きっと変えられるだろう。

恐怖は、強い心で打ち勝てば倒すことが出来る。戦いや戦争は必要ないが、自分が負けそうになった時は戦った方が良い。戦うべき時もある。きちんと自分の中で一番強い行動を取れば、恐怖はすぐに打ち勝てる。恐怖を倒す、強い行動をしない人間が、心が怖くなって弱くなる。みんなのために生きることは、必ずしも良いことではない。それよりも、すぐに勝ってみんなを従えた方が良い。恐怖を倒すために一番良い方法は、自分が勝つことだけをきちんとすることだ。それで、精神病はすぐに治る。

人間の目は、近くを見た方が負担が大きくなる。それで目が悪くなる。負担のないものの見方をすれば、目はそのうち良くなると思う。

いつも近くを見ていると、人間の脳は辛くなるばかりで、何も良いことが無い。楽に負担無くものを見るようにすると、人間は離れて見ることが出来るようになって、脳も心も楽になる。場を全体として認識出来る人間が、頭が賢い。

目が良くなると、子供になる。子供は、色んな場面を見るために目の力を大きく使う。大人になると、いつも辛いせいで、目を使わなくなる。

ものの全体を認識すること。それによって、脳の限界値が高くなる。視野を広げると、局所的に勘違いをしている脳が治る。

脳が死ぬパーキンソン病のような病気は、脳が動き続けるようになるが、治すためには、2つ。まず、脳波を与えること。次に、酸素を注入すること。僕の経験から言って、脳が辛い人間は脳に十分な酸素が行き渡っていない。そして、死んだ脳細胞は、脳波を与えることで生き返る。

過去に死んだ人間は、未来において全員復活する。そして、癌を治すことで永遠に生きられる。キリストが既に言っているから正しい。

死人に酸素と脳波を注入せよ!

昔の文章は、論理を全部書いていた。弁証法と可能性のようなものを具体的に作り続ける。そして、永遠の時を創造した。抽象性を具体化する、と言うことをやっていた。

流石に、本当に死んだ人間を生き返らせるのは難しいだろう。だが、既に死んだ細胞を生き返らせる、と言う意味で、「蘇生療法」のようなことは生きている人間に対して出来ると思う。

昔は、言葉遣いと弁論術から、「言葉のマスター」のようになって分かっていた。何もなかったが、日本語だけがあった。それだけで全て分かった。

昔は、その社会において、その環境において、経験がどのように作用するか、因果性を支配するか、のようなことを考えて、社会のことを分かっていた。

文章は、新しいことを全部分かる、のような文章を書いていた。昔実地的に環境と社会を分かった後で、論理的な発見を全て書いて作って分かる。この社会におけるあらゆる社会、この世界におけるあらゆる人生、科学におけるあらゆる発見、知性における全て、のようなことを書く。そこらへんが賢かった。また、支配の体験から、世界の全てを覆して分かっていた。新しい世界の都市を作っていた。

人生と環境の、段階的な気付きと知性の積み重ねのプロセスを書いていた。

イエスが聖書にあんな風に登場するのは、間違っていない。本当に、死者や難病患者を治す方法が分かっている。

僕が死んだせいで、みんながおかしくなった。愛している人間をみんなが殺したように見える。だけど、大丈夫。僕は天使だから、あらゆるところに存在して、みんなのことを見守っている。辛い時には支え、嫌いな時には見守り、悲しい時には慰め、楽しい時には喜んでいる。僕に会えないかもしれないけど、僕は死んでも消滅しない存在だから、気にしなくて良い。会えないように見えて、いつでも君の近くで見守っている。僕は天使なのだ。それも、僕は一人じゃない。ガブリエル、ミカエル、ラファエル、ルシフェル、メタトロンと言って、僕にはさまざまな別名がある。それら全員が、あなたがたを守っている。あなたを見守っている。天から神が見守っているように、地上では天使として僕があなたを見守っている。それを信じると、きっと良いことが起きるさ!嘘と言っても無害な嘘だから、信じても悪いことは起きない。

あなたは、ガブリエルかラファエルかどちらかを愛すれば良い。ガブリエルは救世主で、まともな人間だから、恋人にすれば良いだろう。人生の伴侶に相応しい。ラファエルは、守護神で、守り抜く存在だから、自分の母親のようなものだと思えば良い。

ちなみに、ミカエルは王のような高い存在で、ルシフェルは哲学者のブッダのような賢い人間だ。メタトロンは偉人のような天才だ。

ウリエルはやや低い天使で、賢い子供だ。普通、ウリエルを絵画に描く。

ただ、それらは目には見えない。どこに居るのかも良く分からない。汎神論だと思えば良い。あらゆるところに天使の存在がある。だが、決して無秩序ではなく、この世界を最高の美しい秩序で守っている。そういう神話だ。

