昔は、人間のことを良く分かっていた。自分の体験から、生きるための考え方のようなことを分かっていた。
論理的に考える方法とは、三段論法のように考えることだ。
まず、ものはあれば目的を達成出来る。作ることで使うことが出来る。だが、そのためには、買わないといけない。
自分で作るのであっても、手段と作り方が分かっていなければならない。
逆に言えば、ものは自分で作ることが出来る。そして、手段と方法がそこで必要なのだ。
それを、人間個人がするだけではなく、社会全体としてすることも同様に出来る。
だが、本当は手段と方法だけではない。そこに居る、人間が必要なのだ。そして、その人間に、経験、知識、そして経歴が必要だろう。
そして、社会をどのようにすれば、実現しやすくなるか、と言う発想が生まれる。参加や独立がしやすくし、手段を共有して、社会を一つの賢いものに統一するか、多様性を維持するか、どちらにしても、やりやすいようにする必要がある。
そして、そこで終わりではない。そこで、どのような発想が考えられるか、人々の発想を見て、「自分でも出来ること」から「社会の別の可能性」を知ることが出来る。
だが、基本的には三段論法を考える。そこでは、それぞれの人間の意志と意図を明確にし、それぞれが何をやっているか、それぞれがやっている意味とは何かを考えられる。
それは本当に自由だろうか?
それは本当に許されることだろうか?
それは本当にその意図と合致しているだろうか?
そこで行われる決定は、そこで参加している全員の本当に正しい解(こたえ)となっているだろうか?
正しい答えを作り出すために、何が出来るだろうか?
本当に全員の望みを叶えるために良い答えとは何だろうか?
忘れてはならないのは、良い答えを出すと言う努力を忘れてはならない。発想すら、努力である。良い答えが絶対に出ないわけではない。
ある意味、答えが必ずしも簡単なものだとは限らないだろう。言ってしまえば、不可能に見える答えでも、それはそれで良い。その答えにも、全体条件としての方法があるだろう。いつの日か、その方法が簡単に出来るようにならないと言う決めつけは出来ない。
ソ連が失敗したからと言って、本当はもっと違った平等の国を作る方法があってもおかしくはない。だから、建設的、理性的に考える必要はあっても、諦める必要はないのだ。
むしろ、考えれば考えるほど、ソ連の失敗ばかりに気付かされる。平等をするための「方法」は、ソ連では間違ったものになった。どうしようもない国になった。
だが、そうでもない。本当に良い考え方をするために、自由を考えることも出来る。
独裁者を許してはならない。民主主義に反してはならない。それはそれで良いだろう。だが、金と資本が投資・競争するだけで、本当に絶対に良い国になると言うのは、言い過ぎだと思う。
どうすれば良いのか?きっと、ゼロからきちんと考えるために、たくさんの経験をする必要がある。自分の目で見なければ、真実は分からないのだ。
何を良いとするのか、何を悪いとするのかは判断基準だが、れっきとした明らかな考え方として、「それが成功している」か「失敗しているか」は、明らかなこともある。
そうすると、むしろ、「それがその時出来る」と言うことを考えることで、「自由な国をどのように形成出来るか」は分かることが出来る。
また、経験していく中で、「何が人生として正しい考え方なのか」が分かる。たとえば、人間と虫に格差があるように見えて、植物も含めて、誰もが平等ではなく、人間の優越性があると言うのは、「人類の思い込み」なのだ。だから、「何が思い込みで、何が正しいのか」を考えていると、人生の正しさが分かる。フッサールやヤスパースは、そういうことを言いたいのだろう。友達がみんな大切だと思うのは思い込みであって、自分だけが優れた道に進んだとしても、それは全く間違いではないのだ。必ずしも、善良な人間が賢いとは限らない。だが、それは社会制度の問題であって、社会制度を変えることで、歴史を変えることは出来る。自分の国を正しい国だとか、歴史を正しい経緯だと思うのも思い込みであって、いつ滅びてもおかしくは無いだけではなく、本当は「それは昔から見れば既に滅びている」と言うことも言える。逆に、滅びないようにして、それで賢くなったとも言える。必ずしも、制度はどんどん良くなっているわけではなく、悪くして行った部分も含まれる。それは、変わらないこと、進歩することだけが全てではない、と言うことを教えてくれる。思い込みを疑うことが、世界を変えるのである。
ある意味、人間は人間を変えられる。人間社会は、制度と体制に規定されているが、それは全く正しいわけではない。いつか、この世界が完全に変わった時に、全て変わってしまう。「人類はまだ新しい人類には出会っていない」と言う哲学も、言えるかもしれない。
