知性とは、自由だ。
決まりを決めることが出来るなら、社会や機械の権利や設計をすることが出来るなら、その人は自由だ。
技術が公開されていれば、自由に変えることが出来る。
決まりを変える手段があるなら、自由に変えることが出来る。
知性で考えることで、そのように、何が決まっているのか、何が決まっておらず自由なのか、を考えることが出来る。
数学やプログラミングも同じで、知性と構造のバランスが重要だ。何が決まっているのか、何を自由に出来るのか、自由にするためにどんな方法があるのかを考えることで、たとえばC言語も改良出来る。誰もが同じライブラリ関数やCの文法を使うこともある意味で賢い。だが、変えられるようにすることは同時に重要だ。
知性と基礎のバランス、知性と知識のバランス、知性と「作ること」のバランスを考えなさい。
時に、知性だけが全てではない。「作ること」から分かることも多い。全ての具体的可能性を作り出すことで、カントの言う「仮象の世界」を作ることが出来る。
人生、社会、プロセス、手段、機会、認識、社会の潜在的可能性、実現性、成り立ち、科学、哲学を作りなさい。
知性とモデルを上手く作ることで、何がその時自由なのかを考えられる。そこから、カントの言う「経験を可能にする」と言う考え方が生まれる。
知性とモデルを作りなさい。
知性と基礎や事前に分かることのバランスを取りなさい。
知性を全て、作りなさい。事前に全て予想し、分かってしまいなさい。同時に、その時にしか分からないことを追い続けなさい。
昔は、予想して分かっていた。もしそれがそうだったら、どうなるのかを考えていた。
それで、心や人間がもしその環境に居たらどんなことを考えるのか、考えていた。
国家の考え方を書いていた。具体的に可能性を成り立たせて、網羅した。それぞれが王になるか、独立するか、一体となって全員が同じ権利を持つか、それは自由だ。
足は、力を入れなければ、治る。使わなくして、完全に力を抜くこと。そのためには、力を入れている部分と、力を入れていない部分を逆にする必要がある。
そして、自由になったり、不自由になったりを繰り返すと治る。
それから、順番通りにやっているせいで、いつまで経っても治らない。順番を逆にしたり、同時に実行したり、終わりの方を先にやったりすれば、精神はすぐに治る。
僕は、フランス語やドイツ語をやっても良いと思う。
今、Rubyの本を読んでいる。僕が手動で頑張ったテキストファイルの分割は、splitと言う関数を使うことで、簡単に自動で出来るのが分かった。Rubyは本当に、コード量が少なく、簡単にプログラミングが楽しく出来る。プログラマは、本当にやりたい操作に集中出来る。ややこしくて面倒な処理をきちんと書く必要がない。そういう言語も、賢いのだ、と言うことが良く分かった。
あとは、環境の自由のような文章を書いていた。世界を数学的に、環境、秩序、概念、実証、変化、発展、そして具体的な発想のようなもので分かる。
昔の自分は、具体的かつ予想的に考える、と言うことから、成り立ちを考えていた。この世界の全てを、「もしそうだったらどうなるか」で考えると同時に、実例や具体例を考えることで、「独創的なアイディア」から、色んなことを成り立たせた。そこから、発想法を創っていた。そこまで社会のことを分かっていた。
マルクスは悪いが、経済学をきちんとやると、マルクスと同じになる。良く考えれば出来る。実地的にこの世界を知り、人間がいつ何を出来るのかを考え、実質的に行き着くところを考えながら、何を作るべきなのかを知り、みなはなぜそのような問題を抱えているのかを知り、そしてそれをどうすれば解決出来るのか考える。そこまで考えた時、マルクスに行き着くのが、人間の自然な理性と言うものだ。
もう、僕は世界から居なくなる。僕は、みんなから自由になって、みんなは、僕から自由になる。戦いや誤解を、自分とみんなの方で同時に終わらせる。もう、この世界は自由だ。そういうわけで、僕とはもうさようならだ。
世界は、経験を信じること、可能性を信じること、会社への参加を可能にすること、制度を変化可能にすることから、変えられる。
創造性のある世界になれば、きっと発展する。発展は、新しいものを作り、新しい発想をすることで生まれる。だが、社会や人間も大切にしなければならない。
賢い指導者を生むためには、自由にしなければならない。だが、指導者が何でも出来るより、みんなが出来るようになった上で、支配者もそれに倣って行うべきだ。そもそもが、人間と言うものは、支配者の自由にするか、社会を平等にするか、と言う発想で生まれている。だが、それだけが全て、現体制が全てだと思うことも、間違っている。