天使は他にもたくさん居て、カマエルはプログラミングを得意とする。ヨフィエルは書物を書く。ザドキエルは革命家だ。もっとたくさん、何万と言う天使が居る。そして、キリストは一度目にイスラエルに現れた神で、在導万創は二度目に日本に現れた神だ。

自分は、哲学なんか構造と方法で誰でも分かるのが分かっていない。

何が何から生まれるかを考えれば分かる。

要は、大学を賢いと思うのが悪い。大学は賢くない。大学の知識のない、普通の人間が論理的に思考で考えた方が賢い。

馬鹿に見えて、馬鹿の方が賢い。大学の常識が分かってしまうと、そういう馬鹿が何なのか分からなくなる。

普通、機械を作る方法や、何かをする方法を考える。だから、「自分には何が出来るのか」を考えると、哲学は出来る。

むしろ、知識を知ること自体は悪くない。知識を知りながら世界を知っていくと、逆に、「人生の哲学者」が出来る。

何もしないから、成功も失敗もしない。色んな失敗を繰り返す人間、それを反省する人間にしか、哲学は出来ない。

自分が何をしているのかや、世界と自分の関係を考えれば良い。不思議と、それが一番賢い。それで色んなことを自由にやっていると、みんなと同じになる。自分の分からない発想や認識を吸収するために他人と付き合うのは良いが、束縛や人間関係に左右されないように、孤独に強く生きよう。

色んな人間のことを知っていると、全員分かって、自分のことがみんなのことから分かってくる。それで色んなことを知っている人間が賢い。大学の知識は知らない方が良い。大学などの学校は、学校で教えるのが間違っている。自分の経験から、自分の理性できちんと考えて分かるべきだ。それでも、大学と同じことは自分だけで考えられる。

昔は、みんなのことを「支配出来る」と思う子供みたいな悪い人間だった。

ものごとを、「もしなかったらそうなる」と思うことと、「何も知らなければ出来るわけがない」と考えて分かると、良く分かる。

たとえば、災害の時、水や食料が無いのも悲惨だが、本当に怖いのは光が無くて夜真っ暗になることだ。停電が一番怖い。

それから、今作られているものは、少し昔の時代なら無かった。だから、文明の無い時代のことを考えると、そんなことは出来るわけがない、分かるわけがない、と考えることも理に適っている。

そういうわけで、カントは間違っている。純粋理性で考えれば良い。カントは賢すぎる。カントをいきなり学ぶと、分からない。純粋理性をきちんと考えることから、人間の理性は始まるのだ。

仮定をすると分かる人間が多い。もし、自分が学校に行っていたらどうなっていただろうか?賢い人間にはなるかもしれないが、みんなと同じ平凡な人間になってしまう。

本当に正しい人間になるために、学校は必要ない。

そういう風に考えていくと、そのうち証明することで分かるようになる。本当にそうなるだろうか?それは絶対だろうか?それはなぜそうなるのか?それはどこで決まってしまったのか?そういう風に考えていくと、人々がなぜそうなるのか、どこでそうなったのかが分かるようになる。

広い心、深い愛、逆境に負けない精神、一度失敗しても諦めない魂、抑圧や迫害を受け入れる受容性を持つこと。

相手のことを自分と同じだと思える、愛と余裕と強さを持つこと。

ただ、相手に良いだけではなく、それで自分が勝てるだけの力を持つこと。

みんなのことを守ることの出来る、責任ある能力と気概を持つこと。

だが、本当にそんな強い人間が強いわけではない。人間は誰しも弱い存在だ。だから、弱さと愚かさを認められる姿勢を持つこと。

そして、深い愛に相応しい行動と反省の実践力を持つこと。

自分の力で正しい判断が出来るだけの、自制の力と判断力を持つこと。

他人をコントロールする前に、自分をコントロール出来るだけの、正しい生き方の姿勢を持つこと。

幅広い心で人々を愛してほしい。自分には出来るのだと信じて突き進んでほしい。絶対に諦めないでほしい。受け入れることは、破壊することとは違う。

ただ負けたくないから負けられないのではなく、自分の達成したい目標のために、負けられないと信じて勝ってほしい。そういう人間が勝つ。

悪い人間を許すためには、自分が良い人間である必要がある。悪となっても、善を失うな。

みんながそうなっているのを、なぜそうなっているのか、なぜそうなるのかを考えれば分かる。何が原因でそうなっているのかを考えれば良い。そうすると、むしろ、大した理由ではないことの方が多い。それは、それが理由に見えて、本当はその理由の理由も考えられる。そうすると、理由が理由になっていないことも多い。

