ツイッターは、中毒性があるため、止めた方が良いと言われたので、止めます。
出来るだけ、文章も書きたくないのですが、まだまだ書きたいことがあります。
昔は、ナショナリズムのようなことを言って、資本主義の自由を考えていた。
会社の仕事のようなことを、ネットのチャットなどで経験し、それ以降は、色んな体験をしていた。
何もない体験を繰り返すことで、そこから世界のことをどのようにしたら良いか、経験的に環境の行動から分かった。
経済学者から、心理学者となり、宗教家のようになった。
独自の発想をすることで、みんなと同じ発想が出来た。
機械から会社、社会まで、あらゆることが実現出来るぐらい、経験がついた。そういう、資本主義のマスターだったのが、昔だ。
あとは、いつ何が分かるのか、人間のことを総じて全て分かっていた。だが、子供のようだった。独立は、平等から生まれると考えていた。
最近の文章は、文章を書きながら論理的に考える。心理学者の経済学者をいつまでもやっていた。自由な共存から多様性が生まれ、多様性は平和を生む、と書いていた。
自分は、今日、治らない方が良いのが分かった。治らない方が、良いものになる。虫がいくらでも増えた方が、良いものに変わる。だから、治る時に自然に治れば良い。
ある意味、足は固定させた上で分離させれば、すぐに治る。
どんな社会からどんな社会が生まれるか分かっていた。この世界の転換の原理を全て知っていた。
歴史やシステムのことを、想像力(創造力)と実感で分かっていた。
昔は、心の中にある観念を良く考えた。経験論的に、心の中の現象を考えていた。それで、知性の世界モデルを作っていた。
僕は、もう、この世界を昔に戻す。そして、自分は賢くなる。
ツイッターに居るのを止めたせいで、僕は、もうこの世界に居ない。あとは、誰かがこの文章を探すのを待っていれば良い。
足は、もう楽になった。不思議と、治すのを止めれば良いだけだ。変に動かすのを止めれば、すぐに一番辛い部分が死んで治る。
自分は、「馬鹿になる」とか「まともになる」とか宣言したのが悪い。何も賢くない人間になった。
今一度、僕は宣言する。僕は賢くなる。銀河系のような存在になって、世界一賢くて最高の人間になる。
あとは、もうこの文章は書かない方が良い。作業所でも相談したが、この文章を書いていると、無限ループに陥って、頭が辛くなる。今日は辛くなくても、明日辛い。
楽しいと言えば楽しいのだが、この文章はもうほとんど「辛い」の代名詞だ。
この文章は、これでは「経験がたくさんあった」のが分からないと思う。
たくさんの経験があった。経験から、意識で分かっていた。
引き篭もりの、不良少年のようなとがった子供が、みんなと関わる中で、次第に指導者に変わっていくような、そういう経験があった。
回想と環境から分かっていた。そして、技術者や経営者のような経験から、スラムのような経験、そして、ブッダのような「経験的段階を越えていく」経験、などがあった。
何もない繰り返しの経験から、創造性を知り、社会全体を変えられるビジョンを持って、「環境を実現出来る人間」になった。
ただ、現実を見ても分からない。ネットを見ていると、2ちゃんねるからLinuxとなって、OSを作るために勉強しようとし、GNOMEやmonoを追いかけるような、そういう人間だった。
経験は、場面を思い出すだけでは分からない。本当は、それで何を分かっていたのかを思い出せば良い。
情熱と愛があった。個性と独自性を失わないようにしながら、自由を制限せず、人々を「こんなに悲惨な世界」から連れ出すためには、どうすれば良いか考えていた。
そして、Linuxの経験、特にはてなやブログのような経験を元に、絶対に正しいOSの仕組みを書いていた。
自由から分かっていた。体験を作って分かった。体験と認識と論理のモデルを作って、環境を支配的に考えることで、全てが分かった。
何がどうなるかを知ることから、世界の全てを支配出来るようになった。そして、ネットの知識だけで、あらゆる学問を横断するほどの考え方と集合知を知った。
そう、BugzillaとUNIX Toolsを信じていた。
そして、その愛は、Linuxに対する偏愛から、世界全員に対する「滅びの愛」に変わった。絶対的王者となった、最弱の王だった。
僕は、それ以後、本当にこの世界を見つめ続けるだけだった。何のために生まれたのかが分かった。僕は、全ての今までの自由を裏切り、自分から自分を失う。それは、「絶対に自分にしか出来ない」と言う、「黄金の覚悟の諦め」だった。
そのまま分からなくなって神になった。それは、自分が神になると言う意味での、神とのコミュニケーションだった。
ただ、僕は神なんかじゃないし、もっと最低の人間だ。僕はそのまま作家になって、色んな勉強をして、楽しく今を生きている。
結局、経験とは何だったのかは分からない。だが、きっとたくさんの経験をしていた。創造性、目的、真実、根拠、確かな実感、そして愛情と友人とのきずなのあった、宇宙の全て、環境の全て、意識の全てを知る経験だった。それは、「理性への抗い」であり、「自由への道を作ること」だった。
本当の経験とは何なのか?それこそ、そんなに大した経験じゃない。ネットの中で、自分の夢をあきらめきれず、人々に対して辛く当たり、そこから分かった。環境の絆と言うのは、環境保護団体が砂浜のごみを一人だけで綺麗にするような、ごみを集め続けるような、そんなちっぽけな経験だった。それが、僕のしていたLinux活動と、同じだ。