昔は、本当にプラスチックのような精神をしていた。おかしな人間だった。
ヒュームは、正しいものごとの見つめ方のようなことを分かっている。ものごとが関わり合う中で、正しいものごとを見つめる「眼」を持っている。
考え方を想定し、ゼロから考え方を作ることで分かっていた。
真理を知ると知性がつく。
僕は、今のところ爬虫類ぐらいになっている。
あとは、もう終わりだ。これ以上、何も書かない。
昔は、社会が変化する中で、1つ1つのことを経験して分かっていた。
最近のみんなは、それが出来ていない。日本を、きちんとみんなの手で変えられ、社会が変化する中で色んなことを経験出来るようにする。それで、きちんと昔の自分が出来る。
最近は、全て肯定し、全て否定し、何も信じない。それが悪い。肯定するのでもなく、否定するのでもなく、信じれば良い。黙れば良い。
自分を破壊したい衝動が悪い。それで心が辛くなっている。歩き回るのもそれが悪い。それで怖くなっている。
みんなを殺すのではなく、生かせば良い。
昔は、こう見えて、人間のことをきちんと分かっているし、人間の歴史を全て分かっている。
みんなの分かることと、自分の分かることを比較して、何が本当の理由なのか、それはその時どうなるのかを考えていた。
人間のことを理性的に全て分かった。
そして、最近は、宇宙の全体像の構造を全部創っていた。理性的な「構成要素」を考えた。
そして、本当に勇敢に戦った。戦うと言うよりは、愛していた。
この世界に対する情熱と思いやりを書いて、同時に、世界を多様性のある秩序と自分の出来る手段のために、導いていた。
今日はIT講習会があったが、足にじんましんが出て、疲れてしまったので、午後は休んだ。歯医者もあったので、少し疲れた。
僕は昔から、たまに全身にじんましんが出る。子供のごろからの持病だ。何か、節目となる時だったのかもしれない。かゆいだけで、放っておけば治まる。
昔から、神で狂っている。そういうことが起きると思うのがおかしい。
僕が未来が分かるのは、RADWIMPSは「心が体を追い越した」などと言う考え方をしているが、僕はそうではないと思う。重要なことは、生まれてきた最初に、神様の力で分かっているのだと思う。未来がどこかで分かった、と言うよりは、神が未来を教えてくれた、と言った方が正しい。前世では猫、来世では植物になるのが、僕だ。
GNOME 3を馬鹿とは言うが、むしろ、馬鹿をやっているだけ良い。WindowsやMacが賢いように、きちんとオープンなGNOMEも賢い。それでKDEもあると、面白いだろう。馬鹿についていきたくない人間は、MATEを使えば良い。僕も普段はFedoraでMATEを使っている。だから、Linuxをそんなに卑下する必要はない。Linuxは賢い。
そもそも、パッケージ管理システムも、馬鹿ではないが、たくさんのパッケージをやみくもにインストールすると、システムは壊れる。そこらへんの加減が、Linux初心者には分からないだろう。出来るだけパッケージ管理システムでパッケージをインストールするのはやめた方が良い。Linuxは馬鹿ではないが、そんなに標準パッケージは要らない。
ただ、パッケージ管理システムの良いところは、iOSでアプリが最新になるように、きちんと時が来ればバグやセキュリティのアップデートをしてくれるところだ。Windows Updateは、Javaやアプリケーションのアップデートはしてくれない。それぞれがするようになっている。オープンソース世界では、ディストリビューションが適当に新しいバージョンをインストールする。だが、これもよし悪しで、アップデートした時にシステムが壊れることもある。パソコンとは、そういうものだ。きちんと良く考えて使わないといけない。
Linuxのシステムを知りたい人は、サーバーとコマンドとシステムコールを勉強するのを勧める。それも、ネットではなく、きちんとした書籍を読んだ方が良い。
僕は、そろそろLinuxの勉強は止める。もう十分分かった。きちんとWindowsやプログラミング言語などの技術を知りたい。特に、C/C++を知りたいと思う。
昔から、僕はキリストのような本当の善を実践する。右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい、とイエスが言っている通り、世界や敵と接している。だが、僕は勝利を放棄するわけではない。相手のことを本当に思いやった形で、正しい勝利を得る。ただ、僕はそんなに良い人間ではない。愛している、と言う理想が高いだけで、欠点や悪い点も多い。戦いをしている。だが、僕は人は殺めていないし、責任を持って世界を支配しているのだ。それは、きっと、絶対に自分にしか出来ないことを、絶対に理想を曲げずに、自分の出来る限りの努力で叶える、と言う戦いであり、支配なのだ。