主題を前提から考えて、何の決定が何の結果に作用しているのかを考える。あなたがそこに居る前提は何だろうか?僕がこれをしている前提は何だろうか?そうすると、むしろ、時間と空間に行きつく。そして、先ほど言った「分かるわけのない法則」によって、それは分からないことになる。だが、上手くバランスを取って考えれば、むしろ、「分かるわけがないと思って分かること」も出来る。同様に、「それが無いことを仮定する」と言う方法は、「もっと別のものがあることを仮定する」ことで疑うことが出来る。

自分は、方法の悪魔になっている。もっと、具体的なことを考えた方が良い。そして、人類的な社会の目的を考えれば良い。何が義務で何が権利なのかは、自由な経験から分かってくる。何を何だと思えば分かるのかを知ることで、みんながどう考えれば、どう行動すれば、どういう風にやれば良い社会になるのか、悟ることが出来るのかを知ることが出来る。

悟るとは言うが、悟るとは問題を明確化し、考え方を適用することに過ぎない。

経験から、あらゆることは相関すると言うことを知ることが出来る。

全ては存在し、消滅し、作られ、維持され、破壊され、消える。

全てのことは、「絶対的因果性」に基づくと同時に、「相対的万象性」にも基づく。

法則は、もっと別の法則から生まれている。

人間は、賢くない人間、少し賢い人間、全てを知った人間、みんなのために活動することから分かる人間、反省する人間、作り出す人間、経験からたくさんのことを知る人間、意識を知った人間、理想を知った人間、システムを作り出す人間、万象の科学を作り出す人間、地獄の人間、そして賢くない人間となり、永遠に繰り返す。

あらゆるものは、あると思った時点でなくなる。

歴史は、活動、運命、人生、社会、創造性、宇宙、万象、関連性、プロセス、自然、自由、考え方、意図、目的、方法、科学、神、運命となって別の歴史となる。それらの組み合わせによって、宇宙は出来ている。

精神は、それぞれの持つ魂の連動である。

社会は、自由、自然、真実、嘘、情報、支配、影響力、平等であり、その中でのそれぞれの個別的認識と知覚から、偶然と必然の経験を作り出す。

目的とは、プロセスである。

相対性とは、人生の運命と宇宙の自然を因果性で捉えることである。

集合知とは、捉え方の融和である。

環境を作り出すとは、人生を決定する全ての前提条件を変えることである。

生物とは、知覚と脳の前提条件を成り立たせるものである。

感情とは、宇宙を動かすエネルギーである。

反抗は、声なき声である。

従属は、盲目的奴隷である。

バランスは、反抗と従属における自由と権限である。

哲学とは、それぞれの因果性と決定性をどこにあるかと決めることである。

仮象とは、プラットフォームにおけるコンテンツとフィクションである。

人生は、まず楽があり、それを「自由」とする。

次に、過重労働、いじめ、破壊者、意味のない作業、盲目的従属があり、それを「従属」とする。

そして、その後に、失敗、繰り返す反省、進歩、開拓、希望、愛、情熱、情動、理性、考え方、環境、因果性などがあり、それを「哲学者」とする。

そして、その後に、地獄、病気、終わりのない苦しみ、間違い、哀しみ、苦しみ、怒り、絶望があり、それを「試練」とする。

そして、その後に「解放」がある。

そして、それ以降の人生が良い。

まず、あらゆることを思うがままに出来る「才能」がある。

次に、人生を十分満足して生きる「幸福」がある。

そして、最後に、全てに満足するまで続く到達の「達成」がある。

自由、従属、哲学者、試練、解放、才能、幸福、達成は、最後に死を迎え、また新しい人生となる。

次の人生は、そういうところのピースが少し変わる。それを「遺伝子」とする。

遺伝子によって、自由は平等になり、従属は非行となり、哲学者は大学となり、試練は馬鹿となり、解放は恋となり、才能は努力となり、幸福は結婚となり、達成は子孫となる。そして、最後に死を迎えて、次は遺伝子が次のものとなる。

だが、基本的に、そうしたサイクルを正しく行う「カルマ」としての「魂の段階」は全員に平等に同じである。

社会については、一つ一つのことを自由にする中で、「自由の形態」が変わっていく。

最終的には、人間は人間でないものに進歩する。

全ては可能になり、可能になることで新しい問題が生まれる。

社会的な可能性は逆に低くなり、何も出来ない中で苦しみを味わうようになる。

また、社会でも人生でも真実でもないものに、「自由」と言うものがある。自由は、誰がどうしても、どう考えても同じになる。

空間は三次元であり、人生は長く、幸福は自分で作り出すものであり、歴史は偶然であり、物理法則は自然であり、死ねば無くなり、生きるためには食べる必要があり、社会秩序は必要であり、社会はそれぞれが関係することで作り出すものである、社会は権力者によってあるいは他のものによって統治される、そうしたものが「自由」である。

