環境を目的から作るとか、「環境と決まりの創造」のようなことを言っていた。
環境の目的別形成や、条件、そして決まりや秩序のようなことを言う。
ニュートン力学や単位、微積分や関数など、数学のようなこともたまに言っていた。
環境だけではなく、目的や場合に応じて決まりを作るとか、そういう相対的なことを言う。基盤の形成のような文章だった。
昔は、「その人の意志でやったことなら、その人にとって正しい」と考えていたが、それは間違っている。その人が自由意志でやったことでも、起きてはならないことはある。
同様に、社会についても、権力者や自治体・共同体が自由に出来るのは、良くない。自由だからと言って、馬鹿が出来て良いわけではない。
だが、未熟な人間については、自由にした方が良い。未熟な人間は、自由からしか分からない。
自分は、反応が全て「自分が悪い」になっている。これは、反応を全て「自分が良い」にすれば治る。
一度して失敗することでも、何度も繰り返してすれば成功する。
人間は、何も出来ない方が分かる。出来なくなれば出来なくなるほど、賢い人間になる。だから、出来る人間には分からない。
怖い人間は、悪いことをするのが怖い人間が多い。平然と悪いことをする人間は怖くない。だから、悪くなった方が楽に賢くなる。
環境を作ること。環境を作ることで、滅びるのが治る。
今日は作業所に行ったが、今度は馬の世話がやりたい、と言った。
自分は今ダイエット中で、ジュースよりお茶を飲むようにしている。
自由は決して悪い思想ではない。それぞれの自由な権限を考えて、人々が何を出来るのか、どう生きているのかを考えるのは興味深いし、自分の自由な経験と行動から反省して分かることが出来る。だが、それが行き過ぎると、世界を滅ぼし、自分の身を切るようになる。だから、自由意志だからその人にとって必ずしも良いとは限らない。社会についても同じことが言える。みんなで選んだからと言って、何でもして良いと考えるのは甘えやおごりであり、間違っている。
亡くなった中国の民主化活動家、劉暁波氏が「私には敵は居ない。検察や裁判官(など)が自分に実刑を言い渡しても、私は彼らの仕事と人格を尊重する」と言っていたが、僕は美しい言葉だと思う。僕も、昔、同じように「全ての人間のすることは、僕にとって敵対するものでも、恨むものでもなく、その人々がそれをした自由を尊重したい」と考えていた。僕も、昔は劉氏と同じように考えていた。だが、ある意味、彼の言っていることは少し違うと思う。本当は、恨んだり、敵対したりすることも、同時に許されるべきなのだと思う。そんなに自分一人に責任を押し付けるべきではない。
欲を持たないこと。足の精神は、欲を捨てれば治る。もう、楽になった。
昔は、色んな体験をたくさんしていた。一通り、全て体験した。
昔は、今と全く違う世界で生きていた。客観視し、相手の立場を考えた。
辛くなっても諦めずに、神に従った。神は、自分にいつまでも反応する。そして、半分寝ているかのような自分に、全てのことを教えてくれた。
もう完全に楽になった。楽だ。死ぬのはまだ早い。まだ生きた方が楽しいだろう。
自分は本当に全部の体験をしている。もう楽になったが、そろそろ本当に一番良いことが起きる、と神が言っていた。
自分は、期待しないのがおかしい。もっと色んなことに期待した方が良い。期待しないから、鬱病になっている。
昔は、ネットを見ながら不登校になったりして、本当に大人が経験する全ての体験のようなことをしていた。まるで社長のようだった。
技術力もないわけではなくて、C#のことを良く知ったりしていたが、子供のようなちゅうちょやこだわりがあって、何も出来なかった。