昔は、感覚的に人間のことを分かっていた。「分からなくなる」ことから、感覚で人々のことを分かっていた。
人間は、感覚を思い出せば分かる。
思い出せない不可能を思い出しながら、感覚で、人々のことを分かっていた。
最近は、言葉の経験から意識を分かる。書くことで意識の全てを知り、言葉の経験から何でもすぐに書いて分かっていた。
世界の全体像を作っていた。世界観を潰しながら、あらゆる世界観を書いていた。
自分は、主体性が分かっていない。主語が分かっていない。「ものがそこにある」ことよりも、「自分がそれを見ている」ことを考えないといけない。
みんなは、もう分からなくなってほしい。分かるから地獄になっている。
もっと、思い出せば良い。思い出すと、昔は賢かった。確かに音楽やアニメは馬鹿だったが、本当は、普通の賢い人間が多かった。
昔は良い時代だった。全て、自分が悪い。分からせるせいで、辛くなって、書くせいで馬鹿になった。何も分からなくなった。
自分とテレビが悪い。
昔は、経緯を思い出して分かっていた。それがそうなるとはどういうことなのか、そうなった時自分はどうなるのかを考えることで、環境への適応が分かっていた。
神のようなことを言っていた。体験、死、真実、全て、神のようだった。
実地的に社会の意見を聞いて、現状を分析し、社会の可能性を知り、確かな感情を信じながら、自由自在に社会を作れるようになった。
宇宙にあるものを感情で分かっていた。
個人と集団から、他人の行動を分かった。自分がどのように行動するか、と言うことから、他人のことを分かった。ネットで他人の言うこととすることを実験していた。
一人だけで革命家のようなことをやったが、それは賢かった。何も悪くない、「良い人間」の戦いをしていた。
自由には性悪説的なところがあって、悪いことをする人間をみんなで倒すとか、それぞれが競い合うことで悪いことを出来なくするとか、悪いことをしない代表をみんなで選ぶとか、相手が攻撃するから自分も守るとか、そういうところがある。
これは非常に優れた仕組みで、悪い人間に支配されるのを極力減らすことが出来る。また、力をつけることで、相手に勝つことが出来る。
金と競争は良いことを自然に行う。これは逆に性善説的で、みんなが自分の力で自発的に良いことをすれば、報酬を与える。そのような、「良いことを促進させる」と言う側面がある。
また、条件を調整することであらゆる場合に対応出来るし、事前に対処策を考えることであらゆる場合に備えることが出来る。経営的戦略から、自由に予測し、そのために努力する。
だが、自由は馬鹿な人間が嫌いだし、性善説でない。性善説の社会主義では、誰もがきちんと働くことを基本の考え方にしている。だから、社会主義は失敗したのだろう。
働く、と言うことを見ても、自由な方が優れているのは明らかで、日本では真面目に働かせることで楽な国を作った。誰もが、働くことを基本としているのはソ連と同じだが、それを国家戦略として「金を稼ぐシステム」に組み込んだことで、「誰もが会社に入れて、誰もが働ける社会」を作った。
だから、日本は良く社会主義の理論を成功させたと言われる。ある意味、ホームレスはきちんと雇用すれば良い。社会所有なんか、悪の極みだ。
昔は、そういう風に考えて、「自由と条件と対処から全てのことを予測して分かる」ような、本当の自由の人間だった。
ただ、性悪説的に考えると、悪い支配を出来なくし、性善説的に考えると、自然な自発的努力に報酬を与える、と言うモデルは、本当に正しいアメリカ式民主主義だと言える。
昔は、宗教的意識を実感して分かっていた。だが、あれは狂っていた。何も分かっていない。最近の方がまともな良い人間だ。
あとは、これで方法と関係を考えると良く分かる。あるいは、環境的なことを考えても良い。人がなぜ悪いことをするのか、それはどんな考え方に根差しているのか、何をどうすれば良いことをするようになるのか、そこには経験的な違いがどうあるか、などを考える。そうすると、むしろ、宗教より自由の方が良いのが分かる。宗教では、分からない。宗教は善をするが、賢くない。善よりも、自由な賢さの方が良い。