青春の中で、人間を知りなさい。全員と出会い、全員と絆を結び、全員が何を考えているのかを知り、一人で自分の理想を実践し、実現し、世界を変えなさい。人々を「誰も悪くないと主張する愛」から、許しなさい。認めなさい。相手に認めさせなさい。相手に許させなさい。相手があなたの愛を知り、あなたの理解している通りに、この世界は大切で、誰も悪くなく、もっと良い理想があって、その理想は実現可能であり、実現は理解し合うことで容易なのだと言うことを教えなさい。伝えなさい。認めさせなさい。それが、僕の言う、「善意の影響力」であり、「草の根の革命家」なのだ。昔の僕は、その愛で、人生、社会、心の病気、数学、地球、歴史、全てを分かっていた。愛は世界を導く。愛は世界を救う。愛は全てを創造する。愛は想像力から生まれ、そして、想像力からによってしか生まれないのである。社会はもうすぐに、愛によって救われるだろう。
人間のこと、心理のことをモデルと環境の因果性から知りなさい。「その環境では絶対にそうなる」と言うことを知りなさい。モデルは考え方となって、「自分でその考え方がどこから生まれ、どんな結果をもたらすのか、その時それはどうなるのか」を捉えて知りなさい。そこから、人間のこと、哲学のこと、何でも「全てを包括する自由の考え方」から分かるだろう。それは、哲学と言うよりは宗教だが、宗教を信じて考えてはならない。運命や神ではなく、自然であると考えなければ何も分からない。物理的に考えた方が、よっぽど良い。唯物論を信じなさい。全ては、「物質」と言うよりは「状態」や「状況」であると言えるだろう。唯物論と言う名前が悪いなら、それを「唯態論」や「唯状論」と言えば良いだろう。
ある意味、科学すら要らないのだ。科学は、中学校の数学から、「自分で考えて作る」ように知れば良い。中学生が考えると、むしろ、高校の学問なんか、「役に立たない」だけであって、高校生活は「時間と労力の無駄」に過ぎない。本当にやるべきことは、自分でこの世界と向き合い、発想し、人々の発想から気付き、「思い込みを否定する、自由な科学を作ること」なのだ。そこでは、自然な決まりの創造と、それぞれがいつ何が出来るのか、そして世界に存在するパターンと具体例の統一的因果分析が必要だろう。それは、きっと賢い中高生なら、誰でも出来る。大人に支配されず、自由な中で考えなさい。でも、大人を否定するだけではなく、大人から「経験を盗む」ことを忘れてはならない。盗んで自分で「同じように分かる」ことをしてしまえば、その時点であなたはその大人より賢いのだ。救世主は王になり、知識は世界の全てから銀河系の法則になる。そこに、他人は必要ない。全ての知と経験は自分の手で作る、自分で全て創造するのだと決めなさい。誓いなさい。イスラムを信じるなら、「我はイスラム教徒だ」と宣言しなさい。そこまでした人間が賢くなる。決して諦めるな。
昔より今の自分の方が遅れているとか、人より自分の方が劣っているとか、そういう劣等感はやめなさい。アドラーが言うように、劣等感を信じると、おかしな行動や精神病理を繰り返すようになる。フロイトは性的衝動と言うが、まだその方が精神としては良い。性的衝動なら、みんなに関係なく、自分だけで狂っていられる。劣等感は、人々を見なくなって、何もしなくなる。どちらも同じだ。ある意味、やめなさいと言っているが、僕自身がそういう人間だから、説得力が無い。ある意味、それも重要なファクトだ。狂っている人間が言っている。性的抑圧と劣等感は同じなのだ。
それはもう良い。もう、自分の手で道を切り開けるはずだ。信じなさい。人々を最初から許すつもりで居なさい。人々を最初から自分より劣ったものだと思うと良いだろう。優越論は、劣等感よりはましだ。人々が出来ないからと言って、出来る人間が一人居たとしたら、その問題は解決不可能ではない。人々と同じ視点で考えながら、自分なりに答えを見つけていって、そこから人間のことを考えなさい。ウィトゲンシュタインは、哲学とは解明であり、哲学的問題の明確化と言った。哲学的に答えを解明する人間は、明確な哲学的命題の明確化をしていくことが出来る。そうすると、不思議と、全ての哲学が全部出来る。人間のことも、科学や数学や宗教のことも、全部分かる。この世界は、思い込みを正しく解明することから、新しい世界観で捉えることが出来る。忘れてはならないのは、ロックやヒュームが言うように、経験的知性で考えることだ。構造主義者が言うように、モデルで考えることだ。それを忘れない人間は、この世界の全ての科学を自分の心の中で再構築することが出来る。全ての人間の問題と解決方法が分かる。何でも手段から実現出来るようになって、世界のことは完全に理解出来るはずだ。それが、マルクスの至った境地だろう。