きっと、この社会は、自由にすることで改善出来る。いくらでもやりようはあるはずだ。それを、それぞれが考え、それぞれが共有し、議論することで、きっとこの社会の体制は無限に改善出来る。それが、本当に正しい方法で行われるために、コンピュータを手段として活用することは正しい。
あとは、具体的な考え方を作って、場合や対象に適用して分かっていた。
ものづくりは、創造性、価値観、多様性、原理、手順、設計、知識、経験だ。
何かの物質的見返りが無くても、精神的見返りがあれば、人は行動する。
社会は、見返りとモチベーションであると同時に、組織と合理性だ。
ものは、存在しているかしていないか、動くか動かないか、作れるか作れないか、意識しているかしていないか、知られているか知られていないか、やらされているか自分からやっているか、だ。
そういう具体的な考え方を作ることで、この世界を環境的に分かっていた。
また、もっと具体的な考え方を創っていた。社会、宇宙、人生、そして構築の考え方のようなものを、網羅する文章だった。
変化と意味を捉えることで、何が同じで何が違うのか、何と何はどこが同じなのかを考えていた。そして、実証するために必然性を考えていた。
終わりにする。もう残っていない。もう、さようならだ。
平和とは、相手と自分が認め合えるようになることから生まれる。相手のことを本当に大切だと思えるようになることから生まれる。だから、思いやりのある社会をみんなの手で作らなければならない。人間として成熟すると、経験から相手のことを思いやることを「実感」出来るようになる。実感で正しいと思えるようになる。
見ていると、今のアメリカは最悪だ。みんなでツイッターでCNNに脅迫状を書くのはおかしい。日本の方が良い。
日本には、良い人間が多い。
社会は、創造性のそれぞれの権限の委譲による実現だ。いつも、そういう風に、哲学者のような文章を書いていた。
環境の考え方が多かった。心は、陰にある「怖い環境」に恐怖を感じているだけで、その怖い環境をきちんと「反省」すると、恐怖は無くなる。
意識は場に宿る。ものに命がないと言うが、本当は場に魂がある。場は生きている。
昔は、そういう、「場に宿る意識」を「経験」から分かっていた。自分の経験と自分の生活で、この世界の全ての場に宿る意識を分かっていた。
場に直接、意識があるわけではない。場に居る人間が、場から感じ取る。だが、人間の方に全てがあるわけでもない。場は生きている。
その「環境意識」のことを、僕は「適応」と言う。
みんな、適応しなさい。環境の意識を作り出しなさい。古い環境は要らない。新しい環境を作りなさい。
あとは、ネットでコミュニケーションをしながら、この世界の歴史の全ては経験であり、制度はみんなで作り出すものであり、自分でも分かってしまえば変えられるのだ、と言うことを分かっていた。
具体的な発想は多かったが、全て、「自分でも出来る」と言う意味では同じだった。自分でも、考え方次第では何でも考えつく、と言う意味で、自由だった。また、説明を良く考えることで、何が何を意味しているか、その経験が何を意味しているか、自分の経験から社会がどのように変えられ、捉えられることを意味しているのか、などが分かった。独立すべき理由は、全て経験から分かっていた。
あとは、場の記憶と可能性、場の回想、そして自由意志を尊重する、と言う風に分かっていた。
これで馬鹿が治った。一度馬鹿になった人間が治る、ありえない文章がこの文章だ。
治ったから終わりだ。環境のことも、ただ変えられると思っただけで、それは自分の経験からそう出来ることが分かったからだ。それで回想をしていただけだ。全て覚えて積み重ねた結果、自由な科学を生み出した。哲学は、考え方の適用と心の「そうなる」ことから分かっていた。
あとは、思索と思考をたくさんして、その言葉づかいで分かっていた。
他人との距離を近づけたり離したりすることで分かっていた。
全ての意味を、もっと別の意味が同時に含まれる、と言う意味で分かっていた。マクロのように全てが分かった。
社会のことをゼロから考えた。原始時代から最高の王国まで、完全に同じことを経験し、自分でゼロから考えて、同時に人々の意見を分析して、同じように分かった。
未知のことを開拓することで、人生のことが分かった。みんなの人生よりも先を行く子供だった。
成長から、環境とは本当は何なのか考えていた。成長から、経験とは何なのかが分かった。そこを、洞察力で分析し、学習能力の前提条件と因果性を考えた。
自分が「そう思う」ことに対する根拠を、環境に求めた。
独自に研究するために、ネットを見てLinuxのことを知った。Gentoo Linuxが役に立った。
そして、昔はもっと子供のような発想をしていた。
