今日は英会話教室に行ってきた。
今日は頑張ってLinuxのシェルのページを作った。頑張ったが、あまり賢く見えない。
むしろ、僕はもうコンピュータのことはやめようと思う。コンピュータは、UNIXを見てもWindowsを見ても賢くない。UNIXは何かが悪い。Windowsは、Windows APIだ。全部、マイクロソフトの技術をただ使わされるだけだ。
だから、デザインと馬のことを頑張りたいと思う。
昔は、オープンソースのような、共有と集積による発展と多様性とか、意見の吸収と国の創造とか、認識の融和とか、そういうことを言っていた。
あれは、まともな人間だった。実地的に社会のことを知り、現状分析から分かった。この世界のことを真面目に自分の力で考えた。
だが、そういう発想は全部Linuxだ。Linuxが悪いだけで狂っているから、もうやめた方が良い。
もう、パソコンのことはしない。Rubyの本も読みたかったが、代わりにJavaのページを作ったから、それで良いと思う。Rubyの本は、暇な時に読みたいと思う。
昔の自分は、もう少し発展させて、実験と経験から社会が発展するとか、その発展がどのように経緯となるかとか、そういうことを分かっていた。
また、実験し、分析し、帰納的に真理を導き出していた。
自分は、現実世界のことをやりたいと思う。パソコンは悪いわけではない。使いようではある。だが、コンピュータや絵や言葉ではなく、この世界、現実の世界のことを考えたい。絵や言葉が悪いわけでもなく、絵や言葉と言っても、この世界をありのままに捉えるような、そういう絵や言葉を知りたい。芸術作品は悪いとは思わない。
昔の自分がおかしいのは、自分の頭と文章だけが独り歩きして、ありえない世界と人生をいくらでも作る。おかしいから止めた方が良い。この文章はそういう風に書いていた。
人間なんか、上と下だ。上に立つ人間が下をいじめて、下に立つ人間が上に反抗する。ただそれだけだ。自由にすると、そういう風にしかならない。だから、上にも下にも立てないように平等にすれば、そこでの自由は良いものになる。だから、自由が平等であり、不自由が不平等だ、とも言える。
だが、本当にそれぞれにあるものは価値観の違いであって、その争いによって世界が分かれていく。本当に価値観を統一しなければ、平和な世界にならない。
まともに考えると、そういう左翼になるが、左翼は間違っている。左翼には具体性がない。もっと、具体的なものを見て、自分の力でものの見方を培って考えれば、自由な中でどのように「自分がしていくべきなのか」、「みんなには何が出来るのか」が分かる。その時、潜在的可能性が目覚めて、それぞれが本当に出来る潜在的能力を持っていることが分かる。だが、そんな潜在的な可能性があっても、人々には、先ほど言ったような価値観の相違によって、理想の社会を作り上げることは、出来ない。
僕が思うに、「環境と自然の中で可能性を発揮する」ためには、「社会を統一する必要がある」と思う。平等にして、それぞれが自然に出来るようにしながら、社会をきちんと理想の下に統一していけば、きっと自由な社会になる。僕は、そういう社会のことをいつも書いていた。
だが、僕はそろそろそういう理想には飽きてしまった。良い世界だと思わない。もっとまともで、普遍的自由がある世界の方がはるかに賢い人間になる。みんなに教育を与え、それぞれが報いを得られる労働をしなければ、無理に描く理想がいくらでもあったところで、意味がない。Superflyの言うように、無理に描く理想はつまらない。笑い合える今の方が、ずっと幸せだ。だから、僕はパソコンを止めて、左翼も止めたい。そういうものには意味がない。
統一しながら自由に共有するのは、むしろ、右翼が見て理想だ。あまり悪くない。自由と統一を目指す国が、昔からドイツだ。ドイツは悪いが、良い国だ。