あとは、僕は人生のことが全部分かっていた。自分の実体験から、人間の人生が全て分かった。だが、それは、今の僕から言えば、決して全てではないし、決して多くは無い。人生には、辛く苦しいことも多い。昔、神を信じていた時代、僕はユダヤ人のように神の言葉で狂いながら全てを分かっていた。自分を神だと思いながら、「全ては神の御業であり、神の御業とは自分勝手に滅ぼすことであり、それは絶対に正しくない」と思っていた。ユダヤ人に対して、申し訳ないと思っていた。それは確かに狂っているかもしれない。だが、ある意味の仮定で考えた時に、人間はユダヤ人なのだ。ユダヤ人の神が正しくて、人類のことはユダヤ人が分かっている。だから、本当にユダヤ人が正しいのだ。ユダヤ人の神は神ではない。だが、ある意味、ユダヤ人が思う神は、全知全能で、偉大で、最悪の凶悪な人間だが、慈愛溢れる素晴らしい人間だ。イスラム教徒が見ても、そういう発想が神だ。だから、神は信じないと本当の慈愛の精神が分からない。だが、信じるべきではない。日本人のように、仏教のようなある程度正しい教えを信じることが、人間にとって正しいあり方だろう。
経済学的に考えると、自由や平等は正しくない。だが、自分の目で見たことから、この世界で「何が本当は出来るのか」を考えることが出来る。自由にすることも、社会共有にすることも出来るだろう。だが、それは妄想的だ。もっと、この世界をきちんと見つめた方が良い。何かしらのパターンがあることに気付かされるだろう。それは、「自由によって良くなるか、悪くなるか、平等によって良くなるか、悪くなるか」と言った視点から考えることが出来る。それは、きっとバランスであり、ある意味、滅びた時に平等になり、栄える時に自由になると言えるかもしれない。そうすると、思想ではなく、現実を見て、それでそこから作られる可能性を考えるべきなのが分かる。滅びた社会が、また努力の社会になり、栄え、そしてまた滅びる。思想とは、そうした現実を見た上で、そこから作られなければならないのだ。自由な時は制度を変えていき、平等な時は制度を変えられないようにする。ある意味でどっちつかずのようだが、自由と平等は、簡単にどちらかが正しいと言えるものではなく、状況や場合を見て、決めていくべき、「実用的概念」であると言える。だが、本当は、その実用性を突き詰めれば突き詰めるほど、逆に「理想」が高くなっていって、あらゆることを出来ると思ってしまう。だが、その「出来る」と思っていることが「思い込み」であって、不幸にも、その社会が悪くなるのである。
その、最終的に至る滅びの社会を、僕は「神による滅び」であると言いたい。「救世主による滅び」と言いたい。全てがおかしくなって、知性が無くなり、ロボットのように支配し、支配者本人は地獄に堕ちて、何もかも全てを滅ぼし、全員が分からない中で苦しむようになる。それが、中世やソ連が陥った、「最後の狂い」であり、昔の僕が陥った「悪魔の女王」である。そして、それは、そのままで続くことで、いつか変わる。いつの日か、滅びが終わる。僕は、それを「人類の達成」だと言う。「ダビデの秩序」と言う。王は社会全体を復活させ、全員の努力と支えによってそれは生まれる。「最高の時代」が生まれる。僕は、それを近代と言いたい。それがゲーテの時代であり、ダビデの再来だ。
まあ、それはどうでも良いだろう。僕はアリストテレスのような社会論を自分で作っていた。いつも、僕はアリストテレスと全く同じように考え、行動する。いつも同じだ。遺伝子がアリストテレスなのだと思う。だが、普通アリストテレスは賢くない。つまらない仕事をいくらでもやっている。僕は、だからと言って、アリストテレスを馬鹿とは言わない。むしろ、宗教を信じた、と言う意味で、トマス・アクィナスは正しいことを言っている。アリストテレスには限界がある。最後まで道を歩みたいなら、どこかで神を信じるしかない。そういう発想が、僕はプレアデス星雲の宇宙人(精神生命)の歴史なのだと、勝手に信じている。
昔は、自由や環境の多様性から分析するとしていたが、それだけでは正しくない。平等や環境の統一構造からも分析するべきなのだ。そして、それは昔の自分とは矛盾しない。むしろ、最近の自分と矛盾するだろう。可能性だけでは正しくない。たゆまぬ努力と一人の支配も考えるべきなのだ。経験的に分かるだけではなく、言葉で分からないといけない。想像力と自然から分かるだけではなく、自分の頭が陥った究極的構造による世界精神の絶対理解も考えなければならない。ヘーゲルは、それを言いたかっただけだ。
