ビル・ジョイはBSD、vi、csh、NFS、Javaなどの開発に携わった天才で、UNIXプログラマ界随一のスーパープログラマだが、ビル・ジョイが居てもSunは勝てなかった。
ある意味、ビル・ゲイツは本当に賢いのだろう。スティーブ・ジョブズも勝てなかったし、リチャード・ストールマンもEmacsやGCCを作ったのに勝っていない。
だから、きっと、技術がそんなに出来ても良いことは無い。ビジネスの能力もプログラマには必要なのである。
日本の悪い点は、コスト削減と搾取を同時にすること。競争によって、誰も得をしない国になった。
昔は、その時その時、考えてこういう文章を書いていた。同時に、完全にこの世界のことを一つの構造に統一していた。
僕には、仏のような慈悲の心がある。全員を赦す。解決策のようなものを感覚で積み重ねて、「全てのことは解決出来る」と分かった救世主のような人間だった。
人間は、死んだり生きたりを繰り返していると治る。
僕は、ただ生きるのが怖いだけだ。頑張って生きた方が良い。生きると、病気は治らなくなるが、頭が賢くなる。
むしろ、ノートの入力をしたい。忘れてしまえば、入力は楽しい。もっと、忘れた方が良い。
自分はSunのことを良く知らないから、アホなことを言った。ビル・ジョイは2003年にSunを退社している。申し訳ない。
ある意味、大企業が搾取で儲けるのは本当に悪い。小さな店や店舗が利益を上げられるように、搾取のない平等のままで店を自由にしなければならない。
昔は、2ちゃんねるで強く生きただけの人間だった。
Rubyの本が届いたので、読んでいる。Rubyでは、数値や文字列をオブジェクトとして扱うが、これはC言語で言う型のようなものに見えて、僕はオブジェクト指向と言う意味で、本当にもっと良い規範のあり方を作っていると思う。変数名の全てにintを付けるのか、オブジェクトのメソッドで扱うのか、と言った点がCと違うのだ。
昔は、当たり前に考えて、自由と独立を良いと思っていた。会社の社長など、「それぞれの決定者が増える」ことを良しとし、「決定者が増えやすくする」ことを良しとした。
それを、独特の言い回しで書いていた。
自由な決定者の独立から、自由な多様性が生まれる。
自由な決定を可能にすることで、人々は自分の望むことを実現しやすくなる。
自由な意志を可能にすることで、自由な決定が可能になる。独立したいものは、自由に独立出来るようになる。
そのように、「社会全体をもっと自分たちの思いのままに決められるようになる自由」のようなことを言っていた。
そして、「そのために社会をどういう風にしていけば自由になるのか」を考えていた。
それぞれが価値観を共有し、それぞれの意志を尊重し、意見を集め、独立しやすくし、多様な環境のために個性と独自性を尊重することで、自由になる。
昔は、その上で、「みんなは同じである」と考えて、「同じ立場に立った、環境と共通性の平等な尊重」を考えていた。
前提となる知識を手段を与えながら共有することで、人々は限りなく自由になることが出来る。
だが、独立は格差を生む。勝ち組や金持ちだけが独立し、一般市民はますます搾取される。格差を生まないためには、国営化をして平等にするしかない。
僕は、独立と言うアプローチも、国営化と言うアプローチも、どちらも悪いと思う。本当は、正しい「自然に生まれる秩序の規範」を作るべきなのだ。
今のコンピュータのネットワークは、単純にサーバーとクライアントが通信し合っているが、セキュリティを確保するために、「接続するための前提条件」を作っても良いと思う。絶対にウィルスではないと証明出来ない限り、ネットワークとして接続出来なくする。要は、証明書のようなものを作れば良い。すでにあるかもしれないが、きっと、「絶対にこのアプリケーションはウィルスやハッカーではない」と証明することが出来るようにすれば良いと思う。