そういうわけで、僕は結構良い人間だが、これ以上先の僕は普通の人間になる。ここまでの僕は、信じても価値のある人間だったが、今からはそうではない。むしろ、誰か恋人を作って結婚するのが良いと思う。自由も、戦いも、やりたいことは全部やり終えた。僕は今のところ彼女募集中だが、ニキビがあるから、相手が本当に愛してくれるような人ではない限り、結婚しない方が良いと思う。ニキビだけではなく、足の関節にも障害があるし、頭も馬鹿で、たまに日本語が分からない。だから、僕は積極的に恋愛活動はしたくないのだ。申し訳ない。
論理学の練習をすると、論理的な思考が出来る。たとえば、「ストーブは温める機械だから、寒い季節に使う」と言う考え方は、論理的だ。いつどのように使うか、それは目的と条件が何であるのか、と言う発想をすれば良い。それがそうであることは、何を意味しているのか。そこから、論理をどのように変換出来るのか。そういう風に考えていくと、おのずと数学が出来るようになる。数学は、目的から必要性の条件を成り立たせることだ。
あとは、漠然と考えるのではなく、具体的な例をベースにして考えると、論理的な思考が出来る。人々を、いつどうなるのかから、どのように「当たり前」を生きているか、と言う発想になってくる。哲学者は、論理的に考えられるだけではなく、具体的な当たり前を良く考える人間が多い。
パソコンは、フリーソフトだと思っているのが悪い。普通、コンピュータ科学はフリーソフトではない。ワークステーションから、大型コンピュータや、あるいは計算、基盤ソフトウェア、インフラを作るものだ。WindowsやLinuxのフリーソフト文化が、パソコンを退化させている。
ただ、今のパソコンと言うのは、ただの2ちゃんねるだ。だから、パソコンなんかしない方が良い。パソコンは賢くない。
論理的に考えていると、自由はある意味正しい。それぞれ賢いのだから、それぞれ好きにした方が良い。ただ、それは子供的な考え方だ。どんな社会にすべきか、と言う考え方が思想であって、みんなで協力し、助け合うことは、自由では難しい。それを、自由なままで行うことも、ある意味理想だろう。自由なままで助け合いを行うのは理想だが、それはきっと、魚のままで陸を歩くのが理想だ、と言っているようなものであって、逆に、そういう風に考えれば考えるほど、危険な思想へと近づいて行ってしまうものだ。
僕としては、むしろ、自由は全て、逆を分かっているだけだ。多様性を自由と思うのは悪くないし、それぞれが干渉されず勝手に出来るのは悪くないが、それは人間より虫の方が優れていると言う考え方だと思う。ある意味、共産主義の方が虫に見える人間が多いから、僕は自由でも良いと思う。自由は、人それぞれ、勝手にやることで、理想的な「自由なままで協力する」と言う考え方を生む。それは、悪いことではないだろう。それこそ、自由は理想だけではなく、現実的にも賛同出来る。社長がたくさん居て、会社を自由にした方が、色んなアイディアを実現出来る。セーフティネットは少ないかもしれないが、逆に、自由なことが出来る。それは良いことだが、僕はそのためにはたくさんの失敗出来る環境が必要だと思う。自由な中でたくさん失敗することが、逆に成功出来る人間を生み出すのだ。
あとは、機会に恵まれない人間が多いが、それは聖書に書いてあることを信じるのが一番良い。特に新約聖書のイエスが言っているように、狭い門から入って、地上ではなく天上に資産を詰め込むようにすれば、良い機会には巡り合える。そういうものだ。だが、自由なら科学的に考えて、本当に真実を知りたい、と思った方が良い。宗教を信じている間、何も確かなことが分からないだろう。科学的に考えなければ、宗教的にも賢くはなれない。科学が分からないと、仏になるのは難しい。
昔は、僕も論理的な人間だった。論理的に考えて、人生と宇宙の段階と法則を論理的に書いていた。論理的に考えると、どうすれば出来るのかをきちんと自分で分かることが出来る。「何が出来るのか」から、社会のいつ何が出来るかを考えられる。必然的に、どのようなモデルを描けば良いのかが分かる。昔は賢かった。そして、モデルを全て作っていた。
昔は、僕も、「いつ何が出来るのか」と「いつ何が必要とされるのか」を考えて、「いつ何が実現可能か」と「いつ何が決定され得るか」を考えていた。みんなのことを自分と同じ(平等)だと考えて、「みんなが何を考えているか」と「みんなが何をする可能性があるか」を分かった。そして、想定的な「仮定と条件」を、論理、心理、社会性、などから考えていた。むしろ、考えれば考えるほど、馬鹿になっている。本当に考えたのは、「一番最初に“自由”を考えただけ」であり、あとはその自由から具体的な開拓をしていっただけだった。
