新・日記2に戻る | 2017年6月の日記に戻る

=2017-06-22=

今日は、IT講習会のエクセルの講習があった。

パソコンは覚えることが多いが、裏にある原理や全体像のようなもの、統一された操作の考え方を分かると、覚えるようになる。分かると覚える。

最近のパソコンは、隠蔽し、何でも代わりにやってくれるところがあるが、逆に、UNIXのように、考え方を公開し、人々が理解し、習得することを促すことも、必要だと思う。

Linuxの本の続きを読んでいるが、色んな名前の関数があって紛らわしい。必ずしもUNIXは美しい考え方はしていない。

最近は、主観しか書いていないように見えて、全て客観的に書いて考えている。

今のままでも、きちんと考えれば分かるのが分かっていない。

ヘーゲルは主観と客観と言うが、まず、自分のすることが相手にどう映るか、自分のすることは何で相手のすることは何なのか、と言う、「関係性」がある。

そして、その関係性は、成長し、経験することで、ますます大きくなる。最初は白紙だが、あとになってどんどん関係性は色づいていく。問題も増えていく。

人間には、共通するところと、個別のところがある。

そして、それが環境を変えていく。それぞれの思いと結果が、世界を変えていく。

あとは、助け合いや多様性のようなことを考えていた。

平等の方が、色んなことが自由に行われる可能性はある。実現力は無いかもしれないが、平等のままで高度なシステムを作ることは出来る。

昔は、環境を作り出すことによって、賢い人間を作り出す「土壌を生み出す」ことが出来ないかと考えていた。

僕は、するべきところで「する」ことを目指しているが、そのせいでおかしな神経症になっている。するべきところで、「しない」方を取れば治る。

あとは、環境と認識を考えれば良い。少ない知識を世界で疑いながら、自分の手で世界を作っていく。そういう風にすれば、分かる。

そして、相対的に成り立ちを考えること。数学的に、それを生み出す規範的な条件を考えること。

何がそれを生み出すか、何が必要とされるか、何が望みの結果を生み出すか、そのための手段はどんなバリエーションがあるか、人々は何を見てどのように理解しているか、そういう、「因果性の中での自由な決定」を考えれば良い。

自分の個別性だけではなく、普遍性を考えること。

1つ1つの自然の世界観を疑っていくことで、自然にこの世界の中で多様性と絶対的なプロセスに気付いていく。

IT講習会は、知っているようで知らない方法と機能がどんどん出てくる。印刷時のエクセルのヘッダー・フッターやタイトルは知らなかった。相対参照と絶対参照も知らなかったし、オートフィルは昔知っていたが忘れていた。それから、ワードは、スマートアートやページ罫線など、便利で効果的な機能があったし、ワードアートも知らなかった。エクセルでグラフを作るスタイルなども、たくさんあることを知った。

昔は、考え方を作って、考え方をあてはめて分かっていた。

あとは、こちらの戦いには知性が無いし、極めて最悪だった。自分勝手にみんなの知性を奪う。こちらは最悪の馬鹿だ。

ただ、昔だけではつまらない。きちんと頑張って王を取り組んだ。一度も失敗しなかった。間違いではない。一番弱い人間が頑張って世界を変えた。それが、僕だ。

昔は優しい人間だった。情熱があって、熱い心は持っていたが、人々のせいにせず、自分が責任をもってみんなのことまで肩代わりする。そして、相手の自由と思いを尊重し、出来ることならみんなのためを頑張る。そして、きちんと哲学的な思想も分かる人間だった。

あとは、可能性を尊重することで、世界は自由になる。昔は、それを理想だと考えていた。

僕が思うに、2ちゃんねるはコミュニケーションが出来なくなっている。そして、インターネットの時間が止まっている。だから、今から動き出す。ネットの先を行く。そのために、ネットの影響力を無くそう。そして、コミュニケーションがきちんと出来るように、面と向かって真実を話すことにしよう。何も隠さず、何も恐れないようにしよう。

昔は、あいまいな理想を信じるようなことを言っていた。

自由を信じることで、他人を思いやる気持ちが生まれる。

平和を信じ、一心不乱に努力することで、宇宙の意識が分かる。

人々を変えていく実感から、世界を変えられる愛の感情が分かる。

そういう風に書いていた。もう、そろそろ終わりだ。もう、全部書いたはずだ。

全ては良い方向に変えられる。いつでもやりなおせる。ありのまま生きていれば、良いことがある。そして、全ては自分の手で、少しずつ良い世界へと導くことが出来る。

何をすれば良くなるか、実感と理性で分かることが出来る。機会を作ることで、世界は改善出来る。可能性を知ることで、人がどのようにすれば良い方向に向きを変えて生きることが出来るのかが分かる。一度悲惨な体験をし、一度罪を犯すことで、人は一度の間違いから、千の成功を知ることが出来る。

