たのしいRuby 第5版と言う本を買った。リンク先は第5版になっているが、僕が買ったのはAmazonの中古の第4版だ。まだ、届いていない。
昔は、ニュートン力学のような「作用のモデル」から分かっていた。作用で分かった。
助け合いから思いやりの精神が生まれる。昔は、そういう「臆病者の優しさの自由」を書いていた。
環境は支配出来る。その環境の中で、因果性を理解した上で、自由に導き、環境を変え、支配することが出来る。
神は永遠だった。とても永い時間の中で、神を信じていた。
神を信じるのが辛いなら、悪い人間になれば良い。悪い人間になると楽になる。これでは、神以外全員悪い人間だ。神の善人よりも、悪い人間の方が楽だし、賢い。
世界を変えたいなら、頑張らなければ治る。頑張るから治らないだけで、頑張らないとすぐに治るのが環境の精神だ。
辛いなら、鬱病を治せば良い。うつ病になっているから辛いだけで、好奇心を持てば知性がつくだろう。極度の鬱になっている。
昔は、歴史的段階のように分かっていた。数学的に理由の段階を考え、目的を成り立たせ、実地的に考え、知った。
昔は、色んなことを知りながら、巨大な構造を作っていた。どんな場合にも対応出来て、何でも出来るような決定の構造だった。
最近は、それをただ一つ、唯一ひとつに決めて、そこからあらゆるものを作った。万創だった。
全ては、実体的構造と存在、その状態、現象、模倣、客観的共通性、主観的事実、感覚的像である。
実体的構造とは、それぞれのものの実体である。
存在とは、それが存在していることを証明するための、感覚的実感である。
状態とは、その存在を存在たらしめているものである。
現象とは、存在とその周りで起きる現象を、時にその分類的境界を無くした上で呼ばれる、パターン的自然発生である。
模倣とは、現象が感覚的な仮の姿で現れることである。
客観的共通性とは、「人間と言う常識の外側」で語られるものごとの在り方である。
主観的事実とは、「人間と言う常識の内側」で語られる、それぞれの人間の観測である。
感覚的像とは、人間の中で観測を見る時に捉えられる「像」である。
そして、全てはそれらのプロセスであり、関係性であり、社会や心理などにおけるそれらの応用的な現れ方である。
真理とは、人生の段階の中で「それが本当に自分が納得出来る形で遺しておくこと」と「それを再び思い出して、客観的真理に直すこと」である。
昔は、本当に何でも出来る人間だった。人間として完成していた。最近は、それを失って、哀しみの体験をしたが、どん底から這い上がるような、底力を見せた。
OSは、その画面にあるものを簡単にとってきて、スクリプトとして処理し、別の画面にあるものなどを自動的に切り替えられるような、「ディスプレイ・スクリプト言語」が出来るようにならないといけないと思う。ファイルだけをプログラミングすることは、エンドユーザーから見ると、むしろ少ないことであって、ほとんどはコピーと切り替えばかりの作業をマウスとキーボードでしているが、それをそのまま簡単にディスプレイ情報としてその場でスクリプトから操作出来るようになれば、きっと良い直観的な自動化環境になるだろう。