昔は、「環境が環境によって必然的にそうなる」のを分かっていた。
認識や感情、人間のこともそういう風に分かっていた。必然性を考えることから、限界と環境の因果性が分かった。また、気付きと驚きとたとえ話で分かった。
自分は、最近、必然的に馬鹿になるように世界を変えている。
それを止めて、必然的に賢くなるようにすれば、自分も世界も賢くなる。
昔は、ニュートン力学のような基礎世界を作っていた。作用と知性のモデルから世界を捉えた。
文章は、環境から独自性が生まれ、共有から共同体が生まれる、と言ったような、「生まれる因果性」を考えていた。
デザインは、どんなデザインをしていいのか分からないなら、ブログのテンプレートのようなデザインをする、と考えると分かりやすい。そういう発想がデザインだ。
昔は、ある意味で生意気なことを言っていた。だが、斜め上から人々を分かるように導いていた。
自分がしていることは、他人にも許されるべきだと思っていた。自分が出来ることは、他人も出来るべきだと思っていた。それは、間違いではなかった。
昔は、たくさんの具体例を見た後で、原理を見出した。文章にも、そういう、「たくさんの実例を知った上で、原理的な科学を知る」と言う発想を書いていた。パソコンをしてから数学をするとか、経済学をしてから歴史をするとか、そういう風に、「応用的な科学を先にやって、あとで基礎をする」と言う、一見逆のように見えて、本当に悟ることの出来る知の習得の方法を、いつも書いていた。