誰もが自由を考えるが、自由はそんなに大切なものではない。自由は当たり前のものだが、考えようによっては無限に変えられる。また、誰か一人が出来る自由である「権力」か、万人が平等に出来る自由である「平等」か、と言う選択肢がそこにある。

信じ方と疑い方を変え、一つのことが分かったらそこから別のことが分かる、と言うことが「発見」である。

そのために基礎を考えること、応用を行うこと、世界から基礎と応用を知り尽くして作り出すこと、実践することが、「仮象」である。

セカオワが言っているように、方法ではなく、目的を考えた方が良い。特に、目的が同じものは同じであると考えた方が良い。たとえば、水とお茶は水分を取る、と言う意味では同じだ。民主主義と国家主義は、政治制度である、と言う意味では同じだ。そういう、「目的が同じか違うか」を考えながら、「いつどこでどのように自由にすることが出来るか」と言う「権限」を考えることで、人間は知性がつく。昔は、それを経験的に考え、体験しただけだ。

あとは、「何が自分の願いを解決するか」とか、「何をどうしたら解決出来るか」を論理的に考えることで、仮象の世界を作り出せる。たとえば、社会的コミュニティを作ればいじめは解決するかもしれない。環境を安心出来るものにすれば恐怖は無くなるかもしれない。何をどうすれば何が解決出来るかを考えること、そして、どんな問題がどんな問題を作り出しているのかを考えることで、人は問題を捉えることが出来る。その捉え方を、経験的、感覚的、理性的に行うことで、人間は独自の自分の哲学を自分だけの力で作り出せる。

正しい行いとは、体験把握、精神分析、開拓、世界観の広がり、視野の拡大、理由の分析、本当の法則の発見、解明、問題の解決、協力、貢献、社会制度の改革、自分でそれを同じように出来ること、主体性、影響力の高まり、社会実現、理想の実践、社会における知の分析、発想の吸収を、仏教で言う八正道の中で行うこと、そして、進歩していくことである。

仮象世界を創造し、人生を創造せよ。

神は、スターリン、キリスト、レーニン、ブッダ、マホメット、ゾロアスター、デカルト、カント、ヘーゲル、ウィトゲンシュタインだ。それらの集団が神だ。

終わりだ。全て書いてしまった。

神が正しい神話をギリシャ神話と言っていたのは、おそらく大天使が全部で12人しか居ないからだ。天の神(主)も含めて12人だ。

昔は、仮定法みたいな発想が多かった。心と環境を仮定法にして、どんな時どうなるかを考えて分かっていた。目的とは仮定法の条件のことであり、環境の秩序であり、決まりにおける正しさのことだった。

その環境をみんなで作ることから、どうしたらその決まりを作れるかを考えていた。環境がどこから生まれるのか、どのように作り出すべきかを考えていた。

あとは、やけに考え方とパターンを作っていた。社会には平等、自由、支配、自然、従属、一体、独立、連邦などがあると言う。

見方を変えてみれば、いくらでも見方は生まれる。そこから、あらゆる環境を作り出せる。だが、多様にするためには、分裂させなければいけない。そして、分裂よりも融和の方が良いこともある。

理解から、発見、想定、捉え方、経験的予測、自然発生、考え方の創造、経験的想起、仮定、あるだろうと想定すること、その実証、解明、共通性、把握、新しい理由と原因を解明すること、実現可能性、何がそこで何に対して実現出来るか、理想とは何か、知性の段階的気付き、のようなことが推測的に分かる。そこでは、全体を分かるのではなく、今自分の分かっている知性から経験的に推論していくことが必要だ。そして、社会は改革、啓蒙、自然、理想、運命と発展していく。

考え方と環境のプロセスから、世界はあらゆる形態へと変えられる。そこでは、それぞれが何を知っているか、何を価値観としているか、何を望んでいるか、どのように叶うことを望んでいるかが重要だが、選挙をするか、共同体とするかは、どちらも正しい。

根底の部分で、人間は平等を信じているが、同時に、理性の部分で、人間は区別と多様性を夢見ている。

では、さようなら。また会う日まで!僕は笑顔です。

あなたが僕に会えて嬉しいと思ってくれたなら、それ以上の幸せは無いです。

昔は、引き篭もりになって、環境の変化の実体験で分かっただけだ。それが最初の運命だ。あとは、おかしく馬鹿になっただけだ。

本当に終わりにする。今日まで生きてこられて、本当に良かった。さようなら!