良く考えると、ただ「社会の中で感情がどうなるか」を考えただけだ。動機から啓発まで、全てをどうなるのかと言う具体例から考えていた。いつどんなことを知るか、と言う哲学だった。そこから、反応や作用を、全体の構造と分裂させ、分離させ、統合させることで、全ての人間を環境的に分かっていた。そういう風に、心理学を知っていた。
そもそも、人間を規定するものは何だろうか?それは、関係における人生だ。あるいは、環境における行動だ。あるいは、金と能力かもしれない。そういうところから考えていくと、本当に大切なものとは何なのか、実感で分かってくる。自分の行動と心から分かってくる。そこから、真善美のようなことが分かる。ソクラテスやヘーゲルも、きっとそういう人間だ。そして、絶対に不可能なことを可能にするためには、今出来ることを少しずつ増やし、伸ばしていくべきだ、と言える。そこから、社会の段階を作る、「新しい世界観」が見えてくる。「新しい俯瞰」が考えられる。
マスターになるために必要なのは、「行動して反省すること」だ。それだけで、哲学者になれる。
自分は、みんなを自分と同じにはしたくない。だから、覚えるのは行動と反省だけで良い。むしろ、自分は自分の順番を逆にしたかった。昔をやって今をやるのではなく、今をやらせてその後で昔をやらせたかった。それが一番難しいから、みんなの方が賢い。そして、200人ぐらい、神が生まれることになっている。もちろん自分が一番「普通」だ。神は、そういうことを言いたかっただけだ。あとは、200人と言うのは、この世界を狂って支配している200人のことを言っている。そういうものだ。
憶測なんかしない方が良い。正しい答えを当てようとすればするほど、正しい答えから遠ざかっている。論理的に正しく考えれば、そのうち自然に分かるものだ。
コンピュータは、パソコンだけのものではない。メインフレームやワークステーションから、携帯端末や組み込みまで、色んなコンピュータが存在する。そうしたコンピュータを相手にするなら、言語はCかJavaが良い。だから、CやJavaを勉強するのも間違っていない。僕も、CとJavaを勉強したい。
中学生プロ棋士の藤井四段がデビュー戦から負けなしの29連勝(歴代単独最多)を達成した。本当に凄い。おめでたいと思う。日本の新しい世代を引っ張ってくれるような、そんな人間になるのではないか?むしろ、本当に日本人は賢くなっていると僕は思う。どんどんまともになっているような気がする。悪い時代とは言うが、僕はそんなにつまらない時代ではないと思う。
テレビで、藤井四段の強さの一つを、詰将棋を10年間も続けたことで得られた「直観力」だと言うが、僕はそれは自分でも良く分かると思う。全てが分かって、長い経験があれば、人は直観で分かるようになる。ただ、それだけではない。負けず嫌いなところや、半年でとてつもなく成長している、と言うところが、僕と良く似ているのだ。自慢がしたいわけではなく、僕も藤井四段と同じことをやっている。そういうものだ。
人間は同じことを何度もやっていると、そのことを通じて色んなことが出来る。諦めない気持ちは、受け入れる心へと繋がる。僕の藤井四段と違うところは、闘争本能だと思う。藤井四段の師匠が、「藤井四段は闘争心の塊だ」と言って「負けた時はこの世の終わりのような顔をする」と言っていた。僕は、それと全く違って、「いつでもこの世の終わりだと思っている」のであって、「闘争心なんか全くない」と思う。ただ、それも自分で思うだけで、他人から見れば違うのかもしれない。
結城浩さんのC言語プログラミングレッスンを読んでいる。昔の僕は、ネットで聞きかじった知識だけでパソコンのことを良く知っていたが、昔は本を読まなかった。今この本を読むと、本当に面白く読める。もう、一章までは読んだ。これからこの本をLinuxの本と一緒に読んでいきたい。
いつも、ストールマンほどにコンピュータが分かったと言っていたが、さすがにそれは言い過ぎで、だが、結構本当にパソコンのことには詳しかった。
僕は、「パソコンはクライアントの方が速い」と言うのは幻想で、今からはサーバーサイドが速くなっていくと思う。FFFTPのようなクライアントで処理するアプリケーションは、次第にサーバーへと移転していくような気がする。
きっと、Xサーバーは先見の明があったのだと思う。色んなサーバー側に立てられたアプリケーションを、クライアントから操作していくようになると思う。ただ、それをオープンにするのは、また別の話だ。マストドンと言うオープンソースのツイッターライクなWeb短文投稿システムがあるらしいが、きっとそれもそれはそれでいいのだと思う。