身元を証明するだけではなく、何らかの「ウィルスやハッカーではない」と証明する手段があれば良いと思う。
昔は、あとは、意識で分かっていた。意識で全部分かっている。地上の全ての場所、人生の全ての時間を、数学的な意識の因果性から分かった。学習と経験から、「出来る意識」を分かっていた。
昔は、「出来るものにやらせれば良い」と考えていた。そこから、「参加のしやすい社会」を考えた。手段は、「研究のための研究所」のようなものを作るべきで、そこには誰でも参加出来るようにすべきだと考えていた。
社会や人生の「いつどうなるか」を分かっていた。特に、「その時は絶対にそうなる」ことから分かった。社会と心理の因果性だった。学習を把握し、全ての場合を知った。
昔は、個人主義的な自由を信じていた。朝鮮人差別のように、「フェアでない戦い」を嫌った。集団で外部の人間を批判し、差別するのはおかしい。差別したいなら、朝鮮に行ってやるべきだ。そう考えていた。国家と国家の戦いは、集団と集団の戦いになり、集団に義務的、強制的な従属を生み、何も分からないのが当たり前になって、自分たちだけの排他主義になって戦うようになる。僕は、そういう、「内側の同じ民族だけで、外側の民族を差別する」ことを嫌っていた。朝鮮語と日本語が同じになってしまえば、差別は無くなると考えていた。その時点で、日本人と朝鮮人が相手ではなく、正しい人間と間違った人間が相手になる。それが、本当のフェアな戦いだと考えていた。逆に、ルールや決まりを作ることで、そうした「自由」をもっと良いものに出来る、とも考えていた。矛盾するようだが、内側だけで同じ価値観を共有することは、決して悪いことではなく、支配者に独裁されるよりも、よっぽど健全だ。だから、僕は、フェアではない戦いは嫌いだが、自由は好きだ。
あとは、自己犠牲が多かった。自分の自由と引き換えに、王になりたかった。だが、それは、王になりたくなかったからだ。本当の自由を知りたかった。
考え方を変えて分かっていた。昔は、集団と個人の関係を良く考えて、「価値観の共有」とか「統一」よりも、「多様性」や「自然発生」を重視していた。だが、逆に前者の方が良い場合もあると考えていた。たくさんのごみの中から宝を見つけ出し、作り出す作業は、むしろ、統一的な価値観の創造である。昔は、そういう、「想像力からの価値観の創造」のプロセスを良く書いていた。社会を作り、変えるプロセスだけではなく、本当に大切なものはどうすれば作れるのか、築けるのか、のようなことを書いていた。そこで、価値観と自然発生は考え方の違いであり、同じ考え方をすることで全ては1と0になると考えていた。
昔の自分は、「組織やプロジェクトへの参加によって、金は得られないかもしれないが、影響力と支配権力を得られる」と言う発想をする。それは、きっとRed HatがFedoraプロジェクトを支配しているのに似ている。おそらく、Ubuntuのように新しいプロジェクトを立ち上げる必要はない。Fedoraプロジェクトに参加して、言葉は悪いが乗っ取ってしまえば良い。昔の自分は、そういう風に「環境を変えられる」のを考えていた。それぞれの立場を知って、意識を支配する。その人が考えていることを環境を乗っ取って支配する。そういう、「影響力による人格支配」のような人間でもあった。だが、むしろ、この世界の全てを変えるなら、王になるのは間違っていない。一人の王が全て出来るなら、その王は全ての環境を変えることが出来るだろう。それは、右翼的自由だが、決して間違っていない。
あれは結構純粋な人間で、心を受け入れることによって分かっていた。良い人間で、まともな人間だった。ただ、少し知性が無かった。そして、ネットを見ている自分が悪いのが分からなかった。逆に、最近は、きちんと分かる。きちんと頑張った。正しい王だった。
もう、終わりにしよう。本当にありがとう。そして、さようなら。