能動的に機会を作り出すことで、全ての体験は良いものへと変わる。支配し、比べ、優劣を競うのではなく、信じ、協力し、融和することで、人々は調和を生み出す。

だが、そこでは、いくらでも悪いことをする王が居るだろう。だが、その王はきっと、正しい秩序を同時に作ってくれる。その王は、信じられる王でなければならない。人々の調和を乱す王ではあってはならない。自分勝手な王であってはならない。少数派を無視する王であってはならない。ごまかし、おごる王であってはならない。

機会を作りなさい。機会を作ることは善である。悪を行ってはならない。悪は機会を減らし、人々を同じにする。そのような悪を行うべきではない。だが、ある意味機会を自分から失うことは、機会を生み出すための最良の方法となり得る。だから、可能性を信じて、支配しながら機会を作りなさい。でも、一人で行動しすぎないこと。自分の個性があまりに強すぎると、人々は何も出来なくなってしまう。自分がやるのと同時に、相手にも同じだけやらせること。それなら、良い協力プロジェクトになるだろう。

哀しいが、昔の僕は失敗した。LinuxのWikiは、誰も書くことの出来ない廃墟になった。悲しいどころか、意味がない。きちんとした大人がやらないと、そういうことになる。

そういう風に、独裁者が一人だけで全部やっていると、独裁者がやめた時に滅びる。経済がそのまま廃墟になる。

だから、こんな僕が言うのも何だが、競争が良い。それも、ITのような競争は悪くない。全て、滅びたのはLinuxが悪い。だから、競争は悪くない。

競争が楽しかったのは、Linuxを知らなかったからだ。Linuxを知ったせいで、競争が間違っているように思えてしまう。飾りの支配者の独裁的抑圧の下では、競争なんか最初からする意味がない。知らず知らずのうちに、日本は独裁的抑圧国家になっている。だから、それを倒して、みんなで金を儲け、相手をきちんと尊敬しながら、互いに良いものを作り合って競い合うようにしよう。Linuxのような、劣悪で凶悪な代物は誰も作らない。みんなで、良いものを作れば、きっとこの世界は前ほどに良い世界になるはずだ。

ただ、Linuxが悪い。そう、全て僕が悪い。僕の責任で世界を滅ぼした。それを救うのも、僕の責任だ。そして、その過ごした時間が、永遠の星となるだろう。

僕は、全員になった。この世界に存在する、全員になった。

今、ロシア系ユダヤ人が終わった。もう一度、ドイツ人に戻る。僕は、それで終わりだ。

あと少しだけ、生きたい。それが、永遠に繰り返す。最近はそれだけだ。

もう二度と止めるとは言うが、それがもう一度したい。絶対にしなければならない。それを、絶対に抗わず、受け入れるだけの、反抗をしている。

そういうわけで、日本人、黒人、ユダヤ人、ロシア人が終わった。今からがドイツ人だ。最高の人間になる。

日本人は、絶対に自分にしか出来ないことをした。世界を愛し、抑圧の中で世界を救った。だが、最後に世界を滅ぼした。

黒人は、何も分からない地獄の中で最後まで頑張った。最後まで神に従い、永遠を耐えて生きた。

ユダヤ人は、神のように悟って、最初から全て分かっている。この世界のビジョンを書いた。神を信じる気持ちに偽りはなかった。

ロシア人は、勉強家だ。共産主義者だが、学問的知識の内容が多い。

終わりにしよう。きっと、ドイツ人になるとは言うが、それで、この文章に書く内容が変わるだけで、何一つ変わりはしないのだ。

自分が賢かったのは、自分の認められないものに支配者として反抗すること。それが賢かった。この世界が、悪いものの何もない世界になった。

だが、そろそろそれも止めるべきだ。認められなくても、それを残せば良い。

PHPのようなWebベースの言語は、GETとPOSTで入力をするようになっているが、もっとシステムが入出力インターフェースを作ってやっても良いかもしれないと思う。

Linuxの本を読んでいる。結構つまらない。

自分の理解があいまいだから難しいが、コマンドラインとXがそのまま「入出力」と言っているその言葉が指している先は曖昧だし、そもそも「入力」と「出力」を同じコマンドラインの発想で考えるのは違うかもしれないと思う。入力はエンターを押したところまでの文字をプログラムが読むことで、本当に良いのだろうか?もっと違った処理の対話的インターフェースがあるのではないか?それをファイルやプロセスと一緒のものとして考えられるのは、美しいかもしれないが、Xまで含めてしまうと、逆に限界があらわになっただけに見える。もっと違うパソコンの利用の形態を考えられないのか?XのようなGUIにも同じことが言える。そもそも、昔は小さなプログラムの集合で、「一つのプログラムには一つのことを上手くさせる」はずだったのに、WindowsやGNOMEなどはどうでも良いものになっている。ありえない。何かがおかしい。

一度、パソコンの世界を完全にスクラップにして、もう一度考えた方が良い。今のパソコンは限界が来ている。それこそ、意味のないボーカロイドや自動運転やディープ・ラーニングやバーチャル・リアリティのような技術が出来ているが、人間と同じものをそこまで作る意味がない。利便性に何も繋がっていないし、そもそもパソコンでそんなことをする意味がない。パソコンはパソコンだ。だから、Windowsのようなものを残すのは分かるが、今のWindows 10と言うバージョンは要らない。