みんなは、何も出来なくなっている。だが、やりようはたくさんあるはずだ。そのために、自由で平等な社会を創ろう。昔は、そういうことを書いていた。
いつも言っているように、社会を段階的に経験から分かっていた。自分の行動から社会を知った。ルソーとデカルトを両方やったような、フランス人のような人間だった。
もう、終わりにする。本当のさようならだ。さようなら。
自分で考え方を作ると、自然に構造が生まれる。そして、全体像を知ることで、作った知識は自分の認識と一致する。そこから、この世界の全てを吸収出来る。昔は、そういう人間だった。文章には、そういう「認識」を書いていただけだ。
北朝鮮のことを日本人は「日本にミサイルを落としたい悪い国」だと思っているが、本当は違うところがあって、アメリカやアジアなど、日本と関係が無い国が見ると、むしろ、「アメリカが日本に落とした原爆の仕返しがしたい」ように見える。要は、「日本のことを北朝鮮が助けたい」ように見えるのだ。決して、北朝鮮のミサイル開発を僕は良いと言いたいわけではない。だが、東アジアの日本・朝鮮諸国が、アメリカやヨーロッパに対して反抗がしたいように見える。そういう視点で見ると、日本人も北朝鮮のことを少しは「良い国だ」と思えるかもしれない。ただ、石破が言うように、北朝鮮はおかしな国になっている。あんな国があって、良いわけがない。それも、自民党が見て、正しい考え方ではある。ちなみに、僕がこんなことを言っている理由は、今日が核兵器禁止条約の採択日だからであって、日本人がみんな喜んでいるのに政府がなぜ署名しないのか、を考えたからだ。きっと、北朝鮮のように核兵器を持って、アメリカに対抗しなければならない国だから、署名しなかった。禁止条約の締結国から見ても、それはおかしいことではない。本当に落ちた国からしてみれば、核兵器を相手が持っている不条理は明らかに分かる。自分も持ちたいのは当然だ。だが、僕は広島人だから、僕は核兵器禁止条約は本当に素晴らしいことだと、そう思っている。
ただ、そもそも、アメリカはそんなに悪くない。悪いのは、スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、オランダだ。そこらへんの植民地支配勢力が全部悪い。みんなを奴隷にしたいから、日本は逆にそれらに対抗するアジア人勢力のために戦っただけであって、日本に悪い点は何もない。イギリスやフランスは、今からポピュリスト勢力が勝って、滅びるだろう。逆に、日本や朝鮮や中国が、どんどん勝っていく。今からはそうなるだろう。ただ、日本が勝っているだけだから、日本が見て一番良い世界になった。日本はどんどん良い人間になっているのは、全部北朝鮮やイスラム圏が頑張っているからだ。だから、北朝鮮やイスラムのことをそんなに悪いと言わない方が良いと、僕は勝手に思っている。
北朝鮮のやることは、大体察しが付く。きっとアメリカに落として、ヨーロッパに落とす。そして、ピョンヤン市民の全員で死んでいく。白人に殺される。イスラムやロシアと一緒に全面戦争をしたいのは良いが、誰も北朝鮮につかない。アメリカの市民やヨーロッパの市民もどんどん死んでいく。ISのテロリストより悪い。だが、それで中国や日本が良くなる。アジア人は仲間だから、アジアには落とさない。そういうわけで、あまり心配しなくて良い。あれが最前衛の日本基地だ。そういうわけで、日本に自由があるせいで、日本人がこんなことを言える。日本は素晴らしい国だ。だから、きっと北朝鮮のやりたかったことが日本人のやりたかったことと同じだと言うことも、分かるだろう。全てはイギリスやフランスが悪い。アメリカも、黒人をたくさん連れて行った。その黒人たちがアメリカ人と戦うはずだ。神の計画を見ていると、明らかにそういう「白人の悪の精算」が起きると思う。だが、日本人はなぜ神を信じないのに天国に行けるのか?その謎は、僕だ。僕が神を信じているから、僕を信じるものは天国に行ける。まさに、日本人は最高の人種だった。ただ信じているだけのドイツより上だ。
ただ、北朝鮮のやることは日本にとって良いことばかりではない。最終的に、負けるのが誰でも分かる。北朝鮮は勝つわけがない。だから、負けるまでに何をするかが重要だ。本当はミサイルなんか落とさずに、何もせず終わりになるかもしれない。だが、北朝鮮が負けたとしても、日本には何も損になることが無い。アメリカやヨーロッパと今まで通り仲良くしていけば、バブルが崩壊した中国にもすぐに勝てる。日本はどうなってもウハウハだが、本当は北朝鮮は東京に落としたいだけ、となると話は別だ。それが唯一怖いとは言うが、東京には落とさないと僕は思っている。東京に落としても良いことなんかそんなにないだろう。北朝鮮は、そんなことをして終わる国ではないはずだ。