むしろ、政治家が嫌いな人間は左翼にも多い。自由は無政府主義的なところもある。だが、それでは良い国にならない。金にすれば良い。誰でも欲しい「共通の資産」としての金があることで、社会に「共通の目標」が生まれる。そして、自然に発生させる努力の先に報酬としての金があることで、「ご褒美」が生まれる。その二つ、共通の目標とご褒美があれば、きっと社会は何でも上手くいくだろう。ある意味、金の優れているところは、「社会の生産を成り立たせる手段」でもあることだ。その三本の矢によって、資本主義は成り立っている。会社と銀行は、自由にした方が良い。それは、「誰もが自由に金を稼げ、誰もが平等に金を使える、公平性」と言う四つ目の矢と、「政策によって他の国に勝つ」と言う五つ目の矢も存在する。そういうわけで、自治体は自由な方が良いだろうし、他の国とは自由に独立するのが良いだろう。だが、考えれば考えるほど、右翼は分からなくなってくる。そんなに分からないのもおかしい。左翼は、簡単に平等にするだけだから、左翼の方が、考えるのは楽だ。
金は意味がないと思われるかもしれないが、実質的に、経済を成り立たせるためには金を使うしかない。全てが金に依存しきっているのが、問題なのかもしれない。ある程度、同じ部分を平等にした方が良いかもしれない。税金と法律は、金ではない部分において、国家のインフラとルールを支えてくれている。だが、「利用する人間が対価を払う」と言う金の理想と、「全員に必要なものを与える」と言う社会主義的な理想は矛盾する。だから、社会主義が悪いなら、金にするしかない。
僕がもう一つ付け加えたいのは、「可能性と選択肢を守る」と言う考え方で、ビルゲイツのような金持ちのようになりたいなら、努力すればなれるようにする。そして、自分の夢をかなえるために、機会を与える。人々に適切な情報を自分から得られるようにすることで、努力することが可能にする。そして、ヒーローになりたいなら、なれるようにする。そういう、金持ちやヒーローを最初から否定するソ連のような国は、意味がないのだ。本当は、もっとたくさんの職業があるべきだし、機会、可能性、手段、自発的努力があるようにする、と言う発想も、悪くはない。そこで必要なのは、「そんな自由のユートピアを作ってくれる夢のような人間は居ない」と言うこと。自分の力で、そうしたユートピアを作るしかない。人々も自分で救うしかないし、自分で賢い国にするしかない。古いものが嫌いかもしれないが、もう一度立ち返って考えることで、古いものの全てを新しく吸収することが出来る。そこには、新しいものと古いものの区別は無い。あるものは、全部同じ「知性と発想」なのだ。それが、僕の考える「融和の理想」だ。
金の優れた点は、「労働に対価を求める」と言う非常にシンプルなルールによって、手段、条件、そしてご褒美と目標を成立出来るところだと思う。何も、労働したいなら、対価を求めなくても、すれば良い。だが、それは性悪説的に考えて、非常におかしな発想だ。逆に、好条件を求めれば求めるほど、得られるものは少なくなっていく。社会の中での妥協的なバランスが、美しい調和のとれた経済を作り出す。そういうわけで、きっと「金による社会主義」と言うのも可能だろう。そして、「対価を払う」ことを当たり前のように行うことで、社会秩序から道義的責任まで、全ての常識が成り立つのだ。逆に、競争することが絶対的な金の必須条件ではなく、社会的な要請として競争をしているだけで、僕は競争と言う発想は、ある意味、ただ連鎖的に起きた「結果」に過ぎないと思う。だが、競争することで発展することは確かにあるだろう。だから、競争をむやみに否定するのも良くないと僕は思う。競争するのは楽しいし、正義の賢くて強いものが勝つのはかっこいいだろう。それが、人間の正常な反応だ。最近競争が悪く見えるのは、正義をしていないからであって、もう一度正義が復活すれば、すぐに競争はまた良いものになる。正義の発展をすることで、社会も楽になる。悪は独占やペテンからしか生まれない。いつも、独占やペテンに勝つ「自由」は、正義なのだ。
