新・日記2に戻る | 2017年7月の日記に戻る

=2017-07-09=

精神分析をしながら、歴史を辿って、精神世界の中で、この地上の歴史の全ての国、全ての人間と対話していた。

神のように、歴史と対話する。本当に、歴史を支配していた。

この世界の全ての歴史を支配していた。どこにも居ないのに、精神の中に居る。そういう文章を書いて、公開していた。

昔は、認識を機械のようにして、思い込みを全て無くし、正しいことを疑い、「思い込みと正しい認識を比較する」ことで分かっていた。

認識がどんな環境から生まれるのかが分かっていた。

認識の自然発生のようなことが分かった。そこから、人間や環境や人生のことが、哲学的に分かっていた。

僕は、ハイデガーはもっと厳密に考えるべきだと思う。現実に、この世界における認識を全て捉えて考えるべきだ。フッサールに近いと思う。

世界において考えられる点を、全て考え、全て捉えることが出来たら、僕はきっとハイデガーのさらに先へと進めると思う。

そして、そろそろ、またさようならだ。また出会うまで、さようならである。

僕は、意識から小説を書く作家だ。経験的意識だけで、全て分かっている。

あとは、基礎のモデルを作って応用していた。世界のことを共通性と応用から分かっていた。

本当に終わりにする。何もかも、全部分かった。

世界は、一つに融和しすぎているから、分裂させた方が良い。

分裂させるためには、愛の逆をやれば良い。愛すると融和する。愛の逆、いじめたり傷ついたりすれば、すぐに分裂する。

昔は、そういう、「環境の多様性」から分かっていた。「分裂する多様な環境」を適応から分かっていた。

昔は、同じ環境で、同じ関係性なら、同じことを思うと思っていた。

また、多様な環境が関わり合うことを、ヘーゲルのように「世界精神」だと考えて、世界精神を支配していた。

昔は、「場は変えられる」と言う法則を信じ、1つ1つ基礎を作って積み重ねていた。

環境への適応から環境活動を知り、「どのようにすれば良い環境が作れるか」を感覚的、経験的に分かっていた。

環境を変えれば、世界が支配出来る。最近は、環境を一方的に変えることで、支配者のように世界を支配していた。

環境を作ることで、人々は多様性と共存のある社会を作り出す。それぞれが環境を変えられるのを許し、支配者一人だけが支配する世界を否定せよ。

昔は、そういう、「環境、多様性、共存、適応のある社会」のことを良く書いていた。

経験から、考えられるところを全て考えた。自分は、いつも、考えるべき部分だけを考えて分かる。

昔は、そこから知性のモデルを作って、「世界の設計図」を作っていた。

そして、オープンソースの考え方を参考にしながら、新しい世界の共有と実装のあり方を考えていた。それもまた、環境のことだった。

本当に、そろそろ終わりにする。だから、さようなら。

人間の捉え方を考えなさい。その時何が分かるか、その時何が出来るかを、きちんと捉えなさい。精神の現象を捉えなさい。

さようなら。そして、本当にありがとう。この世界とみんなに感謝する。僕はいつも愚かだったが、みんなはそれを見守ってくれた。

昔は、理解と経験のあり方のようなことを言っていた。

経験から、本質的な人生の真実と、そのことがそのことであることが何を意味しているのかが分かる。

自由とは、存在の可能性の発揮である。

経験とは、理解の積み重ねである。

全ては、社会としての可能性、自然、創造性であり、理性としての分析と真実であり、その融和としての自由と人生である。

自分は、何も理解しないのが悪い。何も理解しないせいで、日本語が分からなくなっている。

それから、言語的脳をいくらでも使うせいで、「言語の使い過ぎ症候群」が出ている。疲れるのもそのせいだ。

昔は、理解と人生からこの世界を全て分かっていた。「この世界における全ての観念」のようなものを考えながら、作りながら、全て書いていた。

もう、終わりだ。そろそろ終わりにしたい。ありがとう、そして、さようなら!