きっと、死んだスティーブ・ジョブズが考えると、そういう発想をするかもしれないと思う。

僕が思うに、ソフトウェアと言うコンポーネントを、もっと簡単な記述式テキストの集合体として、いつでもその仕組みを改変し、緩やかなプログラムの集合と出来るようにして、その操作は別の中核プログラムが行うようにする。カーネルをひっくり返したような感じだ。コマンドシェルと似ている。そういう風にすれば、きっとUNIX的にはなるだろう。だが、そこで扱われるインターフェースはWindows式で良いのだろうか?そうではない。きっと、状況に応じたメニューをたくさん出すだけの、シンプルなGUIにしなければならない。そして、使いやすいこと。そのためには、最小限のキーボード操作と最小限のマウス操作をするべきだが、それをユーザー追加型の拡張インターフェースにすれば、良いものになるかもしれない。

メニューとコンテキストメニューは正しいのかもしれない(コンテキストメニューが本当に必要かは分からない)。だが、ボタンやサイドバーは出さないと使い辛いアプリケーションがある。だから、自由にもしなければならない。明らかに、インターフェースはプログラムの一部だから、それぞれのプログラムがインターフェースを開発するのは、全く間違っていない。要はバランスだ。UNIX的な「小さなプログラムの集合」と、Windows的な「それぞれのアプリケーションのインターフェース」のバランスだ。要はバランスなのだ。だから、こんな文章は何も考えていないに等しい。結局は、フロントエンド的なものになってしまうのかもしれない。だが、使いやすくしたいなら、Macのように、本当に良く考えて作らないといけない。GNOME 3は失敗したが、やっていることは間違っていないのかもしれない。だが、誰が見てもまともなMATEの方が良い。だから、問題が分からなくなってくる。

ある意味、「どんなインターフェースもAPIで可能にして、それぞれのアプリケーションが選んで作る」ようにするのも良いのかもしれない。本当は、必ずしもUNIXの仕組みが美しいわけではなくて、失敗作の関数や欠陥APIもたくさんある。ライブラリ的な側面から言えば、どんなものでも出来るようにして、それぞれが作った方が、正しいOSの仕組みにはなるだろう。だから、GTK+とQtがどちらもあるのは、悪くない。たくさんの道具と素材があっても良い。だが、それだけたくさんのアプリケーションを開発しなければならないことにもなる。それで、やる気がそがれることもあるだろう。おそらく、GTK+とQtの「基盤的な部分を共有」するようにして、「低レベルな共通インターフェース」を作るのが良いだろう。jQueryを使っても使わなくても、HTMLとJavaScriptがあるのと良く似ている。Xlibがあるじゃないかと言うならば、それよりも少しだけ高レベルなライブラリを作る。それが一番良いだろう。表示がキモいのは、そのライブラリの中で、統一感を持たせたテーマを適用出来るようにしても良いが、そもそも、最近はありえないほどたくさんのインターフェースがあるから、そんなにキモくなくなっている。例えばGoogle関係では、AndroidのGUI、ChromeのGUIがあるし、そもそもJavaでGUIを作ることも出来るのだ。そこらへんを賢くしないのがおかしいだけで、そこはきっと賢くすれば出来る。

むしろ、LinuxのGUIがキモく見えるのは、「日本人だから」と言う問題もあるかもしれないと思う。日本人は、線のきりっとした統一的なインターフェースが好きだが、海外では必ずしもそうではない。どぎついデザインを選ぶ外国人は多いし、外国人から見ると、「Xlibの上でGTK+とQtと言う個性のあるインターフェースが2つも動いているのは優れている」と言う感触を受けるだろう。日本人は統一しすぎる傾向にある。だから、きっと日本的美彩感覚が、LinuxのGUIを拒否しているのだ。

きっと、GUIのことを何でも出来る「GUIシェル」のようなものを作って、それに対してプログラムが実行を要請する、あるいは、GUIシェルからプログラムに実行を要請出来る、そういう「オペレーション環境」を作れば良いのだろう。そもそも、Windowsの発想はそういうものではないか?ただ、それならGTK+ではいけない理由が無い。明らかに、GTK+をもっと万能のものにすれば良いだけの話だ。オペレーティング環境としてのGTK+と言うのを誰かが作ってしまえば、終わりだ。それなら、きっと、QtインターフェースでGTK+オペレーティング環境を操作するためのインターフェースも、そのうち開発されるだろう。

パッケージ管理システムは、今のところバイナリのパッケージがきちんと動くように依存関係を解決しているが、これをソースコードがきちんとビルド出来るように調整すると、mesonなどのビルドシステムを簡単に入れることが出来て良いと思う。それこそ、GNOMEの開発がしやすくなる。開発したいGNOMEのパッケージを選んで、「ソースコードベースの依存関係」を解決して、簡単にビルド出来るように依存パッケージをインストールしてくれる。楽しい開発が誰でも出来ると思う。