自分は、「肯定を言って否定を言う」と言う繰り返しの馬鹿しかしていない。「それを言って、その逆を言う」と言っても良いし、「両方とも言ってしまう」と言っても良い。最初からそれだけをしている。だが、それで全てのことを言い尽くしていると、不思議と、昔自分が言っていたことを思い出すようになる。それを簡単にユーモア(と言うとちょっと言葉が悪いかもしれない)にしてしまうことで、何でも分かる。だから、良く「僕は人間じゃない」と言われる。それは、頭の中では何も考えていないからだ。こういうものが適当に「天使」だと言うことにすれば良い。天使は何も分からなくても、きちんと全て分かる。
だが、僕は昔からそういう発想は嫌いで、昔の自分は「頭の中で考えること」が好きだった。だから、分からない方を選んで、すぐに分からなくなる。何も生産的なことはせず、ただ賢いことを覚えて考える。なぜか、その方がキモい人間になる。それが一番戦っていないし、何も努力していないのにみんなより賢いと思っているからだ。努力しなければ分からない。ただ賢く考えるのは、高校生の方が出来る。だから、高校生だったのが、その当時の自分だ。むしろ、女はいつまでも若い方が良い。
自由は消費のことを良く考えていて、社会主義は生産の方を良く考えていると言うが、僕はおかしいと思う。金は生産を上手く成り立たせるし、平等はみんなに平等に必要なものを与える。労働の対価を与える、と言う意味では、自由は相対的だが、社会主義は構造的だ。だが、ある意味先ほどの常識は正しくて、実際の社会では、自由の方がものは多く、社会主義の方が生産は平等になる。それは、きっと、どちらかが実際の側面を表し、どちらかが理想を現していると言う、「表裏のかけ違い」が起きているからだと思う。社会主義は、平等の理想を目指して平等の労働を達成するが、自由主義は、金による生産を目指して自由な消費を達成する。ある意味、目的と手段が逆方向を向いているのだ。
金は万能ではない。社会的格差を生み出してスラムを作り出すし、大富豪が豪遊しながら、それに従う貧乏人は金が無ければすぐに生活出来なくなる。分配の方法として、平等を一切取らないのはおかしい。誰にも必要なものを与える方が、金持ちが遊ぶよりも優先順位は高いはずだ。だが、社会主義では、全体が貧しくなるせいで、誰も生活出来なくなる。だが、それは考え方がおかしいのではないか?現実だけを見ていて、理性を信じていない。理性的に考えれば、平等にそれぞれが暮らせるだけの資本と生産様式をみんなで一から作れば良いはずだ。だから、理性的に考えると、マルクス主義になって、現実のことを何も考えていない人間になる。それもそれで、誰が見ても間違っている。社会主義は失敗したが、今、民主主義も失敗しようとしている。性悪説を信じないせいで、ネットはどんどん悪い自由になっている。もっと性悪説を信じて、悪い自由を制限しなければならない。それも、性悪説と言う意味では、悪いものに支配されることが無い自由と、本質的には似ているのだ。だから、社会は民主主義のままで、ネットを民主主義で禁止するのが、性悪説のセオリーになるだろう。悪いものを禁止する、と言う意味では、それは正常な法治国家の考え方でもあるだろう。だが、自由な権利を守らなければ悪い支配者に支配されてしまう。簡単に、「そうならば必ずそうなる」と言う法則的理は通用しなくなってきている。それで、きっと民主主義は滅びるだろう。
一つ、正しいのは「我々は人間である」と言うことと、「一人が全てを知ることは出来ない」と言うことだ。それも、そのうち誰かによって覆るかもしれないが、今のところは正しい。僕としては、机上の空論ではなく、どんどん現実で試して行った方が良いと思っている。だから、ソ連とは違う社会主義国家を作った方が良い。それが中国なら、僕はそれで良いと思う。だが、そこで必要なのは、「性悪説」だ。悪いものに支配されないこと、人々は悪いことをするかもしれないこと、と言った、「性悪説」を信じることで、中国はきっと成功することが出来ると思う。それを、自由と言う人間が多い。
共有による発展のようなことを言っていた。社会の発展ではなく、環境やインフラや家庭のような部分での発展を言う。そのために、共有と集積が有効であると言っていた。
地域労働党に対して、いくらか追記したが、これでは何もない国になる。もっと良く考えた方が良い。