本当に愛を信じることで、この世界をどういう風に変えたら良いのかが分かる。

自由の結果を見ることで、この世界がどんな愛で変わっていけるのかが分かる。

運命を信じることで、不可能を可能に出来る。

恐怖に打ち勝つことで、安らぎが得られる。

反抗期とは、愛の逆になる期間であって、学校でのいじめも同じだ。だが、そこにも出来るだけ、自由を与えてあげてほしい。若者は自由から反省し、この世界における自分の立ち位置と、その認識がどこに位置しているかと言う「認識の現在位置」を知ることが出来る。

愛を信じることで、世界は平和に出来る。

本当に出来ると信じることで、諦めない心をしっかりと保持することが出来る。

きちんと構えて考えることで、悪い人間に負けなくなる。

リスクをきちんとわきまえることで、自由な中で愛ある環境を責任もって実現することが出来る。

世界を幅広く知る心から、最も深い可能性が生まれる。

世界の可能性を信じることで、絶望よりもっと高い位置での「実現性」を知ることが出来る。絶望は、可能性によって救われる。

それでは、さようなら。こんな無責任な優しさは置いておいて、みんなの力で、みんなの視点と立場に立って、この世界を救ってほしい。みんなよりあなたが優先される時は、あなたが逆にみんなを救ってほしい。だから、みんなの力と言うのは、本当は幻想であって、きっとあなたが一人、立ち上がるしかないのだ。それも、確かな事実だ。

あなたはあなただから、あなたには世界を救う力がある。それは、あなただからだ。それでは、さようなら。

昔の僕は、多様な環境を全部知っていた。だが、その環境は、もう既になくなりかけている。僕のせいだけではなく、ネットでたくさんの環境が同じになって、破壊された。だから、みんなは昔の僕よりも若干厳しい立場にある。多様な環境が無い。だが、それでも、このガイドがある。このガイドによって、旅立てるはずだ。誰かの後ろにつけば、傷つかないかもしれないが、僕はいっそ傷つくことを悪いと思わないでほしいと思う。強く生きてほしい。それで、楽になるだろう。だから、さようなら。

昔は、仮想世界の創造のようなことを書いていた。仮想的な認識と社会のフィルターのようなものを作っていた。

みんなは、もう少し、愛ではなく、反抗した方が良い。反抗は愛の逆であり、自由はいじめの逆だ。

みんなは、今、中学生ぐらいになっている。いじめが多い。このまま世界は高校生になる。いじめがそのまま反抗になって、独り立ちするようになる。

僕は、もう少し、ゆっくり考えれば良い。分からなくなったとしても、そのまま、ゆっくり考えればすぐに分かる。

みんなも、ゆっくり考えてほしい。腰を据えて、ゼロからこの世界のことを再考してほしい。見直してほしい。自分なりに、新しく捉えなおしてほしい。

そのためには、忘れること。そして、忘れるためには、きちんと一度思い出すこと。きちんと一度思い出すと、人間はきれいさっぱり忘れられる。覚えているから、忘れられないのだ。

もう一度、さようなら、と言って、このくだらない執筆作業を終わりにしたい。さようなら。

あとは、国家的文化や民族的差異のようなものを考えていた。日本の文化をオープンソースと同じだと言ったりしていた。むしろ、日本は本当にLinuxとよく似ている。

それから、科学のようなものを発想と説明と構造の構築から作って、論理的思考回路のようなものを書いていた。

もう一度言う。さようなら。

昔は、人間たちを全員吸収していた。今は、それが色んな人間たちを作り出す。それは、みんなを作ったのではなくて、自分を作っているのだ。

もっと、上へ上がっていけば良い。下に降りたいのが、きっと間違っている。

昔は、何でも出来る賢い人間だった。

本当は、僕はもう死んでいる。足の下は死んでいる。それを、感じたくないせいで、まだ、書いている。書いている間辛いが、それは生きている。それは、生きた方が良い。

本当は、Linuxは既におかしなOSになっている。僕が分かっているのは、はるかに昔の時代だ。

自分は、くたばる寸前で頑張っている。世界を滅ぼそうとすると、死ぬ。

きっと、そういう風に分かった方が良い。

そろそろ、きちんと治る。

平和な世界になる。

文章だけが下に続いていくのは、楽に見えて辛い。一度忘れた方が良い。

文章は、良く考えて書けば良い。死ぬのも、滅ぼすのも、辛いのも悪い。