もう楽になったから、今からは頭を賢くする。そして、善をした方が良い。
自分は、職業を考えないのが悪い。職業や社会を考えないせいで、馬鹿になっている。
社会のことを考えると、それぞれが大切であることに気付き、それぞれが本当に大切にされ、自尊心、誇り、自己肯定感、やりがいを感じられるようにしないといけない。
そのためには、偏見や先入観を無くし、社会をありのままに捉えながら、基盤を変え、現在のように過去に立ち返って、真剣に考えないといけない。
また、社会のことを一つ一つ知っていく中で、自分の今まで置かれていた状況が分かり、社会のみんなが本当は何を考えていたのかが分かる。
そこから、大統領のようにこの国を変えられる。
昔は、そういう「思いやり」のような希望の文章を書いていた。
そして、創造性や多様性を大切にするべきだと言って、人々の責任を責めるよりも、自分の出来ることを考えるべきだ、と言っていた。
本当の意味での報いとは、人から与えられるものではなく、自分で作り出すものだ。
主観でも客観でもない、ありのままを知りなさい。意味のあることは何なのか、いつ何を分かることが出来るのかを考えなさい。そこから、仏教のような宗教的真実も分かることが出来る。聖なる存在の具体的ありようが分かる。
あとは、ヘーゲルやキルケゴールのように、人間の絶対的過程のようなものを分かっていた。
HTMLのコメントは、コメントの中にコメントがあった場合に上手く働かない。これを、もっと上位コメントやさらに上位コメントを付けられたりするようになると良いと思う。
疑問に思うこと。もしそうだったとしたら、どうなるだろうか?そうなるはずじゃないか?そういうことを、疑問に思って、自分でやってみたり、実験してみたり、人の話を聞いたりして、自分で考え、行動しなさい。仮定から推論し、実験や経験をすればきっと分かる。当たり前のことを知って、そのことがそのことであることが持つ意味を考えなさい。
昔は、正しい人間だった。全て分かった上で、責任を持って支配し、良い方向に導きながら、上手く舵を取って、全て解決し、全員を解放する。そういう王だった。
アンパンマンの歌ではないが、もし自信を無くしたら、「何が良かったのか」を思い出しなさい。自分の場合、みんなのことを本当に愛して、みんなのために頑張ったのが良かった。地獄だからと言って堕落せずに、人々を救うために慈愛の心から希望を信じて、人々との調和を目指しながら、自由を考えた。そして、弱音を吐かずに、最後まで自分の責任で頑張った。
だが、それらは必ずしも良かったわけではない。逆に世界がおかしくなっている。一度、この支配を止めるべきだ。僕は、支配したくないから、それで独り支配している。
最近は、やると決めたことは絶対にやるようになった。馬鹿に見えて、それは賢い。いつまでも頑張っている。だが、やらないと決めたことは守らない。いつも馬鹿なことばかりやっている。少しぐらい自分を抑えた方が良いが、抑えているとおかしくなってしまう。だから、最近は我慢せず、風の向く方向に任せて頑張っている。
昔は、状態を考えていた。哲学のことも、状態を考えて分かっている。ありのままと言うのも、全部心と社会と人間の状態を考えていた。
最近は、永遠を生きていた。永遠の地獄だった。辛く苦しい中で、希望を持って宣言し、諦めずに、自分の出来ることを全てやった。どこかで分かっているそれを信じていた。
ただし、それはもう終わった。昔が数学なら、最近が社会で、今が国語だ。
明日からまた作業所での仕事があるが、馬の世話をしたいと言いたいと思っている。
自分は、いつも間違っているから、間違っていないのが怖いだけだ。馬鹿から見ると、正しい方が間違って見える。それが、一番おかしい。良い人間が良い。
あとは、科学を作っていたのを書いていない。昔の自分は、良く科学を作っていた。概念と関係性から方法と目的を考えた。
全ては、何の目的で作るか、作るためにどうするか、作ったものをどうするか、だ。
全ては、金で交換するか、みんなで共有するか、だ。
そういう風に、「対象に含まれていること」を考えずに、「対象自体には含まれていないこと」を考えれば良い。
創造し、交換し、与える、そのために目的と方法がある、そしてそこから関係性と社会性が生まれてくる、そのこと自体は、対象に含まれていない。
発想すること。
あとは、歴史や環境が考えられるだろう。
可能性を考えることは、社会を作ること、ルールを決めること、ルールと社会を規定する者を己の手で選ぶこと、それをみんなに平等にすること、などが言える。
もっと、考え方を考えれば良い。社会は平等にすることも自由にすることも出来る。正しい世界はたくさんある。
そして、具体的に考えながら、部品をはめ込むように考え方を作って、プロセスと結果から正しい改善策を考えることで、発想が生まれる。
僕の作った科学の発想は、「森羅万象の自由」であり、それは「変化の捉え方」であり、「仮想世界の構築」であり、「その対象とする人々が出来ること」である。
経験から、全ては皆の手で作り変えることが出来る。そして、常にこの世界は作り出されている。
価値観の違い、それぞれに合うようにすること、希望の創造性、集合知としての集積、社会と個人と創造の目的、意識しているかしていないか、運命か物理か、自然か人工か、そしていつどのように出来るか、具体的なパターンとして何が考えられるか、批判と議論、支配と抑圧、それに対する反抗と、それを行うことを推進する支援が全てである。いつも、そういうことを言っていただけだ。
また、自然科学で言うなら、帰納法、演繹法、実証法、そして経験的な知の発見は、方法と社会を構築する上で、基盤となるものであり、全ては作った人間が考えた結果であり、それは本当は別のものだったとしてもおかしくはなく、それだけを見ても世界は可能性に溢れており、希望はいつもそこにある、と言っていた。
あとは、歴史や環境の中でそれぞれが何を知っているか、考える上で考えるための知性とは何に根差しているか、のようなことを言っていた。
感情のように考えていた。実感から世界を広げていた。
これで、書けた。もう賢くなった。
ただ、残念だが、科学を作る、と言うことは未だに同じことを出来ていない。昔は、作用や反応を考えたり、共有や支配者の時代を考えたりすることで、あらゆる科学をアリストテレスのように作っていた。それをもう一度することは、まだ達成出来ていない。