自分は、本や書籍では分からないのが分かっていない。誰か人間に教えてもらわないと出来ない。
あるいは、場面を知れば出来る。Illustratorは、実際に使う場面を知れば分かる。ネットワークのことだとしても、構築の場面を知れば出来る。
昔は、ネットなどで「場面を知ること」や、誰かに「実際に教えてもらうこと」で分かっていた。
自分は、「したいしたいとは言っているが、本当はしたくない」のが分かっていない。数学をしたい、歴史をしたい、政治経済をしたいと言うが、それはしたくない。なぜなら、今までしていない。自分のしたいことは、文章を書くことだけであって、それ以外はしたくないのだ。
あとは、何も知らないどころか、Linuxのことをきちんと知っている。
おそらく、本で分かることも出来ないわけではない。二点透視図法は本で分かった。だが、それはやり方が分かって、実際に自分でやったからだ。
それこそ、作家の方が賢い。
そういうわけで、本を読みたいなら、哲学と歴史はもうしないし、フランス語は英語をしているし、数学や物理がしたいわけでもない。
むしろ、時間が余るようにした方が賢い。時間のない人間は馬鹿だ。忙しくて日々に追われている人間には何も出来ない。ゲームもテレビもネットもしないのは賢い。
ある意味、ネットを適当に読めば良いのだろう。だが、ネットや子供の教科書は読みたくない。全部、子供の遊びだ。そういうものを見ていると、子供みたいに何も分からなくなる。だから、学校なんか行った方が馬鹿になる。
たぶん、本を読んで勉強したいなら、簡単すぎる本も難しすぎる本もどちらも悪い。もう、すでに内容は知っているから、「出来るようになれば良い」のが普通だ。そうすると、むしろ、英語の方が勉強としては良いだろう。だが、僕が目指すのは、「出来る」ことではなく、「書く」ことだが、それは出来るようになってから、その後だ。
そろそろ、僕は独り自由になった。
むしろ、みんなは仕事や家庭に追われて、ただ辛いだけだ。何も出来ないだろう。自分のような自由な余裕と時間のある機会が得られれば、誰でもみんなのことを考えるようになる。昔は、ネットを見ていたが、今度はネットは見なくて良い。考えれば、分かる人間が多い。昔は、環境的なことや所有的なことを考えていた。人間関係を見つめながら、人々がどういう生き方をしているのかを知って、独りで全て考えた。もう一度それをやるのが良いだろう。不思議と、当たり前のことを当たり前に考えていると、どこかに分からないところがあることを全て気付いて発見することが出来る。それだけで、誰でもデカルトになれる。そういうものだ。
昔は、どん底から這い上がって分かっていたが、最近は、治るわけのない病気を治して分かっている。そこらへんが馬鹿に見えて、賢い。
今のネットを見ていると、本当にネットなんか見る人間が馬鹿になる。都民ファーストが選挙で圧勝しているところに釘を刺している人間が多いが、本当にそういう右翼の意見は見ない方が良い。右翼はおかしい。ただ、本当は右翼はそういうものではないのだろうとは思う。
そういうわけで、もう楽になった。いくらでも頑張っている社会人が賢いのは分かるが、見ていると、賢くない。なぜか、出来るようになってしまえば、頑張るだけだ。そこがおかしい。意味もなく頑張っている人間は、本当に辛い。ただ、経験を積んで色んなことが出来るのは良いだろう。だが、こういう時間のある人間は少ない。時間の在る人間は、有効に好きなように時間を使うことが出来る。時間だけがあっても意味がないと思っている人間は、時間を有効に使いたいと言う目標のせいで、時間を有効に使えていないのだ。一度、社会からドロップアウトして、本当に自分の使いたいように時間を使うことは悪くない。昔の自分は、ネットと思索のために時間を使ったが、それも悪くは無いが、哲学者のプログラマになるのはつまらない。ネットのせいで、何も分からない馬鹿になって、結局は自分が痛い目を見ただけだ。ネットは見ない方が良い。考えるなら、何もなしに本を見て考えれば良い。本は無害だ。
