新・日記2に戻る | 2017年8月の日記に戻る

=2017-08-04=

今日は、福山まで行って帰ってきたので、少し疲れた。

僕は、昔から、古代ギリシャやナポレオン、明治維新など、社会の革命期や繁栄期、動乱期、転換期に憧れる。

日本にも、明治維新と言う時代があったが、明治のことをもう少し知っても良いかもしれない。

昔は、人間性によっていじめを考えていた。人間的な社会にすることで、いじめは自由なままでも解決出来ると思っていた。

科学のことを、自分の経験から、「なぜその教えている内容が賢いのか」と言う、正当性で分かっていた。

僕は、一人、賢い人間を決めて、その人間のことをやっても良いと思う。

作家なら、サンテグジュペリ、ゲーテ、ドストエフスキーなどが居る。美術家ならラファエロやベルニーニ、音楽家ならベートーヴェン、ホルスト、ショパンなどが好きだ。

ギターが好きな父親世代なら、ボブ・ディランでも知れば良いだろう。モネやルノワールを美術系の大学で習う人も居ると思う。

30歳ぐらいになると、そういう賢い人間を一人決めて、その人間のことを知りたいようになる。

むしろ、誰かのために頑張りたい人間が多い。そして、自分の生まれてきた意味を遺したい人間が多い。僕も、そこらへんをきちんと出来たと思っている。

ただ、僕はまだまだだ。絵なんか描き始めだし、プログラミングはオタクの初歩レベルだ。ピアノも習っているだけの子供レベルだし、小説なんか書きたくて書いた素人に毛が生えたぐらいのレベルだ。

だが、僕は、長い目で見ると、むしろ、良いと思う。賢い才能をつける最初の段階をやっているように見える。

昔の自分が賢かったのは、青春で、強くて、自分の目で社会のダイナミックな動乱期を生きて、色んなことを考えた、ブッダのような人間だったからであって、ブッダは何も賢くない。ブッダを賢いとは言うが、ブッダは賢くないのが僕は分かる。

祖母の体調は良くなかったが、まだ亡くなったわけではなかった。母親の母親なので、母親が泣いていた。

あとは、昔は自由から平和が生まれると言っていたが、最近の僕が思うに、自由では社会を全体的に改善することは出来ても、一人の指導者の自分のような賢い人間には敵わない。

ある意味、自由で考えるのは悪いことではない。だが、自分の手で努力した人間が見ると、自由で改善したとしても、それは小手先の改善であって、魂のこもった改善ではない。魂のこもった救世主は、不可能を可能にする。そのために、自由でない国が生まれるのは、悪いことではない。

そうだなあ。もう少し、大人になった方が良い。そして、作家にはならなくて良いが、夢は多い方が良い。どれかが出来るとは言うが、もう少し、違う考え方をした方が良い。

日本人の悪い点は、もっと人間性のある社会になれば、いじめはすぐに無くなる。人間性のない社会だから、いじめが起きる。テレビ、漫画、音楽、全て人間性がないのが悪い。パソコンは、人間性以前に、知性すらない。そのせいでどんどん馬鹿が増えている。社会全体の風潮は、すぐに子供が敏感に感じ取る。この社会がおかしくなっている。自分が見て、人間性のある社会にすれば、すぐにまともな学校になるだろう。

昔は、全世界を知って、経験と理性で全員を分かった人間だ。そこらへんが書いていない。オタクからスラムまで、全部見ていた。全員、自分の経験から分かった。ウィトゲンシュタインのような人間だった。社会のことは、オープンソースから分かった。現状を良く考え、妥協せず、大胆だが慎重に考えることで、この世界の全てを知っていた。

それから、本当に良い人間だった。神のような愛でみんなのことを許し、客観的に真摯に考えることで、仏のように自由な人生を開拓して、正しく考えることで分かっていた。「考えなければ分からない」と言っていた。

今日は、剣道、書道、駅伝、ミニ四駆の文章をホームページに書いた。

自分は、強くなれば良い。強くなれば、すぐにこの世界の恐怖に勝てる。

本当は僕は弱くない。きちんと強い。昔は、ネットを見て強く生きる人間だったし、最近は永遠の中で試練を強く耐えていた。

弱いフリをするから馬鹿になる。

みんな、分からなくなったはずだ。僕は、もう居ない。

明日も、出来たら会いましょう。でも、もう僕は居ないかもしれません。