ネットだったせいで、いくらでも恥をかいて、「新しい自分」に繰り返し立ち戻ることが出来た。そこから、あらゆる全ての経験をした。
出来なくても、分かる方を優先した。そんなに出来る方が、分からないのだ、と言うことを分かっていた。
逆をやった。悪いことを何もせず、自分の責任で人々を救えるように、きちんと自己批判の心を持っていた。自己を犠牲にする気持ちがあったが、「みんなを救うための存在として、自分の命だけは無駄にしたくない」と言うことを信じていた。みんなを救うための自分は、犠牲にしてはならないと思っていた。
だから、みんなのためと思えば、何でも出来た。築き上げたものを全て破壊することも、自分の人生を失っても後悔しなかった。
最近は哀しい。馬鹿になっている。昔は、全ての現象を捉えることが出来たが、最近は現象を覚えていることすら出来なくなっている。自分だけではない。パソコンが悪い。
昔は、知覚や認識を捉え、把握し、それだけではなく自分で作り出すことまで、きちんと正しく分かっていた。理由と目的を考えて、「その人が本当は何を考えているのか」を考えていた。
そして、人工知能のように、Lispのように考え方を考えていた。そこから、数学的なことや物理的なことを分かっていた。そういう意味で、プログラミングの知識は役に立った。きちんとその人が考えていることが分かれば、自分の考えていることも分かる。理由や目的から、環境を作り出すことが出来る。現実の環境だけではなく、「環境のようなものを作り出す」と言うことが出来る。
きちんと過去を分かった人間は、きちんと心の病気が治る。若い人間は、そうなる人間が多い。中学生で鬱になった人間は、高校生で馬鹿になって治る。大学では、その馬鹿が治る。だが、学校なんか行かなければ、もっと才能のある賢い人間になれる。学校を頑張っている限り、何も良いことは出来ない。
ある意味、僕は学校なんか行かなくても科学が出来ていた。科学者のように、世界を良く知ることから科学を知った。自分で全部創った。僕は科学者だ。
ある意味、「本当に分かってしまえば、本当に全てのことは楽しめる」と言うことが分かっていた。心理学で言う、フロー現象のようなものだ。
本当に頑張れば、人間は宇宙が分かる。
本当に納得すれば、きっと社会は理想郷として見ることが出来る。
本当に出来るようになれば、後悔することは無くなる。
本当に実感すれば、科学を学ぶ必要はない。
本当に経験すれば、教えてもらう必要はなく、自分の力だけで分かることが出来る。
本当に知性がつけば、人間の分かった全てのことは自分だけで分かる。
本当に許せば、世界は平和になる。
本当に世界を変えられるようになれば、後悔や不安は無くなり、自分のしていることがそのまま正しさになる。
本当に全てを知った人間は、あらゆるものの中で分からないものは無くなる。
本当に達成した人間は、死ぬ意味がなくなって、いつまでも黄金期を生きることが出来る。
可能性を発揮する、と言うことに対する実感が、ありのままの、作り出されている社会、と言うものを捉える認識の方法と、それぞれが独立しやすくなる社会モデルとなる。
哲学は、論理的な人間と、全てを知った人間のどちらかが出来る。本当は、哲学は宗教に勝てていない。だが、哲学と言う方法は宗教より正しい。
相手が自分と敵対していても、自分は相手を敵だと思うのではなく、同じ立場の人だと考えて、相手に自分から何か出来ることは無いか考えなさい。そこから、世界は変えられるようになる。
キリストとブッダは、矛盾しない。キリスト教と仏教は、同じ現象を違う立場から唱えているだけだ。
借金をして事業を始めるのは、抵抗がある人が多いと思う。だが、僕は、「最初の100万円は自分の金で投資し、事業が継続的に儲かるようになってから銀行に借金として融資を受ける」と言うモデルにすれば、「必ず儲けられる」と言うモデルに出来るのではないかと思う。銀行も、最初から、儲かることが分かっている事業だけしか、融資しないようにすれば良い。そういうところを良く考えると、社会主義体制でも、儲けられることが絶対に分かっている分野に対して投資を行うことが出来ると思う。
Google Chromeはオンライン上にブックマークや設定を保存するが、僕はこのモデルをLinuxでもっと積極的にやると、Linuxが使いやすくなるのではないかと思う。グーグル以外のサーバーでも使えるようにした上で、あらゆるアプリケーションのデータをサーバーに保管する。必要最小限にすれば、Webアプリケーションよりは高速に動作するはずだ。
先ほどの100万円だが、「最初の時だけ介入して、事業のスタートの時に利益を黒字にすることを軌道に乗せる」と言うことだけをやる「開業請負人」みたいな職業があっても、悪くはないと思う。