昔の自分は、ネットを見ていたが、ネットで自分からみんなと同じ発言をすることで分かっていた。誰かに「なる」ことで分かった。最近は、そういう子供が多い。
もう、ネットは見ない。むしろ、右翼がネットを見ないようにしているだけだ。あるいは、本当にネットが好きなのだろう。
たぶん、本なんか読まない。むしろ、やることは歴史ぐらいしかない。数学は出来ない。やりたいのは、数学、物理、生物、医学、政治経済、哲学、歴史、心理学などだが、そんなに出来るわけがない。歴史をやれば良いように見える。むしろ、秀吉の時代にキリスト教徒ぐらい居る。今のキリスト教徒と同じことを信じている。秀吉も馬鹿ではない。秀吉は、ソ連やアメリカのない時代に生きたから、戦いの時代しか分かっていないから、戦っている。逆に、キリスト教徒は、迫害されても義を守れと言う聖書の教えを信じている。そういうところが分からないのは、子供だからだ。秀吉が刀狩をしているのは、仕方ないとか、そういう風に分かれば良い。
歴史を王の変転と戦争とは言うが、それもそれであるが、もっとあるのは、宗教と迫害の歴史だ。言ってしまえば、世界史も日本史も、ただ新しい宗教が生まれて、それが迫害されていくだけだ。あるいは、芸術や思想の発展から、文化が生まれたり、革命で新しくなったりはするが、それはそんなに多くない。戦争と宗教の迫害が延々とある。それが歴史だ。
あとは、マルクスが言っているように、歴史は階級闘争だ。農民から武士が税を取り、農民を酷使する。そして、武士はもっと強い大名に従う。たまに大名同士の合戦が起きる。そういう、「昔の未熟だった政治経済」がたくさん出てくる。高度になれば高度になるほど、もっと悪くなる。ただ、世界史と日本史が違うのは、日本はヨーロッパに比べて地続きの領土が狭い。必然的に奪い合うようになる。ヨーロッパの王は贅沢をするが、日本の王は反動体制を敷く。そういうものが日本史なのは、僕は昔日本史の教科書をきちんと読んだから分かる。ただ、詳しいことは覚えていない。
まず、本能的に生きる国がある。次に、自由に生きる国がある。次に、理性と秩序を作り出す集団が現れる。それが、宗教となる。宗教は、戦いとともに戦いの神を作り出す。それぞれの宗教が戦うことが、それぞれの民族の戦いになり、帝国になる。帝国の集団の国では、世界政府をしたい人間が現れる。強制的な権力が生まれる。自然の中で、それを宗教的に作り直す国がイスラエルとして現れる。そして、領土開発と発明の中で、世界中をローマ帝国が進歩させる。あとの歴史は、それ以後、自然な成り行きをしていっただけだ。戦争と領土拡張から、封建社会になって行き、長い間安定した社会を経て、人々は自由に目覚め、出来ることを増やしていく。科学と宗教の戦いは、文明的進歩を生むと同時に、思想的革命を生んだ。そして、たくさんの思想的変転の下に、現代は生まれる。思想とは、国家主義、自由主義、民主主義、帝国主義、社会主義、ファシズム、冷戦である。そういう風にすると、歴史のことも分かるだろう。だが、僕は昔はもっと、知識ではない歴史の段階を、精神分析から書いていた。そういうところで、歴史的な意識を分かっていた。
ヨーロッパの歴史は常にヨーロッパ外部の地域からの関わり合いであり、奴隷貿易から宗教の伝来まで、全てが外部と繋がっている。日本史にも朝鮮や中国から伝わった文化はあるが、日本は古いままで閉じてしまい、発展せず、いつまでも停滞している印象がある。ヨーロッパは、ルネサンス以降、絶えず新しいものを作り、とり入れ、発見しようとするが、日本は明治維新によって一気に、急進的に新しくなった。それが、現代でも、「民主主義」と言う思想に対する実践方法の違いに現れている。日本人は、民主主義を教わるものだと思っているが、ヨーロッパ人は、戦って勝ち取る、より実践的なものだと言う意識が強い。日本の歴史は、フランスやイギリスに近いように見えて、本当はロシアに近い。
ヨーロッパの帝国主義の問題は、ロシアがソ連ではなく、ロシア帝国だったこと。平等な国が無く、全ての国が帝国だったから、帝国を拡張し、他の帝国に勝つことを目指すようになってしまった。そこが間違っている。
これで終わりだ。もう、僕は全て知っている。これ以上、何も必要ない。みんなともさようならだ。